正直屋洋品店
雑貨洋品業
尾上町4丁目59番地(609)
明治15年開店で正札販売の開祖。明治12年に横浜に移り、織物貿易を始めたが雑貨洋品業へ転じて馬車道角で正直屋を開業した。正札付き掛値なしの販売方法で人気になり、正直屋と言えば三歳の児童も知らない人はいないと言われるほどであった。
明治の横浜手彩色写真絵葉書
「主人が在宅である云ふから刺を通じると、来客中であるからと面会しなかった、聞く處に據ると郷里の沼津で悪辣を振り廻したので鼻つまみになり、當地に流れ込んできたのであって、先代の椎野正兵衛が本町の邸宅を賣却する間に立至って、何やら甘い汁をウンと吸ひ込んだのがもとで今の家産をなしたのであるとのことだ、日露戦役の折我軍戦捷の號外が出ると、直ぐに一せんも負けなしと云ふやうな立看板などをして中々抜目の無いことをやる、併し看板通りの正直であるや否やは保證の限りでない。」実業之横浜
正直屋 長谷川久吉「名は実を現はすとは本舗に対するの適評なりとす其品実の精撰に於て其値段の掛直なきに於て優に其名詮自称に背むかざらんや」京浜名家総覧職業
「尾上町五丁目角店商品豊富なり。」横浜遊覧商業案内 t.02
正札販賣の開祖(正直屋洋品店)長谷川榮太郎「大江橋より電車道を一直線に突當り、馬車道通りの角に壯大なる三層樓の洋品店あり、問はずして有名なる正直屋長谷川榮太郎君の店舗なるを知る、正直屋洋品店は正札附懸直無し販賣の開祖にして、馬車道通りの一名物なり、店主長谷川君は元江戸の人、嘉永六年に生れ、家は代々呉服商を營みて德川家及諸藩邸の御用達を爲せり、君は維新の際祖父に從て靜岡に移住し、家業を助けつつ麥稈眞田の製造に留心し、明治五年榮巧社を立つ、麥稈帽子の製作をも試みしが事情ありて此れを中止し、明治四十二年初めて出濱し、絹物貿易に力を注ぎ、傍ら獨力商業を試みしが、開港草創時代の弊害なる所謂懸値掛け引の餘り甚だしく、輸入雜貨の如き東京よりも却て割高の奇觀を見るに慨する所あり、率先是れが廓清の急先鋒に當らんと欲し、十五年洋品店を馬車道なる今の武藏屋呉服店の所に創め、傳來の家號駿河屋を捨てて珍奇にして而も呼び易き正直屋と冠し、名詮自稱正札附懸賣なしを標榜して賣出せしが、習俗に逆ひたる爲め當初は氣受宜しからず、同業間の反對も激しかりしが、不屈不撓誠實を以て所信を断行せしかば、數年ならずして漸次信用を得、顧客も却て安んずるに至り、後には同業以外までも翕然として之に傚ふに及べり、斯くて營業隆盛の結果現在の好位置に轉じ益々商務の擴張を加へ、現今にては市の内外を問はず東海道筋其他へ手廣く仲間取引をも爲し、儼然たる地步を占むるに至れり、」横浜成功名誉鑑
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