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俵屋旅館 本町

俵屋 江草宇吉・なみ
旅人宿
本町5丁目70番地
(369)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


椎野賢三絹織物店 本町

明治時代の横浜本町通りの古絵葉書、椎野賢三商店

椎野賢三商店
絹物加工品貿易商
本町1丁目19番地
椎野賢三は嘉永4年(1851)西松松五郎の長男として浅草に生まれる、のちに椎野定七(利七)の養子となり、明治4年(1871)に家督を継いだようだが、椎野正兵衛の妹と結婚した(S.SHOBEYより)という話もある、定七とは椎野正兵衛の父のことなのか、定七、正兵衛との関係など不明である
賢三の息子に賢三郎(明治12年生)がいるが、賢三の跡は娘シユンの夫である椎野(小野)定(明治8年生)が継いでいる
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

絹物加工品貿易商 椎野賢三「横濱に於ける加工絹物輸出に古き歷史を有せる椎野賢三君は、明治六年墺國維納博覽會事務官に隨行を命ぜられ、墺獨兩國の有名なる絹織物羅紗製造工塲及加工塲等を視察して歸朝し、爾來歐洲輸出の絹織物に就きて研究數年、明治十六年に至り獨立開店せり、嘗て歐洲大陸に於て視察せし要點を斟酌して、我國刺繍に重を置き、輸出を計りし其明や違はず、非常に歓迎せられしも、在来職工の風習類る劣にして動もすれば時機を失するの悔なしとせず、君一計を案出し幼女を養成して職工に當てしに、綴密にして細心なる點優に男工を壓し一革新を與ふるに至れり、君又初二重加工品の原科僅少なるを憂ひ其の生産力を増さんとせしが、常時僅に京都を除きては他に機業地なし、よりて上州の織物仲買人小野里喜左衛門氏と計りて桐生に於て試織せしめ、両三回の検定を経て顔る良成績を収むるを得たり、時に明治十七年八月なりき、それより各地競ふて之れを試織し、ハンカチーフ其他加工品の原料として莫大なる需用あることとなれり、次に甲州特産なる甲斐絹の産額少く其幅狭きを改良して上州に於て織成し輸出を試みしに、是又意外の好況を呈し完全なる輸出品となれり、君は斯の如く絹物輸出に於て多大の功績を有するとともに、自家店舗も年と共に益々盛大に赴き、絹商椎野の名は遠く海外に及びて知らざるものなし、君は東京浅草の人、本年實に五十有九歳、」横浜成功名誉鑑

椎野賢三「欧米各国に我国特産の絹織物を供給して外商間に盛名を博ず戦後の経営頗る斯商者に竢つ亦多大なりとす豈奮勵一番せずして可ならんや」京浜名家総覧職業

murray

Yokohama and Vicinity

福島商会横浜支店 本町


福島商会横浜支店
内外有価証券売買
本町1丁目12番地
明治38年(1905)12月31日に福島浪蔵が設立した内外有価証券売買など金融を扱う合資会社で本社は東京日本橋にあった。福島浪蔵は大正8年1月18日に亡くなり、同年8月25日に横浜支店を廃止した。

福島商店が入居していた建物には入口が2箇所あり、通りから見て左側を借りていたと思われる。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

川本陶器店 本町


川本陶器店
陶器商
本町1丁目18番地
(3620)
明治20年8月創業、川本健吾
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

安西徳兵衛生糸貿易商 本町

安西徳兵衛商店
蠶絲貿易商
弁天通1丁目16番地
本町2丁目34番地
(65)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

安西徳兵衛「全国に生糸の取引を有し船便毎に外邦へ輸送する實に莫大なりとす其集積の貨物多きを以ても知るべきのみ」京浜名家総覧職業

生絲界の耆老 安西德兵衛「我國會社として蠶絲直輸の嚆矢たる二本松製絲工塲は實に安西徳兵衛君が小野組及其鄉友と共に創設せられしものなり、君は福島縣二本松の人、幼にして朴直重厚頗る群童と異に、郷黨の重ずる所となる、明治三年橫濱に來り小野組に入る、明治六年以來專ら製絲會社の爲に盡瘁し、或は直輸出を企畫し、或は賣込に從事せしが、明治十八年不幸にして會社解散の悲運に會し、同年七月自から店を辨天通一丁目に開き、廿九年十二月現在の本町二丁目に移轉し、商運次第に發展し販路大に增進し、本港生絲商中屆指の巨店に數へら るるに至れり、明治四十一年店規を合資組織に改め、宏壯なる三層樓を新築し、令息直藏氏をして業務擔當社員たらしめ、十八年來勤續せる今泉卯吉氏を代表社員とし、君は單に一社員の資格を以て本牧十二天の別墅に閑日月を樂しめり、君が開港以來一意生絲輸出に盡くせし功勞は世人の普く知悉せる所、今更喋々の言辭を弄するを俟たず、 又公共方面には曾て蠶絲及羽二重の同業組合役員を始め、市會議員及商業會議所議員として永く實業界の重鎮たり、現に又橫濱火災運送保險會社其他の重役として勢望あり、而かも今や古稀を過ぐる已に一齡、 後を有爲新進の俊才に譲りて橫濱隨一の勝地に餘命を托せらる、功遂げ名揚がりし高蹈勇退の耆宿、古人の面影髣髴たるを覺ふ、」横浜成功名誉鑑

横濱取引所商報

謙光社製茶商 本町

謙光社
製茶売込
本町3丁目41番地
静岡県榛原郡、城東郡の製茶業者が横浜における売込を協力して行う目的で明治13年頃に謙光社を設立した。明治16年、牧之原の茶園を開発した丸尾文六を加え改組しアメリカへの直輸出に取り組んだ。明治21年に尾崎伊兵衛の製茶問屋、富士製茶会社を起源とする富士商会に吸収合併された。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


日米銀行横浜支店 本町

和英横浜案内
日米銀行横浜支店
本町4丁目56番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

原鉄運送店 本町

神奈川縣案内
原鐵運送店
海陸運送業
本町6丁目83番地
(241)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

原鐵運送店 木津川友五郎「明治元年原鐵五郎氏によりて、發企されし古参の運送店なり、本店は日本橋區本材木町二丁目にあり、景初は和船運漕を主とせしが後汽船積回漕に變換し、明治廿三年東海道鐵道全通と共に陸送業をも開始し、創業茲に四十二年、全國樞要の地到る處として支店出張所の備あらざるなく、其設備の完全なる所より諸官衙實業各團體等は特約して送運の任に當らしむ、本店主武田豊次郎氏は日本商船會社帝國自働車運輸會社等の重役を兼ね、謹嚴なる名望家なり、橫濱支店主任木津川友五郎君は千葉縣の人、明治卅四年武相組運送店より轉勤せられたるものにて、事務に老練なるは衆の認むる所なり、別に境町に出張所あり、電話三六三番にして迅速敏活に執務されつゝあり、」横濱成功名誉鑑


横浜市商工案内

上州屋旅館 本町

上州屋旅館
本町6丁目81番地
遠藤於菟設計の木造3階建てで旅館の他、回漕業なども兼業した
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


横浜生糸株式会社 本町

横浜生糸株式会社
生糸、綿花
本町4丁目58番地
明治44年(1909)竣工
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「生絲直輸出の目的を以て設立せらるれたるものを生絲合名会社とす同社は事業の発達顕著となり隆盛に進めるより新に広壮なる建築を為し一層事業を伸張し本邦生絲直輸業者として三井物産に次ぐ輸出高を有する極めて有望の会社なり況んや敏腕の聞ある山田松三郎氏之が社長たるに於てをや。」現代之横浜

「生絲合名會社は曾て同伸會社副社長たりし新井領一郎氏の發企に係れり、原茂木等の豪商資本金五十餘萬圓を醸出し、明治廿六年十二月を以て開業せり、廿八年に至り社員中の同志別に生絲直輸出合資會社なる者を組織し、生絲合名會社が製絲家より買ひ集めたるものを更に買ひ取りて海外に直輸する計書なりしが、同一社員が二個の會社を經ざれば貿易をなす能はざるは頗る其策の迂なるを認むると共に、一方には時勢の進歩に伴ひ直輸出の危険を減じたるにより、卅二年中二合併して資本金を増加し、爾来 一箇年二千萬圓内外の直輸出をなすに至れり、刻下の代表証員は伊藤富次郎君にして、君は三重懸の富豪伊藤小右衛門氏の四男文久二年八月を以て生れ、夙に斯業に従事し着實の誉れ高し、合名會社の發展して今日に至れる職として君の力に待つものあるは論ずべきなし、」横浜成功名誉鑑


シルク

生絲日報

大澤牛乳販売 本牧町

現在の横濱
大澤合名會社
牛乳搾取業
本牧町1759番地
(511)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

牛乳搾取業 大澤合名會社「親しく米國に渡航して牛乳搾取業を研鑽すること多年、其間に自得せる豊富の經驗を以て帰朝後專心模範的の牧場を設け、市内同業者中の巨擘とし名を馳せたりし故大澤延太郎君は下愛甲郡三田村の人で、明治十一年來りて本牧町に期業を始めたのであった、天英邁にして仁德あり、斯界の先輩を以て重んぜられたが、惜い哉先年病を以て歿せられた、され共鞏固に築かれた基礎に因て今や後継者能く家聲を墜とさず、益々隆盛に趣きつつあるは賀すべきである、」横浜成功名誉鑑

大澤延太郎「廣濶なる牧場を有し數多の搾取者業務に従ひ純良無比なる牛乳を販賣し病院醫師及び洋菓商等より日々數石の注文をうけつつあり」京浜名家職業総覧 

神奈川県銀行会社実業家名鑑

広島屋旅館 本町

廣島屋
旅館
本町5丁目70番地
(494)
明治初年に野毛で開業し尾上町へ移転、明治15年(1882)本町に店を構えた。回漕業や移民の宿泊なども取扱っていた
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

廣島屋 井澤吉五郎「乗船せんと欲して波止場に近く乗車せんと欲して停車場に接し會社商店の重なる者は大凡本館の付近にあり繁栄故なきにあらざるなり」京浜名家総覧職業

廣島屋旅館 井澤吉五郎「古くより繼續せる大旅舘の一なる廣島屋は明治初年の開業なり、店主井澤吉五郎君の先代は神奈川驛の出身にて初め野毛にて營業せしが、明治十年尾上町三丁目に轉じ、十五年再び現所に移る、鐵道全通前の繁盛は非常のものなりしと云ふ、其後東京神田小柳町に支店を設け、令息佐吉氏に本店を譲りて、君は現今東京にあり、本店の業務は回漕業を兼ね及び移民の宿泊等をも取扱ひ、關内旅宿業組合の服行事を務め、又移民宿泊業組合の協議員として同業中に重望あり、君本年六十一歳、東京信用銀行及東京製氷株式會社の重役として令聞あり、」横浜成功名誉鑑


陸送組運送店 本町

陸送組
海陸貨物運送
本町6丁目79番地
(67)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

陸送組 飯沼ゆき「本舗は山形屋回漕店の陸送部と云ふべく兩々相待て貨物の輸出入を迅速ならしむ斯業の老舗にして又信用ある運送店なり」京浜名家総覧職業

海陸運送業 陸送組運送店「明治六年鐵道の開始と共に開業せる運送店の一は即ち陸送組である、經營者は靜岡縣人故松永平次郎君で以前茶商を營んで居たが、日本鐵道の株主たる緣故から創業と同時に日鐵貨物を一手に取扱ふ事となった、而して熱心に働く內三十八年二月一日病歿し、未亡人飯沼秋子君が當面の人となりて今以て業務を繼續して居る、故平次郎君は二十二年頃別に海岸通四丁目に山形屋回漕店を出し、社外船のみに就て回漕の業を營むで居た、同店の運送は洋糖外米肥料を主とし、得意先は舊日鐵沿道及奧羽北越信州東海道等にある、秋子君は横濱の人で本年三十四歲、良人の亡後も尚ほ屈せず愈々奮勵して居る、」横濱成功名誉鑑


阿部蚕糸貿易商店 本町

横浜商品日報
阿部合名会社 横浜支店
蠶絲貿易商
本町3丁目46番地
(649)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

阿部太市「往昔毛利元就其子を戒めて曰く一矢折るべく十矢折るべからずと蓋衆力は強く容易に動かし難きに喩ふるなり阿部家は君の先代より生糸商を営むもの先代半七氏精力凡を抜き斯業を經營する年あり其子靑木金治阿部末之助阿部佐市氏及君を合せて兄弟四名を以て一團となり阿部合資會社を組織す同社は三十三年六月の創立に係り本舗は岩代福島市柳町六十六番地に在り支店は横濱市本町三丁目四十六番地に置く本社の經營する所は生糸の賣買玉絲其他製糸業にして支店は専ら生糸の輸出を業とし兩地相應じて斯業に貢献する所深く今や同商店の勢望愈隆しと云ふ君萬延元年十二月を以て福島市に生る半七氏の四男なり明治三十三年横濱に出で支店の主宰に任じ以て今日に至る君が斯業界の重鎮たるは人の能く知る所思ふに其幼より家業に浸染して見聞最廣く加ふるに其才氣の鋭發なる巧に商機を捉ふるに敏にして畫策常に當を得るに因るものか夫れ生糸は我か國產の首位を占め輸出貿易品の冠たる者其消長は實に國家經濟上等閑に観るべからざるものたるは論を俟たず随て斯業に従事するものに就きて其人材の愈多からんことを欲するは之れ濁り吾人の希望のみに止まらざるべし此間に在りて阿部合名會社の如き商勢隆々として旭日昇天の概あり能く斯業界の発展を圖りて止まざるものを見るは國家經濟の點に就きて最も世人の意を強うするところたらずんはあらず思ふて此に到れば吾人は益々阿部太市君の自重負荷を請はざるを得ざるなり古人曾て言なり曰く吾れ齡三十男兒一郷に關するあるを知る齡四十一國に關するあるを知ると君今や齢知命に近し赤此心を 體して愈々斯業に貢献する所ありて可なり冀くは君之を勉めよ」京浜実業家名鑑

蠶絲貿易商 阿部太市「兄弟内に鬩けども外侮を防ぐ棣蕚の情實に羨むべきなり、阿部太市君兄弟四人、同心協力先代の遺業を繼承して阿部合名會社を興し、蠶絲貿易商を營む實に明治卅三年六月なり、則ち本店は岩城國福島市柳町に置き、支店を橫濱本町に設く、是れ則ち君の主宰に係り專ら輸出を統管す、本支相呼應して互に業務を分擔し、着々として日に益々盛况を呈せり、由來生絲は我國主要の物産、開港以來終始一貫渝らざるは一に是れのみ、况んや東北七縣は産額最も多し、然れども君等の如き適才と機關とを一致するにあらざれば决して今日の進運を見る能はざりしならん、實に只君一家の繁榮に止まらず、我國力の上に於て至大の重荷を負ふもの、希くば國家の爲め奮勵努力を望むに切なるものなり、君や萬延元年十二月を以て郷里に生る、」横濱成功名誉鑑


シルク
横浜貿易新報

サムライ商会 本町

サムライ商会
美術工芸品
本町1丁目20番地
(915)
明治27年(1894)開業の古美術店。渡米の帰路に船中で出会った新渡戸稲造の影響を受けてサムライ商会の名を付けたと言われている。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

野村洋三 本町2丁目20番地「桑港街頭曾て奇装して日本飴細工を鬻げる黒髪の一青年ありき誰か知らん是れ現時横濱市本町に於て間口十間奥行廿五間の大陳列室を有し本朝美術品及び古器物を外人に込み實に斯業界唯一の大買として其の名内外に藉甚なるサムライ商會主野村洋三氏ならんとは君少壯學籍を早稻田専門學校に置き研鑽大に勗め十八歳にして既にスマイルス自助論を反讀する百廿囘スキントン萬國史を筆寫する三次なりしと云ふ其の精力の絶倫なる豈に驚嘆すべからずや既に這箇の精力あり其の今日の成功叉怪むを須ひざるなり翌年君外國僧侶に通辨として各地を遍歴し偶ま遠州三方原を過り茶園の盛大なるを視翻然として實業に志し其の九尾交六氏の移殖に係れるを聞き氏に就きて冀ふ所あり而して果さず更に渡米の雄圖を企て百方諸家に計り に己自の他又賴む可き者なきを覺り茲に飴賣りの奇案を畫して桑港に渡り見事失敗してお定りのボーイとなる後富士商會桑港支店に本邦茶の賣子となり鐵道王チャーレス、ハーソンの為に知られ氏の日本來遊に伴はれて一旦帰朝共に本所佐竹邸に在りしは世人の熟知する所なり而も得る所の資五千餘金蕩盡して餘すなきに至れり二十六年釋宗演師等の通辯として更に欧米に航し故ありて中途にして歸朝す次で横濱山下町バンタイン氏の館員となり幾くもなくしてサムライ商會を創立し辛苦經營遂に今日の盛運を見るに至れり聞く氏の商會を開くに方り軍事公債僅に二葉額面二百圓の資ありしに過ぎず而も是れ宮本某氏に懇請して融通したる所なりと又以て氏が經營の如何に多難なりし かを想見するに足らん而して双夫人内助の功最も 多きに居ると云ふ君は岐阜縣人明治三年三月十五日大野郡公鄉村の農家に生る」京浜実業家名鑑

サムライ商會 野村洋三「弘く海外諸国に特約を結び専ら新進の雑貨を輸入して需要者に供給し頗る高名あり蓋し斯業者の重鎮と仰ぐに足るべきか」京浜名家総覧職業

「美術雑貨輸出商として其名海外に顕はれ美術骨董王と称せらるるものをサムライ商会となす店主野村洋三氏は海外に対し熱心なる日本美術の紹介者たり。」現代之横浜

「本町三丁目北側なり。骨董、銀器、象牙細工等を以て『東洋キュリオスキング』の名に依り世界に鳴る。」横浜遊覧商業案内

サムライ商會 野村洋三「開港初年に野村三千三氏あり、五十年の今日野村サムライ商會あり、良二千石に野村知事あり、我横浜何奚ぞ野村氏に因緣多きや、野村洋三君は美濃大野郡公郷村の人、明治三年を以て生る、幼より、倜儻大志あり、笈を負ふて東都早稻田に學ぶ、後大洋を横斷せる實に三回、洋三君は實に名詮自稱に因るか、横浜本町一丁目に巍然たる高閣を築きて城櫓に擬し、諸家の紋所燦々目を奪ふ、サムライの語如何に外人の好奇に投ぜし、店頭の器玩服飾何れも純日本の特色品、一たび横浜の地を踏める觀光客は競ふて此の店舗を知らざるを以て愧となす、其商略の巧實に人意の表に出づ、當年の山城屋に比すれば膽氣或は缺如する所あらんも、其機智に於て彼は一籌を輸せん、サムライ商會亦横浜に於ける一名物と云はざるべからず、」横濱成功名誉鑑


murray

平沼商店 本町

平沼商店 横浜銀行
銀行
本町2丁目27番地
(26
慶応元年(1865)平沼専蔵が本町4丁目で引取商を開業、その後本町2丁目に『石炭屋』(屋号)を開店した。明治43年(1910)専蔵の三男の久三郎が頭取となって平沼銀行を開行、大正5年(1916)伊勢佐木町1丁目2番地に移転した
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

平沼専蔵 本町2丁目27番地「世間往々君を非難して言ふ高利貸にして徳義なく人を溝壑に顛はして顧みざるものありと鳴呼君や眞に如此にして擯斥すべき人なるか蓋し人事凡て棺を蓋ふて定まると云ふと雖も子は君が世人に誤解せられたることの比較的に大なるを悲むものなり人必ず萬全なるを得ず古來人傑として目せらる人の經歴を見來れば殆んど瑕疵なきものはなし瑕の大なるは偶々以て人物の大なるを證するも のなり現今の富豪者流其の發展の初期に於ては權謀を弄し術策を挟み危道に萬一を僥倖したるもの皆其軌を一にし行為の悖德沒理の大なる豈君が比ならんや惟所信に於て差あるのみ君が所信は萬人の翹望して已まざる金力の故を以て既に君の位置を作る萬人の嫉惡する所宜なり世上より過大視さる双已むべからざるか君は埼玉縣高麗郡飯野町の人天保七年正月に生る萬延元年出で横濱に居を卜し永住の地となす慶應元年始めて貿易商を開く同三年より明治元年に亘り米價暴騰し細民の窮狀甚しきを以て所藏の米穀を低廉に販賣救濟の途を講ず明治十年横濱取引所步合金取締役を命ぜられ同年第一大區議員に選擧さる爾來公共に實業に重任を負ふて事務に鞅掌する頗る多し廿二年海防費中に金五萬圓を献納し金製黄綬褒章を賜ひ從五位に叙せらる二十四年日本赤十字社特別社員に列し三十三年貴族院議員に任ぜらる三十五年叉横濱市より擧げられて衆議院議員に當選す三十七八年戦役の功に依り勲五等双光旭日章を賜はる君又公共事業に資を投ずるに吝ならず年々寄附する所數千圓を下らず嘗て十萬金を投じて平沼小學校を建設し貧民の子弟を教育するあり又獨力を以て有名なる金澤文庫を再興せしめたり所謂能く積みて能く散ずるのにあらずや」京浜実業家名鑑

實業界の偉雋 平沼專藏「人誰か毀譽なからむ 、世焉ぞ褒貶なからむ、大業を企て偉勳を奏するもの其逕路各異なり、棺を蔽ふて始めて功罪を斷ずべきなり、從五位勳五等平沼專藏君身を埼玉縣飯野の一寒驛より起し、或は江戶に或は横濱に、赤裸々の躰軀を驅りて労役に従事し、歩一歩百尺竿頭に到達せしもの、血河屍山は跋渉せざるも、硝煙弾雨は凌犯せざるも、凛乎たる豪膽斗の如く、常に商戦場裏に活躍飛動せしなり、勝算歴々向ふ處敵なく、堂々たる旗幟を一方に翻へすに至り、軽忽者嫉妬者争ひ起りて喧々囂々、時として嘲罵の言を放つものなしとせず、見よや古来戦國武士、身を徒隷より起こして汗血悍馬に鞭ち幾たびか死生の間に出没して漸く五位尉を辱ふするに至りては、家門の譽れ末代迄の績しと喜びしにあらずや、啻にその一家に止まらず世擧りて英雄と稱し俊傑と唱へて功名長く竹帛に垂る、世間何焉ぞ不公平にして而かも不均一なる、人を殺し世を乱し、蒼生を塗炭に苦しめて猶且英傑偉俊と崇拝され、産を作り家を興し、社會に貢献する者は却て悪罵嘲笑さるるに至ては慨然たらざるを得んや、平沼君國難に蒞みて或は海防費に或は軍事公債に、不時に在りては各種の公共事業に提供せし出資幾萬金なるを知らず、市に對する功労としては朝田又七氏の後を承けて、水道公債を整理し、難工事を敢行して三十薦の人口朝夕其恵に浴するを得せしめ、社會風教に關しては金澤文庫を再興して我國文學の命脈を績ぎし古名将の遺志を不朽に傳へしめ、貧民學校を建てて無辜薄命なる窮兒に暖かき同情を寄せたる如き、如何ぞ君の頭脳や冷静なるべき、君の抱負の大なる蓋し吾人の付度し難きものあらん、世の毀誉褒貶豈一噸一笑に値せんや、必ずや世人を聳動せしむる絶代の美事あるべきは吾等の信じて疑はざる處なり、」横浜成功名誉鑑

横浜銀行「銀行界の覇王にして濱港の巨傑平沼専藏氏の経営せる唯一の金融機關たり其信用其確實は巳に世評に上りて嘖々の名あり」京浜名家総覧職業

「故平沼専造氏の設立にかかり始め横浜銀行と云ひ後組織を改め平沼銀行と改称す、現頭取は平沼久三郎氏たり、財界に於ける平沼氏の偉大なる勢力の上に立てる銀行なれば行運隆々たり。」現代之横浜

平民的の金融機關 横濱銀行「資本金一百萬圓、積立金八十三萬二千餘圓、明治廿四年一月の創立にして、平沼專藏君の發起に係れり、君布衣より起りて金權を掌握し、前途の形勢に見る所あり、自家資産の鞏固と市塲金融の圓滑を圖らんが爲めに、慨然一家を銀行組織と爲す、特色とする所は平民的の商店風を以て簡便に取引を爲し、時間外と雖も行務を辨ずるに在り、別に貯蓄を奬勵せんが為め金叶貯蓄銀行を經營して專ら低利の貸付に應ず、支店を東京日本橋區小船町に置けり、頭取には平沼專藏君あり、取締役は平沼八太郎、野田半七の二君、監査役として相原定輔、吉田平吉の二君其任に在り、須賀甚藏君支配人として行務を統括す、」横濱成功名誉鑑


神奈川縣案内誌

三井銀行横浜支店 本町

三井銀行横浜支店
本町2丁目21番地
(890)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「我国二大富豪の一たる三井一家に依りて設立せられたるものなり資本金貳千万円積立金五百九拾五万円預金休戦貳百万円を有す当市支店は諸預金四百拾参万円にして貸付百七拾四万円割引手形四百九拾四万円あり正金に次で本市の金融界に活躍せり支配人は間島弟彦氏にして能く海外の事情に通じ銀行家として令名あり。」現代之横浜

我邦最古の銀行 三井銀行橫濱支店「三井銀行の起原は延寳天和の際にありて今を距る實に二百廿年前に起る、明治九年私立三井銀行を起し、廿六年合名組織に店改め四十二年株式會社とす、安政六年六月橫濱本町四丁目角《今の三井物産支店の處》に御用所といヘるを置しは則ち橫濱三井銀行支店の濫觴にして、明治三年元濱町に移り十七年現所に轉ず、現時の支店長は間島弟彥君にして甞て英國に出張し最も敏腕なる銀行家なり、次長は永田隼之助君、各掛主任には西村每太郎(庶務)、二宮峰男(預金)、島崎芳馬(出納)、別所豊次郎(信用)、眞下富藏(計算)の諸君何れも有爲の適才にして我國銀行界の覇王たるに背かざるの動作は感服の外なし、」横濱成功名誉鑑


奉祝記念誌

神奈川縣案内