太田醤油野毛売捌所 野毛町

太田醤油造合資会社
醤油醸造
野毛町2丁目40番地(2208)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

太田醤油造合資会社「合資を以て醤油醸造業に従ひて盛大比儔すべき者なし當社醸造の品質は頗る濃厚にして佳美あり一般の世評既に之を證明して餘りあり」京浜名家総覧職業

鈴木善兵衛 翁町2丁目19番地「名あるものは實なかるべからず所謂仰げば益崇く俯すれば益々固きものある是を稱して名實雙全の人と云ふ君は醤油醸造業者の泰斗と稱せられ素封家を以て鳴る君は慥に能才俊抜の紳士なり私には實業の盛大を致し公には社會國家の行政に參與し國民の安寧幸福を増進せんことを計る誠に模範的人士たり嘉永元年を以て福井縣丹生郡天津村に生れ父を岩崎彌左衛門氏と云ひ君は其二男なり代々酒造家を以て知らる幼名を謙次郎と呼び今の福井市の鈴木善兵衛氏の養嗣子となり姓名を襲ふ于時明治元年なり十一年國を出で實業家としての旗幟を飜へさんと欲し横濱に来り義兄吉田健三氏と協力し同市南太田町に醤油製造業を創始し屋號を太田と命じ謀計百端大に業に精勵す熱誠と正直とは神人の擁護あり日に月に繁榮に赴き遂に十五年現所に販賣店を新設し商業愈々擴張し發展し來り屈指の巨商と言はるるに至れるは君の賦才を以てして粒々辛苦せるの結果なりと謂ふべし茲に於て二十六年輿望を負ふて壽町外六ヶ町の區會議員となり二十九年同學務委員となり三十二年同區會議員となり三十三年横濱中央貯蓄兩銀行の取締役となり三十六年神奈川縣々會議員となる此外學校の設立に奔走盡力し兼ねて神社佛閣の修築に勗め學務委員等の公職に在りて勲蹟尠なからず銀盃木盃賞狀等を受與せられしこと数囘の多きに及び又博愛の心惻隠の情切なる君は慈善事業に對しても未だ曾て人後に落ちしことなし斯の如く社會の爲に鞅掌せらるると同時に決して自己の職分を荀且に附するものにあらず第五囘内國勸業博覽會の開設に際しては君率先して製造品を精製出陳し第一等賞を得られたるは以て生用意のあるところを窺ふに足らん希くは福祉永く君の上にあれ」京浜実業家名鑑

分銅富士印醬油釀造元 太田醬油釀造囓社 南太田町912番地(689)「富士印醬油とて内外に好評ある太田醬油釀造會社は其起原古く、鈴木吉田兩氏の共同事業なりし、吉田繁氏は目下東京に在り、氏は開港當時に於ける英學者にして明治初年頃通譯をなし種々功績ありしが、後醬油釀造を企て盛に販路を擴張せり、鈴木氏は分離して翁町に販賣店を開き目下は主として吉田氏の經營となれり、一ヶ年造石高一萬二千餘石、海外の輸出も尠なからず、內國勸業博覽會及共進會等にて賞状賞牌を受けし數回に及ぶ、支配人村上嘉氏は黄金町五丁目十五番地に住し圓熟なる實業家として世に重ぜらる、横濱成功名誉鑑

太田屋醬油店 鈴木善兵衞 翁町2丁目19番地(629)「太田の醤油といへば市內はいふに及ばず近鄉近在に知らざるものなし、本店は明治十年の創業分銅印富士印以下各種を醸造し、其石高現に一萬石以上に上るといふ、店主鈴木善兵衛君【六十二歲】は福井縣の人、家代々酒造家なり、明治十年橫濱に來り、義兄吉田健三氏とともに太田村に於て醬油醸造業を創む、一般需用家の信用篤く年々石高を增加せしより、會社組織に更ため、南太田町に醸造所を設け販賣部を當所に置き、卸小賣を爲し酒類をも販賣し、北方町羽衣町野毛町東京等數ヶ所に支店あり、公人としては廿六年七月壽町外六ヶ町の區會議員となり、廿九年十 一月壽學校建築委員に擧げられ、卅三年横濱中央銀行取締役に、叉横濱衛生株式會社取締役に推さる、卅六年縣會議員に選ばれ、四十年九月改選の際再び擧げられて其職に在り、」横浜成功名誉鑑


神奈川縣案内誌

横浜市商工案内

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