野澤屋呉服店
呉服店
弁天通2丁目39番地(1015)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑
野澤屋輸出店 茂木惣兵衛「當舗は専ら絹織物の輸出を計り海外諸國に向て大に発展するに努む國利民福を増進し國光を発揮するは夫れ此時にあるか當主請ふ勉焉」京浜名家総覧職業
横濱吳服商の巨擘 野澤屋吳服店「横濱三大呉服店の一たる野澤屋は、明治元年以來の老舗にして茂木保平氏事業の一部とす、着實と親切とを店則とし業務駸々として益々隆盛に赴けり、明治十年の頃店内に輸出部を設け、絹物羽二重等の直輸を試みたるが、歳月の經過と共に信用益々加りければ、明治卅年輸出部として獨立經營するに至れり、其以前より店内にて洋人向絹物加工品を販賣したるが、是又漸次盛大に赴きたる爲め明治卅七年更に之を分立せり則ち現今の絹商店なり、本店吳服部は關內上流社會に多く顧客を有し品質の優等にして高尚なるは市内第一位にあり、されば春秋二季の大賣出しは本市の一名物として遠近より群集する顧客店頭に雜踏せり、近來叉時勢の變遷に伴ひ、一大デパートメントストアを伊勢佐木町一丁目に設く、着實の中進取の氣象あるは本店の特色にして慶すべきの美點とす、主任平野氏は老練家として本店の柱石と稱せらる、其他各掛長には仕入部の堀泉甲吉氏、誂物部の原新吉氏意匠部の山川霽峯氏、計算部の眞下安三郎氏及び販賣掛の諸氏何れも多年の經驗と技倆ある敏腕家のみを選抜して其任務を擔當せしむ、秩序整然斯界の覇王として欽仰措かざる所なり、」横濱成功名誉鑑
横濱巨商の先輩①茂木保平「生絲貿易の先輩故茂木保平翁は、安政六年上州高崎在豐岡村より出で野澤屋を起し、巨萬の富を重ね、各銀行會社の頭取副頭取となる、廿二年海防費献納の動功によりて、正六位に叙し金製藍綬褒章を授けらる、廿七年當主保平君、 養嗣子となりて相續す、君は愛知縣瀧定助氏の二男、明治五年を以て生る、幼名泰次郎後に先代を襲名す、廿九年野澤屋を改めて合名會社茂木商店とし、又別に合名會社茂木銀行を設立す、三十四年野澤屋輸出店を設け、紐育里昂に支店を置き、羽二重直輸出の業を營む、卅七年野澤屋絹商店を分立して、專ら外人向絹物及雜貨を販賣す、又參河、武藏、上野等に工塲を置き製絲の業を營み商勢日を追ふて盛大に赴く、外に野澤屋吳服店は明治元年以來の老舖なり、君は合資會社茂木銀行代表社員、横濱七十四銀行取締役、第二銀行取締役及び横濱貯蓄銀行、横濱火災海上運送信用保險會社取締役、第十九銀行監查役を兼ね、横濱商業會議所議員に列す、」横浜成功名誉鑑
茂木銀行代表証員②茂木惣兵衛「先代茂木保平氏は、幼名を惣次郎といひ後に惣兵衛と改む、保平は晩年の名にして又最も活動されしは此の時代なりとす、現代惣兵衛君は長平氏の長男にして、明治七年五月故保平氏の養子となりて家督を相續す、後保平氏に従ひ宗家より分家し、父君の前名惣兵衛を襲ふて、其後を繼ぎ、現に合資會社茂木銀行代表社員として、銀行部を統轄されつつあり、名家の後能く父租の功績を繼承して、叉之れを子孫に傳ふるは頗る難事なり、故に創業は易く守成は難しといへり、君や實に其の守成の地位にあり、而して温良恭謙能く家法を固守し、乃父の名を耻締めざるは衆人の等しく賛嘆する所なり、」横浜成功名誉鑑
①初代 茂木惣兵衛 惣次郎→惣兵衛→保平 茂木惣七の長男 明治27年没
②二代目茂木惣兵衛 保次郎→惣兵衛 ①の弟(長兵衛)の長男 ①の前妻の娘操子と結婿 大正元年没
③二代目茂木保平 泰次郎→保平 瀧定助の次男 ①の後妻の娘栄子と結婚 大正元年没
④三代目茂木惣兵衛 良太郎→惣兵衛 ③の長男 昭和10年没
神奈川県銀行会社実業家名鑑 |
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