笠原絹布麻布工業商店 南吉田町

京浜実業名鑑
笠原商店
絹布麻布加工業
南吉田町204番地(1267)・尾上町6丁目90番地(1115)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「絹布リンネル加工并にマニラ麻及麻眞田の輸出を以て有名なるものにして信用頗る厚く屈指の商店として其名を知らるゝに至れり。」現代之横浜

絹布麻布加工業 笠原庄太郎「君は南吉田町字北六ッ目二〇四番地に合名會社笠原商店を設置し、絹布麻布加工業を營む、四十一年九月露都に於て開催せし萬國美術工藝品及家具博覽會にパテン、リネン、刺繡、ドロンウォーク等廿餘種を出品し、其意匠に日本的特色を加味し、東洋獨得の妙趣は到底原産地にて摸倣し能はずとまでの賛辭を受けしは啻に君が自家の名譽のみに止まらざるなり君は明治十年當地に生れ、幼より山下町サイモン商會にありて敏腕英才を以て內外商人の信賴最も厚く、廿九年同館のリンネル、バラン加工を一手に引受けし以來逐年順境に入り、令弟鈴木德太郎君と合名會社を組織し、店務日を逐ふて發達の域に達す、現に輸出手巾同業組合長、輸出絹物同業組合員、日本絹布製練會社取締役として斯界に聲望あり、初め尾上町六丁目に開業せしが、業務伸張の為め現所に移轉せられたるなり、」横浜成功名誉鑑

「笠原商店は明治三十二年三月初めて今の尾上町六丁目に創立したるものにて、合名社員の一人にして且つ代表者たる笠原庄太郎氏は当時尚ほサイモン紹介に勤続して絹部を擔任せしが、リンネル製造業の漸く日本に盛ならんとする機運を見て、同紹介を辭し絹織物の輸出、麻布の加工を目的として独立開店したるもの也、当時其業務は微々として甚だ振るはざりしが、氏が堅忍不撓、縦横に奮闘したる結果と、氏が厳父直吉氏が横浜の商業界に博せる多大の信用とは、両々相俟つて、漸く商店の慶運を開き、稍々成功の緒を就くに至れり、既にして其業務の益々拡張するに及び実弟鈴木徳太郎氏もサイモン紹介を辭し、リンネル製造に関する深大のの経験を挙げて其商店の業務に傾注する所ありたり、此和衷協同は当時の笠原商店に百萬の援兵を得たるに等しく以て此合名会社の基礎を定め、以て此合名会社の二首脳となりて溌剌たる活躍の原動力たる也、」「笠原商店の業務は絹織物の輸出、麻布の加工輸出の二にして目下絹物三分、麻布七分の取扱を占む、尾上町六丁目は本商店の参謀本部なると同時に、絹部の本陣たり、リンネル部は本店と相対し南吉田町、戸部町の二工場は常に二百名以上の職工を使役し、商店、工場に於ける幹部以下の事務員は無慮五六十名と註せらる、其他出張所は静岡、松本、白河、高田に在り、代理店は福島、高松、浜松、津等に在るの外、市内松影町の雑貨部は一個人の名義なれども、本商店の付属としてボール箱の製造に當り、其他川俣には羽二重の買次所ありて専らサイモン紹介の買次の衝に當れり、此商店に於ける一特色とも云ふべきは、幹部以下の事務員は少壮の人物を採用し殊に十三 四以上の徒弟には奨励を加へて夜間商業補習教育を受けしむること是也、此故に実務の修練と学校の教育とは併行融和し、十七八歳の徒弟中には早く一廉の商人として恥しからぬ資格を有するものあるの一事也。」嗚呼笠原商店の二つの首脳的人物は何れも十四五の幼少より逆境に奮闘して勝利を博したるもの也、兄三十歳、弟二十八歳の合名商店を組織して、堅牢の根拠あり、数十年の熟練あり、鉅多の後援者ある競争者に対抗して健戦勇躍負けず劣らざる奇軍也、吾人は此兄弟に対して実業界の白眉、後世尚ほ甚だ畏るべき両驥足たりと称するを憚らざる也、」実業之横浜

神奈川縣案内誌

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