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海員追悼碑

海員追悼碑
開港以来、海難に殉じた海員の慰霊の為に明治36年(1903)野毛山不動尊境内に建立した。題字は伊藤博文
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

見晴ししるこ 宮崎町

見はらししるこ
汁粉
宮崎町32番地
写真の店舗が「見晴らししるこ」かは不明
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

見晴ししるこ 川本富太郎「羽田の靄、本牧の霞、朝な幕なの景色晝にも優りて美しく、艨艟の浮ぶは動るきなき島根にやあらむ小の馳するは秋の木の葉よりも軽し、夜に入れば無敷の燈火疑ふらくば満天の銀河一斉に落下し來る、此の壮観異彩を擅にするは實に見晴亭上の眺なり、亭には名物の汁粉ありて客に供する器物の輝味を帯びたるは尺素往楽の古事をも偲ぶべく信濃善哉の雅味は實に天下獨歩と稀せらる、其外需に應じて調理する磯の鮎は流石自慢の風味あり、此の形勝を占むる亭の主人は川本富太郎君で東京の生、父祖以来陶器師なりしも、明治十六年来該業に轉じて野毛山名物の汁粉店となれるなり」横浜成功名誉鑑

野沢別邸の菊

野澤別邸の菊
野澤屋、茂木惣兵衛の別邸
広い邸内には老松、古杉が生茂り高台に上がれば四方の絶景が望見できた。野澤の菊は一般に公開され横浜名所の一つに数えられていた。震災後は市の所有となり、現在は野毛山公園の一部になっている。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

野毛山不動尊 宮崎町

野毛山不動尊
宮崎町30番地
伊勢山大神宮と並んで庶民の信仰を集めた。明治3年(1870)成田山から分霊を勧請し太田町普門院境内に崇拝所を設立したのが始まりで、明治9年(1876)に高島嘉右衛門から敷地の施入を受けこの地に移転した。明治26年(1893)成田山新勝寺の準別格本山延命院となる。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「本市花柳界初め一般の信仰篤き所。明治三年中南太田に遥拝所を設けしを初めとし。明治九年高島嘉右衛門氏の地所寄付に依り此地に移す。毎月二十八日を縁日とし野毛通り迄群衆雑蹈す。毎年の節分會には市民實には市民賽せざるものなし。境内千四百六十坪堂宇九十八坪別に水行場を設け。中腹には石の三十六童子を祀り躑躅、霧島、皐月等を植ゆ。石段三段百數十級。海員弔魂の大錨は地上千餘尺赤球を點ずるもの。海上數十浬より望見し航海の標的となるとう云ふ。秋葉山亦此所にあり。」横浜商業遊覧案内

亀善別荘

亀善別荘前
亀善こと原善三郎の別荘。後に茂木別邸とともに野毛山公園になった
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横濱の柱礎 原善三郎「横濱市の柱礎として茂木氏と相提携して今日あるを致さしめたる剛膽不覇なる紳商原善三郎君は巳に故人となれり、君が開港以来四十餘年の歴史を茲に略叙せんに、君は武州渡瀬村の人文政十年を以て生る開港當時横濱に出で辨天通に借家して帳簿店を開き、傍ら生絲の賣込を始む、後辻利兵衛氏等有爲の人材を雇ひ專ら生絲業に從事し、次第に產を興し店舖を辨天通三丁目に定む、慶應年間には既に横濱生絲界の大立物となれり、明治元年洋銀現塲取引所設立を企て、通商司爲替方及貿易商社頭取と爲り、六年生絲改會所及び第二國立銀行頭取に、七年第一大區議員に、十三年橫濱商法會議所頭取に、十九年横濱蠶絲貿易商組合頭取に推さる、廿二年海防費を献納して金製黄綬褒章を下賜せられ正六位に叙せらる、同年横濱市會議長となり市参事會員に選ばれ、次で衆議院議員となり、二十七年蠶絲外四品取引所理事に推され、廿八年商業會議所會頭の職に就き、又貴族院多額納税議員に互選せらる凡そ市の樞要事業にして君の計畫せざるもの殆んど稀れに、聲望隆々一世を壓す、某氏の戯歌に『横濱は善きも悪しきも亀善の腹一つにて事きまるなり』の概ありき、同卅年勲四等瑞寶章を賜り、卅二年六月特旨を以て従五位に叙せられ、同月病を以て逝去さる、此の偉傑の遺業を継承せる二人は一を富太郎氏といひ他を善一郎氏といふ、善一郎氏は埼玉懸平民原織五郎氏の従弟にして富太郎氏の長男なり、明治二十五年四月を以て生る、廿七年十一月宗家の養嗣となり卅二年家督を相續し、現に原合名會社の一員たり、嗚呼豪宕なる善三郎君永く其祀を存して家門彌榮へ、龜屋の商號萬代を壽くもの、實に君が不世出の資を以て其基礎を確立せる爲めに外ならざる也、」横浜成功名誉鑑

野毛山の時の鐘

野毛山の時鐘楼
明治元年12月30日から震災まで市民に時を報せた
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海員悼逝碑 宮崎町

海員悼逝之碑
開港以来、海難に殉じた海員の慰霊の為に野毛山不動尊境内に明治36年(1903)建立された。題字は伊藤博文
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