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毎便社運送店 尾上町

毎便社
運送及用達業
尾上町5丁目79番地
(1111)
明治12年(1879)創業で主に新聞原稿の配送、送金の速達、荷為替付荷物を配達していた。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

運送及用達業 每便社「運送用達業は約三十年前加藤昌淸なる人が初めて馬車道現今の武相貯蓄銀行所在地に於て、京濱間に新聞原稿の發送を爲せしを其の濫觴とす、爾來變遷あり、凡そ十六年前今の勝屋呉服店の隣家に移り京濱用達會社と呼び、更に每便社と爲りしは九年前なり、經營者は關谷巨十郎、中村得雄の二君、而して他に萬通社遞運社等の同業者あるも孰れも此の隆盛に若かず、同社の特色は確實と機敏とにあり、即ち荷爲替附荷物の配達、送金の速達、新聞原稿の急便送附、其他諸物品の送届、至急用件の所辨、等、汽車發着每、社員二名を乘組ましめ速達を計れるが、爲めに破損、紛失等の憂なく、安心して此便に借れる者頗る多く、諸官衙銀行會社商店等を初め一般の用を達して必要機關となれり、尙同社は、東京京橋及び兩國に支店を有し、又神奈川、横須賀、藤澤、小田原等各地の同業者と連絡し、每日數回の便を有せり、」横濱成功名誉鑑


神奈川県銀行会社実業家名鑑

真川雜貨輸出商店 尾上町

真川商店
美術品雑貨輸出業
尾上町5丁目74番地
(816)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

美術品雜貨輸出業 眞川三郎「紐育スタンダード石油會社の機械油特約販賣をなす眞川商店は、叉美術雜貨輸出業を營み、兼で謄寫版印刷器の發賣をなす店主眞川三郎君は三重縣の人、明治十一年より製茶石油等の商業に經驗を積み、技能機略の圓熟するを待ちて獨立一商店を經營せしは明治廿二年の頃なり、目下米國加奈陀其他歐洲大陸に向て本邦特産の陶磁器金屬彫刻品等を主とし、あらゆる美術雜貨の直輸出をなし、併せて專賣特許の謄寫版を特約販賣し、且スタンダード會社の機械油を販賣して商勢益々振ひつゝあり、君質性溫厚にして恭謙、自家手腕より贏ち得たる大成功に慢する色なく、益々出でて益々讓なるは、古歌の所謂、みのるほど稻はふすなり人はた重くなるほどそりかへりくるの真意を眞個に諒解せられしものなりと信ず、」横濱成功名誉鑑



横浜姓名録

現在の横濱

渡辺銀行 尾上町

渡邊銀行 尾上町支店
尾上町5丁目75番地
渡邊銀行は明治45年(1912)元浜町1丁目に渡辺福三郎が開行、昭和13年(1938)第一銀行と合併し解散した。尾上町支店は大正4年(1915)新築開行。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「横浜の巨商渡邊福三郎氏一家に依りて造られたるものなり創立は大正元年にして預金既に百六拾萬円に達す推して信用の偉大なるを知るに足る。」現代之横浜

神奈川縣案内誌

東陽銀行 尾上町

東陽銀行
尾上町5丁目81番地
明治40年12月に岡野町、平沼町の大地主である岡野欣之助平沼亮三らが設立、明治41年(1908)に開行した。大正2年(1913)にはイギリス人建築家ワードの設計で本店を新築竣工、支店は小田原支店、浅間町支店、野毛町支店、神奈川出張所に設けていた
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「明治42年の設立にかかり払込資本金四拾萬円其創立日浅きも頭取には県下富豪として知られたる岡野欣之助氏其他重役に知名の士あるが為め預金百四拾萬円を有し配当は七歩を下らざる好況に在り信用日に月に伸び市内屈指の銀行と称せらる支配人は法学士石渡又八氏にして敏腕を以て知らる。」現代之横浜

新進の大銀行 東陽銀行「岡野欣之助君平沼亮三君は共に其先人が拓植せられし岡野町平沼町の大地主として名望嘖々たる素封家なり、其經營になれる東陽銀行は明治四十一年四月二日の創業にして、岡野町に支店あり、資本金壹房圓(拂込贰拾五萬圓)、創立日猶淺きも着實なる行務と適確なる基礎とは大に社會の信用を博して今や將に衝天の意氣あり、重役諸氏は如左、取締役頭取岡野欣之助君、取締役平沼亮三君、山城銈一君、石渡秀吉君、大角惣兵衛君、監査役 梅原逸太郎君、山下喜助君、小泉穀右衛門君、」横濱成功名誉鑑

神奈川縣案内誌

現代之横濱

武相貯蓄銀行 尾上町


武相貯蓄銀行
尾上町4丁目59-60番地
明治32年(1899)に平沼町2丁目で設立し明治40年(1907)富竹亭の隣に新築竣工した。大正元年(1912)親銀行の平沼銀行から手形交換を拒否され臨時休業に追い込まれ大正4年(1915)解散。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「明治三十二年神奈川県郡部の資本家を糾合して武相貯蓄銀行を横浜市に設立したるもの其四也。武相貯蓄銀行は神奈川町、程ヶ谷、都筑郡都田村川和、横須賀、高座郡溝、久良岐郡金澤等に支店を有し、其行務は確実と敏捷とを以て、本県全体に亘り最も信用ある金融機関たるは既に定評の存する所にして、氏は創立以来の頭取として全力を傾注しつゝある所ろなり。」実業之横浜

縣下郡部に勢力を有する 武相貯蓄銀行「營業の秘訣は地の利に存す、尾上町通り馬車道の一角、新築の洋館は之を株式會社武相貯蓄銀行となす設立は明治卅二年にして、四十年九月現營業所に移轉す、頭取石井虎之助君は素封家の聞へあり、本店支配人新藤新平君操觚者より出で敏腕家たり、重役諸氏何れも郡部の名望家なり、資本金十二萬五千、積立金五萬二千百五十圓を算す、本行は始め武相各地の金融機關として、地方有力家の創立せし所にして、當初平沼町にあり、行務の隆盛 とゝもに神奈川、保土ヶ谷、金澤、横須賀、溝、川和、川崎の七ヶ所に支店を設け、益々圓滑に發展しつゝあるは慶すべきなり、」横濱成功名誉鑑

神奈川縣案内

横浜商況新報

正直屋洋品店 尾上町


正直屋洋品店
雑貨洋品業
尾上町4丁目59番地
(609)
明治15年開店で正札販売の開祖。明治12年に横浜に移り、織物貿易を始めたが雑貨洋品業へ転じて馬車道角で正直屋を開業した。正札付き掛値なしの販売方法で人気になり、正直屋と言えば三歳の児童も知らない人はいないと言われるほどであった。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「主人が在宅である云ふから刺を通じると、来客中であるからと面会しなかった、聞く處に據ると郷里の沼津で悪辣を振り廻したので鼻つまみになり、當地に流れ込んできたのであって、先代の椎野正兵衛が本町の邸宅を賣却する間に立至って、何やら甘い汁をウンと吸ひ込んだのがもとで今の家産をなしたのであるとのことだ、日露戦役の折我軍戦捷の號外が出ると、直ぐに一せんも負けなしと云ふやうな立看板などをして中々抜目の無いことをやる、併し看板通りの正直であるや否やは保證の限りでない。」実業之横浜

正直屋 長谷川久吉「名は実を現はすとは本舗に対するの適評なりとす其品実の精撰に於て其値段の掛直なきに於て優に其名詮自称に背むかざらんや」京浜名家総覧職業

「尾上町五丁目角店商品豊富なり。」横浜遊覧商業案内 t.02

正札販賣の開祖(正直屋洋品店)長谷川榮太郎「大江橋より電車道を一直線に突當り、馬車道通りの角に壯大なる三層樓の洋品店あり、問はずして有名なる正直屋長谷川榮太郎君の店舗なるを知る、正直屋洋品店は正札附懸直無し販賣の開祖にして、馬車道通りの一名物なり、店主長谷川君は元江戸の人、嘉永六年に生れ、家は代々呉服商を營みて德川家及諸藩邸の御用達を爲せり、君は維新の際祖父に從て靜岡に移住し、家業を助けつつ麥稈眞田の製造に留心し、明治五年榮巧社を立つ、麥稈帽子の製作をも試みしが事情ありて此れを中止し、明治四十二年初めて出濱し、絹物貿易に力を注ぎ、傍ら獨力商業を試みしが、開港草創時代の弊害なる所謂懸値掛け引の餘り甚だしく、輸入雜貨の如き東京よりも却て割高の奇觀を見るに慨する所あり、率先是れが廓清の急先鋒に當らんと欲し、十五年洋品店を馬車道なる今の武藏屋呉服店の所に創め、傳來の家號駿河屋を捨てて珍奇にして而も呼び易き正直屋と冠し、名詮自稱正札附懸賣なしを標榜して賣出せしが、習俗に逆ひたる爲め當初は氣受宜しからず、同業間の反對も激しかりしが、不屈不撓誠實を以て所信を断行せしかば、數年ならずして漸次信用を得、顧客も却て安んずるに至り、後には同業以外までも翕然として之に傚ふに及べり、斯くて營業隆盛の結果現在の好位置に轉じ益々商務の擴張を加へ、現今にては市の内外を問はず東海道筋其他へ手廣く仲間取引をも爲し、儼然たる地步を占むるに至れり、」横浜成功名誉鑑

神奈川縣案内

神奈川縣案内誌

横浜姓名録

横浜姓名録