長谷川亀楽
煎餅製造販売
伊勢佐木町2丁目17番地(1389)
長谷川亀楽が明治初めに境町で開業、明治23年(1890)頃に伊勢佐木町に移転した
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑
横濱名物亀楽煎餅本舗 長谷川亀楽「翁は明治の初年始めて境町に開店せしが、後現所に移りて益繁昌せるは詩歌の述ぶるが如し、第四第五博覽會に出品して賞牌を受く、黃金、初雪、短册等は最も江湖に賞美せらる、翁甞て縣會議員に選ばれ、又東洋製菓會社の重役として推重せらる、翁は神奈川の人、嘉永五年九月を以て生る、」横浜成功名誉鑑
亀楽煎餅「伊勢佐木町喜楽堂似て發賣。主人長谷川喜楽翁風流洒脱の人。」
長谷川龜吉「名物に佳い者なしとは十九世紀の評者のみ横濱名物亀楽煎餅は本舗に製品に係り美味と保存の点に於て其名を全国に普及す」京浜名家総覧職業
「横浜名物の一として聞ゆ其美味なる他の到底及ぶべからざる所、以て誇るに足るべきなり。」現代之横浜
長谷川亀楽 伊勢佐木町2丁目17番地「世の實業家たるもの只名利に汲々として頭脳冷酷一點高尚優美の観念なきの時書畫骨董を愛翫して心を幽玄雅醇の境に馳せ俳句を吟味して続々たる餘裕あるものを長谷川龜君となす君は嘉永五年九月十三日を以て武州神奈川に生る幼名を彌三郎と稱す年齢僅に十歳父に伴はれて横濱に出で蒸菓子製造業に従ふ明治元年君年十六の時父龜樂氏初めて一種の煎餅を製造し龜樂せんべいと名けて発奮せしに大に世の歓迎する所となり尋て蒸菓子を製造するに及び君専ら先君を補けて斯業の隆盛を計り明治二十一年の秋先君の歿するに及んで其の後を継ぎ爾来營々として之れが改良に心を砕き精選に意を用ゐ新に創製せる嘘の黄金初雪丹札の如き風味極めて佳良意匠美麗なり第四第五博覧會に於て有効三等賞牌を受領せるは斯業界に於て頗る異数とする所にして又以て君の名誉とするに足らん父亀楽氏は和漢の學に精通して殊に交藝美術の思想に富み和歌俳句に堪能なりしと云ふ之れを以て君業務の餘暇読書文學を學び其の造詣侮るべからざるものあり殊に天性高雅優美の思想に富み書畫骨董を好み和歌俳句は出藍の誉れあり花晨月夕得意の吟咏に耽りて俗塵を忘れ自然に融和して綽々たる胸中の餘裕を示せるは人の知る處とす明治二十六年縣民の重望を負ふて縣會議員に擧げられ三十五年市會議員に選ばれて不偏不黨以て民人の實利便益を計り三十二年同志協同して東洋製薬株式會社を組織し其の取締役に擧げられ現に其の任にありて敏腕辣手を揮ひつゝありと云ふ君は亦博愛慈善の心に富み社會公共の事業に熱心にして爾来其れ等の爲めに盡率貢献せしこと蓋し一二にして足らざるなり蓋し好個實業家の亀鑑として後毘に傳ふるに足らん」京浜実業家名鑑
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