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ジャーマンクラブ 山下町

クラブ ゲルマニア
山下町173番地
ドイツ人を中心とする社交クラブとして、文久3年(1863)に横浜居留地161番地に設立された。明治2年(1869)には居留地173番地に新築移転、バーやビリヤードルーム、ボーリングルーム、図書室など設備も備えていた。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


椎野賢三絹織物店 本町

明治時代の横浜本町通りの古絵葉書、椎野賢三商店

椎野賢三商店
絹物加工品貿易商
本町1丁目19番地
椎野賢三は嘉永4年(1851)西松松五郎の長男として浅草に生まれる、のちに椎野定七(利七)の養子となり、明治4年(1871)に家督を継いだようだが、椎野正兵衛の妹と結婚した(S.SHOBEYより)という話もある、定七とは椎野正兵衛の父のことなのか、定七、正兵衛との関係など不明である
賢三の息子に賢三郎(明治12年生)がいるが、賢三の跡は娘シユンの夫である椎野(小野)定(明治8年生)が継いでいる
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

絹物加工品貿易商 椎野賢三「横濱に於ける加工絹物輸出に古き歷史を有せる椎野賢三君は、明治六年墺國維納博覽會事務官に隨行を命ぜられ、墺獨兩國の有名なる絹織物羅紗製造工塲及加工塲等を視察して歸朝し、爾來歐洲輸出の絹織物に就きて研究數年、明治十六年に至り獨立開店せり、嘗て歐洲大陸に於て視察せし要點を斟酌して、我國刺繍に重を置き、輸出を計りし其明や違はず、非常に歓迎せられしも、在来職工の風習類る劣にして動もすれば時機を失するの悔なしとせず、君一計を案出し幼女を養成して職工に當てしに、綴密にして細心なる點優に男工を壓し一革新を與ふるに至れり、君又初二重加工品の原科僅少なるを憂ひ其の生産力を増さんとせしが、常時僅に京都を除きては他に機業地なし、よりて上州の織物仲買人小野里喜左衛門氏と計りて桐生に於て試織せしめ、両三回の検定を経て顔る良成績を収むるを得たり、時に明治十七年八月なりき、それより各地競ふて之れを試織し、ハンカチーフ其他加工品の原料として莫大なる需用あることとなれり、次に甲州特産なる甲斐絹の産額少く其幅狭きを改良して上州に於て織成し輸出を試みしに、是又意外の好況を呈し完全なる輸出品となれり、君は斯の如く絹物輸出に於て多大の功績を有するとともに、自家店舗も年と共に益々盛大に赴き、絹商椎野の名は遠く海外に及びて知らざるものなし、君は東京浅草の人、本年實に五十有九歳、」横浜成功名誉鑑

椎野賢三「欧米各国に我国特産の絹織物を供給して外商間に盛名を博ず戦後の経営頗る斯商者に竢つ亦多大なりとす豈奮勵一番せずして可ならんや」京浜名家総覧職業

murray

Yokohama and Vicinity

福島商会横浜支店 本町


福島商会横浜支店
内外有価証券売買
本町1丁目12番地
明治38年(1905)12月31日に福島浪蔵が設立した内外有価証券売買など金融を扱う合資会社で本社は東京日本橋にあった。福島浪蔵は大正8年1月18日に亡くなり、同年8月25日に横浜支店を廃止した。

福島商店が入居していた建物には入口が2箇所あり、通りから見て左側を借りていたと思われる。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

川本陶器店 本町


川本陶器店
陶器商
本町1丁目18番地
(3620)
明治20年8月創業、川本健吾
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

イリス商会 山下町

イリス商会
ドイツ系商社
山下町54番地
ドイツ出身のルイス・クニフラーとヘルマン・ギルデマイスターが1859年(安政5年)L.クニフラー商会を長崎で設立、1880年(明治13年)カール・イリスが経営権を継承しイリス商会と改称した。写真の建物はドイツ人ゲオルグ・デ・ラランデの設計で1907年(明治40年)竣工。有隣新書から「ギルデマイスターの手紙〜ドイツ商人と幕末の日本〜」が出版されている
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


ホテル&レストラン・ド・コロニー 山下町

ホテル&レストラン・ド・コロニー 
HOTEL & RESTAURANT DES COLONIES
ホテル&レストラン
山下町52番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

上州屋旅館 本町

上州屋旅館
本町6丁目81番地
遠藤於菟設計の木造3階建てで旅館の他、回漕業なども兼業した
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


横浜生糸株式会社 本町

横浜生糸株式会社
生糸、綿花
本町4丁目58番地
明治44年(1909)竣工
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「生絲直輸出の目的を以て設立せらるれたるものを生絲合名会社とす同社は事業の発達顕著となり隆盛に進めるより新に広壮なる建築を為し一層事業を伸張し本邦生絲直輸業者として三井物産に次ぐ輸出高を有する極めて有望の会社なり況んや敏腕の聞ある山田松三郎氏之が社長たるに於てをや。」現代之横浜

「生絲合名會社は曾て同伸會社副社長たりし新井領一郎氏の發企に係れり、原茂木等の豪商資本金五十餘萬圓を醸出し、明治廿六年十二月を以て開業せり、廿八年に至り社員中の同志別に生絲直輸出合資會社なる者を組織し、生絲合名會社が製絲家より買ひ集めたるものを更に買ひ取りて海外に直輸する計書なりしが、同一社員が二個の會社を經ざれば貿易をなす能はざるは頗る其策の迂なるを認むると共に、一方には時勢の進歩に伴ひ直輸出の危険を減じたるにより、卅二年中二合併して資本金を増加し、爾来 一箇年二千萬圓内外の直輸出をなすに至れり、刻下の代表証員は伊藤富次郎君にして、君は三重懸の富豪伊藤小右衛門氏の四男文久二年八月を以て生れ、夙に斯業に従事し着實の誉れ高し、合名會社の發展して今日に至れる職として君の力に待つものあるは論ずべきなし、」横浜成功名誉鑑


シルク

生絲日報

広島屋旅館 本町

廣島屋
旅館
本町5丁目70番地
(494)
明治初年に野毛で開業し尾上町へ移転、明治15年(1882)本町に店を構えた。回漕業や移民の宿泊なども取扱っていた
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

廣島屋 井澤吉五郎「乗船せんと欲して波止場に近く乗車せんと欲して停車場に接し會社商店の重なる者は大凡本館の付近にあり繁栄故なきにあらざるなり」京浜名家総覧職業

廣島屋旅館 井澤吉五郎「古くより繼續せる大旅舘の一なる廣島屋は明治初年の開業なり、店主井澤吉五郎君の先代は神奈川驛の出身にて初め野毛にて營業せしが、明治十年尾上町三丁目に轉じ、十五年再び現所に移る、鐵道全通前の繁盛は非常のものなりしと云ふ、其後東京神田小柳町に支店を設け、令息佐吉氏に本店を譲りて、君は現今東京にあり、本店の業務は回漕業を兼ね及び移民の宿泊等をも取扱ひ、關内旅宿業組合の服行事を務め、又移民宿泊業組合の協議員として同業中に重望あり、君本年六十一歳、東京信用銀行及東京製氷株式會社の重役として令聞あり、」横浜成功名誉鑑


サムライ商会 本町

サムライ商会
美術工芸品
本町1丁目20番地
(915)
明治27年(1894)開業の古美術店。渡米の帰路に船中で出会った新渡戸稲造の影響を受けてサムライ商会の名を付けたと言われている。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

野村洋三 本町2丁目20番地「桑港街頭曾て奇装して日本飴細工を鬻げる黒髪の一青年ありき誰か知らん是れ現時横濱市本町に於て間口十間奥行廿五間の大陳列室を有し本朝美術品及び古器物を外人に込み實に斯業界唯一の大買として其の名内外に藉甚なるサムライ商會主野村洋三氏ならんとは君少壯學籍を早稻田専門學校に置き研鑽大に勗め十八歳にして既にスマイルス自助論を反讀する百廿囘スキントン萬國史を筆寫する三次なりしと云ふ其の精力の絶倫なる豈に驚嘆すべからずや既に這箇の精力あり其の今日の成功叉怪むを須ひざるなり翌年君外國僧侶に通辨として各地を遍歴し偶ま遠州三方原を過り茶園の盛大なるを視翻然として實業に志し其の九尾交六氏の移殖に係れるを聞き氏に就きて冀ふ所あり而して果さず更に渡米の雄圖を企て百方諸家に計り に己自の他又賴む可き者なきを覺り茲に飴賣りの奇案を畫して桑港に渡り見事失敗してお定りのボーイとなる後富士商會桑港支店に本邦茶の賣子となり鐵道王チャーレス、ハーソンの為に知られ氏の日本來遊に伴はれて一旦帰朝共に本所佐竹邸に在りしは世人の熟知する所なり而も得る所の資五千餘金蕩盡して餘すなきに至れり二十六年釋宗演師等の通辯として更に欧米に航し故ありて中途にして歸朝す次で横濱山下町バンタイン氏の館員となり幾くもなくしてサムライ商會を創立し辛苦經營遂に今日の盛運を見るに至れり聞く氏の商會を開くに方り軍事公債僅に二葉額面二百圓の資ありしに過ぎず而も是れ宮本某氏に懇請して融通したる所なりと又以て氏が經營の如何に多難なりし かを想見するに足らん而して双夫人内助の功最も 多きに居ると云ふ君は岐阜縣人明治三年三月十五日大野郡公鄉村の農家に生る」京浜実業家名鑑

サムライ商會 野村洋三「弘く海外諸国に特約を結び専ら新進の雑貨を輸入して需要者に供給し頗る高名あり蓋し斯業者の重鎮と仰ぐに足るべきか」京浜名家総覧職業

「美術雑貨輸出商として其名海外に顕はれ美術骨董王と称せらるるものをサムライ商会となす店主野村洋三氏は海外に対し熱心なる日本美術の紹介者たり。」現代之横浜

「本町三丁目北側なり。骨董、銀器、象牙細工等を以て『東洋キュリオスキング』の名に依り世界に鳴る。」横浜遊覧商業案内

サムライ商會 野村洋三「開港初年に野村三千三氏あり、五十年の今日野村サムライ商會あり、良二千石に野村知事あり、我横浜何奚ぞ野村氏に因緣多きや、野村洋三君は美濃大野郡公郷村の人、明治三年を以て生る、幼より、倜儻大志あり、笈を負ふて東都早稻田に學ぶ、後大洋を横斷せる實に三回、洋三君は實に名詮自稱に因るか、横浜本町一丁目に巍然たる高閣を築きて城櫓に擬し、諸家の紋所燦々目を奪ふ、サムライの語如何に外人の好奇に投ぜし、店頭の器玩服飾何れも純日本の特色品、一たび横浜の地を踏める觀光客は競ふて此の店舗を知らざるを以て愧となす、其商略の巧實に人意の表に出づ、當年の山城屋に比すれば膽氣或は缺如する所あらんも、其機智に於て彼は一籌を輸せん、サムライ商會亦横浜に於ける一名物と云はざるべからず、」横濱成功名誉鑑


murray

平沼商店 本町

平沼商店 横浜銀行
銀行
本町2丁目27番地
(26
慶応元年(1865)平沼専蔵が本町4丁目で引取商を開業、その後本町2丁目に『石炭屋』(屋号)を開店した。明治43年(1910)専蔵の三男の久三郎が頭取となって平沼銀行を開行、大正5年(1916)伊勢佐木町1丁目2番地に移転した
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

平沼専蔵 本町2丁目27番地「世間往々君を非難して言ふ高利貸にして徳義なく人を溝壑に顛はして顧みざるものありと鳴呼君や眞に如此にして擯斥すべき人なるか蓋し人事凡て棺を蓋ふて定まると云ふと雖も子は君が世人に誤解せられたることの比較的に大なるを悲むものなり人必ず萬全なるを得ず古來人傑として目せらる人の經歴を見來れば殆んど瑕疵なきものはなし瑕の大なるは偶々以て人物の大なるを證するも のなり現今の富豪者流其の發展の初期に於ては權謀を弄し術策を挟み危道に萬一を僥倖したるもの皆其軌を一にし行為の悖德沒理の大なる豈君が比ならんや惟所信に於て差あるのみ君が所信は萬人の翹望して已まざる金力の故を以て既に君の位置を作る萬人の嫉惡する所宜なり世上より過大視さる双已むべからざるか君は埼玉縣高麗郡飯野町の人天保七年正月に生る萬延元年出で横濱に居を卜し永住の地となす慶應元年始めて貿易商を開く同三年より明治元年に亘り米價暴騰し細民の窮狀甚しきを以て所藏の米穀を低廉に販賣救濟の途を講ず明治十年横濱取引所步合金取締役を命ぜられ同年第一大區議員に選擧さる爾來公共に實業に重任を負ふて事務に鞅掌する頗る多し廿二年海防費中に金五萬圓を献納し金製黄綬褒章を賜ひ從五位に叙せらる二十四年日本赤十字社特別社員に列し三十三年貴族院議員に任ぜらる三十五年叉横濱市より擧げられて衆議院議員に當選す三十七八年戦役の功に依り勲五等双光旭日章を賜はる君又公共事業に資を投ずるに吝ならず年々寄附する所數千圓を下らず嘗て十萬金を投じて平沼小學校を建設し貧民の子弟を教育するあり又獨力を以て有名なる金澤文庫を再興せしめたり所謂能く積みて能く散ずるのにあらずや」京浜実業家名鑑

實業界の偉雋 平沼專藏「人誰か毀譽なからむ 、世焉ぞ褒貶なからむ、大業を企て偉勳を奏するもの其逕路各異なり、棺を蔽ふて始めて功罪を斷ずべきなり、從五位勳五等平沼專藏君身を埼玉縣飯野の一寒驛より起し、或は江戶に或は横濱に、赤裸々の躰軀を驅りて労役に従事し、歩一歩百尺竿頭に到達せしもの、血河屍山は跋渉せざるも、硝煙弾雨は凌犯せざるも、凛乎たる豪膽斗の如く、常に商戦場裏に活躍飛動せしなり、勝算歴々向ふ處敵なく、堂々たる旗幟を一方に翻へすに至り、軽忽者嫉妬者争ひ起りて喧々囂々、時として嘲罵の言を放つものなしとせず、見よや古来戦國武士、身を徒隷より起こして汗血悍馬に鞭ち幾たびか死生の間に出没して漸く五位尉を辱ふするに至りては、家門の譽れ末代迄の績しと喜びしにあらずや、啻にその一家に止まらず世擧りて英雄と稱し俊傑と唱へて功名長く竹帛に垂る、世間何焉ぞ不公平にして而かも不均一なる、人を殺し世を乱し、蒼生を塗炭に苦しめて猶且英傑偉俊と崇拝され、産を作り家を興し、社會に貢献する者は却て悪罵嘲笑さるるに至ては慨然たらざるを得んや、平沼君國難に蒞みて或は海防費に或は軍事公債に、不時に在りては各種の公共事業に提供せし出資幾萬金なるを知らず、市に對する功労としては朝田又七氏の後を承けて、水道公債を整理し、難工事を敢行して三十薦の人口朝夕其恵に浴するを得せしめ、社會風教に關しては金澤文庫を再興して我國文學の命脈を績ぎし古名将の遺志を不朽に傳へしめ、貧民學校を建てて無辜薄命なる窮兒に暖かき同情を寄せたる如き、如何ぞ君の頭脳や冷静なるべき、君の抱負の大なる蓋し吾人の付度し難きものあらん、世の毀誉褒貶豈一噸一笑に値せんや、必ずや世人を聳動せしむる絶代の美事あるべきは吾等の信じて疑はざる處なり、」横浜成功名誉鑑

横浜銀行「銀行界の覇王にして濱港の巨傑平沼専藏氏の経営せる唯一の金融機關たり其信用其確實は巳に世評に上りて嘖々の名あり」京浜名家総覧職業

「故平沼専造氏の設立にかかり始め横浜銀行と云ひ後組織を改め平沼銀行と改称す、現頭取は平沼久三郎氏たり、財界に於ける平沼氏の偉大なる勢力の上に立てる銀行なれば行運隆々たり。」現代之横浜

平民的の金融機關 横濱銀行「資本金一百萬圓、積立金八十三萬二千餘圓、明治廿四年一月の創立にして、平沼專藏君の發起に係れり、君布衣より起りて金權を掌握し、前途の形勢に見る所あり、自家資産の鞏固と市塲金融の圓滑を圖らんが爲めに、慨然一家を銀行組織と爲す、特色とする所は平民的の商店風を以て簡便に取引を爲し、時間外と雖も行務を辨ずるに在り、別に貯蓄を奬勵せんが為め金叶貯蓄銀行を經營して專ら低利の貸付に應ず、支店を東京日本橋區小船町に置けり、頭取には平沼專藏君あり、取締役は平沼八太郎、野田半七の二君、監査役として相原定輔、吉田平吉の二君其任に在り、須賀甚藏君支配人として行務を統括す、」横濱成功名誉鑑


神奈川縣案内誌

綿野九谷焼商店 本町

綿野商店
九谷焼
本町1丁目8番地
(50)
綿野吉二は石川県出身で九谷焼の改良に努め内外の博覧会に出品して九谷焼の名を広めた他、加賀友禅の輸出にも貢献した
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

綿野吉二 南仲通2丁目24番地「君は安政六年十二月廿八日石川縣能美郡寺井村に生る源右衛門氏の長男にして九谷焼製造創業者第五世の孫なり臺父年少にして之れが販路拡張を企て海外貿易を謀り頗ぶる斯業に貢献する所あり明治十年君は父の業を継ぎて之れを經營し九年九月神戸榮町に支店を設け貿易業を營む十三年五月九日神戸支店を横濱本町に移し益々斯業の発達を企圖す十五年五月同業者團結の必要を認め當時石川縣に招聘せられたる意匠家納富々次郎陶業家松本佐平氏等と謀り九谷陶業者の同盟規約を結び君は其頭取に推され其他凡ての委員となりて一意専心之れが改良発達を企圖せしこと抑も如何ばかりぞや然れども吾人は一々君の事業を列記するの餘白を有せざるを以て茲に勅定の緑綬褒章を賜ひ其の善行を表彰せられたる褒状を掲載して其一班を窺はんと欲す其文に曰く資性實直夙に九谷陶業の衰頽を慨し陶戸を糾合して規約を設け自ら幹事となりて積年の陋習を矯正し躬ら歐米に渡航して商況を視察し専ら販路拡張を圖り或は人を肥前尾張に遣はして之が製法を研覈せしめ尋で陶窯を若松に築き覃精鋭意遂に良窯を発明し或は畫工々場を開き圖畫室を設け品評會を興して陶工を奨勵する等艱苦經營屢々阻障に遭ふも屈託せず孜々として斯業の振作に努む是に於て同業風靡製品精良九谷陶の名内外に顕揚し產額月に加はり輸出歳に増し縣下の重要物産たるに至りしは即ち卒先啓迪の効に職由せずんばあらず洵に實業に精勵し衆民の模範たるものとすと又君が近年に於ける事蹟の一二を擧げんに第四回内国勧業博覧會に九谷陶器を出品し有功二等賞を受けたるを初め内地の博覧會には常に其審査員を仰付られ又先年佛國に渡航して一年間同地の博覧會並に一般實業を視察し来れり」京浜実業家名鑑

綿野吉二「陶磁器雑貨を取引して海外に又名を知らる船便毎に集散の貨物夥しく西洋料理店及巨商等に多大の顧眷ありて業務の盛大斯商を壓せり」京浜名家総覧職業

九谷燒の殊功者 綿野吉二「綿野吉二君の父源右衛門氏は加州能美郡寺井村に於て代々木綿商を營む、偶々九谷庄三齋田伊三郎なるもの來りて九谷赤繪なるものを創意せり、氏頗る風趣の高雅なるを認め、村人をして其技を得せしむ、是靑繪九谷に一革新を與へたるものなり、吉二君安政六年生父の箕裘を襲ぎ、益々術を奬勵して優等品を墺國維也納明治六年米國費府同九年等の博覽會に出品し初めて九谷陶器を海外に紹介せり、爾來或は素地を改良し、或は販路を探求し、就中白盛顏料を發明し、叉は輸出品に限り水金を使用するの許可を受けたる等は斯業の發達を助けたる殊功なりとす、而かもよく忍耐に、三十有餘年の久しき一身を擧げて九谷焼の運命に賭したる報酬は空しからず、明治廿八年京都博覽會開設の時は破格を以て 兩陛下に奉答するの一大光榮を得、尚作品數點御買上の名譽を荷へり、是れ實に君が家記に特筆す可 さは論を俟たず、其他内外博覽會より得たる金銀賞牌褒狀積んで山をなせり、君は實に陶器業界に於ける大成功をなせしと共に、双其國産なる加賀羽二重及絹手巾の販路をも擴張して鄕人の生産力を增さしめ米國より歸朝後電氣鐵道敷設を唱道して有志を結合し、大師電氣鐵道株式會社を起して常務取締役となる、是今の京濱電鐵の前身なり、曩きに郷里に於て模範陶窯景德園を設けて名工を優遇し、陶業組合を設けて互に相警告奬勵し、資金供給の目的を以て群立社を組織し、貨物運輸の便を計りて加能汽船會社を創立し、双近來原石破碎株式會社を立てて取締役となる等、數へ來れば多趣多樣にして紛糾錯雜を感ずる如きも、君の明晰なる頭腦能く是等を裁决して誤まらず、明治十 年弊支店を神戶に置きしを初めとし、姿十三年之れを橫浜に移して貿易業を開始せし以來、神石兩川の縣下を往返する年に幾回なるを知らず、傍ら海外に遊ぶと前後數度、實に席暖まるに遑あらず、要するに事業の進行は君の唯一の娛樂とする所なるや知るべきなり、此他君が斯業に盡瘁せし一斑を擧ぐれば、君の唱道により美術工藝品展覽會を擧行して斯業の獎勵を圖り、橫浜に於ける美術工藝品七商組合の如きも君等の斡旋に成り現に其會頭たり、双陶業組合條例の制定を建設して後年同業組合準則發布の基を作り、又内外の共進會博覽會等の開催毎に委員叉は審査委員として推薦され、斯業の發達に資する等、多年産業上の功勞尠からざるにより、廿八年十月敕定綠綬褒賞を賜はる、君尚日本貿易協會の設立に與て力あり、又現に區會議員及び商業會議所議員として公共方面に活躍さる、」横濱成功名誉鑑


横浜蠶絲日報

椎野正兵衛絹物商 本町

椎野正兵衛
絹物商
本町2丁目30番地
142)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「エス、ショーベー商店として外人間に信用ある絹物加工品店は椎野正兵衛君の經營になれり、觀光外人等の横濱埠頭に上陸するや、先づ主として同店を見舞ふ例となりしまでに成功されたるは實に同店の一大名誉なり、同店は小賣の外賣込又は直輸出をも營めども賣額は店賣の上に出てず、創始は實に文久年度にして、開港間もなく現所に店舗を開き今日に及べるもの、現主は先代に劣らぬ熱心家にして商運の日に増し発達するは大に基因あうと云ふべし、」横浜成功名誉鑑

椎野正兵衛「羽二重原産地は福井なりとす店主同地の機業家に多數の取引先を有し専ら海外各國へ輸出せり盖し國富の増進を計る唯一の商店と云ふべきか」京浜名家総覧職業



murray

東京横浜独案内

ホール商会 山下町

ホール商会
競売業
山下町61番地
(340)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

競売業 ホール商会「古くよりイトン商會と相駢んで競売業者の雙壁と稱せられて居るのはホール商會で、舘主ホール君は豊頬魁偉の風采と機慧にして愛矯に富める商才とを兼備せる商賣柄の適材てある、委托を受くる物貨は大は機器家具其他大口の敷物より、小は日常の用品に至るまで何に限ると云ふとなく、賣買の出来高も中々大した物てあるとの事だ、近時ブラオン商會又は邦人でもコイン又はミナト商會など云ふ同業者が顕はれたが、二三年前迄は競賣としては如何してもホール、イトン二商會の外に成立しなかつた者てあると云ふ、」横浜成功名誉鑑


横浜貿易新報

田中生糸貿易商店 本町

田中商店
生糸貿易商
本町2丁目28番地
(411)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

生絲貿易商 田中新七「別邸は老松町一丁目十九番地にあり、明治初年よりの生絲貿易商なり、嚴父は久兵衛氏、君は其二男にして弘化六年を以て愛知縣に生る、嘉永七年八月家督を相續す、本店の外京都、福井、金澤等に支店ありて商勢逐年繁榮に赴き、明治三十八年に至り合名組織に改め代表社員となる、自家營業の傍ら北陸生命保険会社社長、日本カーバイド株式會社、京都電鐵株式會社、北海道炭礦汽船株式會社等の取締役を兼ね、南海、参宮、關西等の諸鐵道會社にも重役たり、本店支配人中根氏販賣主任三田村氏共に適才を以て聞ゆ、」横濱成功名誉鑑

蠶絲中次業及仲買業 中根陸助「君は本年五十歳、經歴と年功と將に圓熟の域に達す、郷里は作州にして、少壮時代より生絲賣買を營む、明治廿年の交當地に來り、田中新七氏を補佐して生絲業を営みしが、逐年進況に向ひしにより、田中氏は明治三十八年に合名會社田中商會を設立せり、同時に君は選ばれて支配人の位置に坐して其手腕を振ふこととなれり、經濟界の激流は滔々として時に波瀾なきにあらざるも、操縦宜しきを得て、今日田中商會あるを得せしめたる中根陸助君の功や實に感服の外なし、君別に蠶絲仲買を營む、」横濱成功名誉鑑

横浜貿易新報社 本町


横浜貿易新報社
新聞社
本町6丁目84番地
明治23年(1890)横浜貿易新聞を東京で創刊。幾度かの変遷を経て明治39年(1906)に横浜貿易新報へ改題した。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

横濱貿易新報社長 富田源太郎「我國新聞紙の權輿は實に横濱にあり、元治元年岸田吟香氏等が埋地百四十二番館に於て發行せる『新聞紙』と題せし者即ち是なり、次で蘭人ベーリ氏の萬國新聞岸田吟香氏の『もしほ草』福地源一郎氏の『江湖新聞』等の發行あり、明治六年讀賣新聞出で之と前後して東京日々、報知、横濱毎日等の起るに及び稍や體裁を爲すに及べり、横濱毎日は後に東京に移轉し、其後に起りたるものを横濱貿易新聞とす、廿三年二月の創刊にして、宇川盛三郎、高橋義雄、鈴木梅四郎、川上英一郎等の諸氏相繼承して執筆せしが、卅七年五月に至り富田源太郎君入て社務を督するに及び、從來對峙したる橫濱新報と合名して貿易新報と改題し、次で横濱の二字を冠して今に及べり、貿易新報は横濱貿易界の機關として、獨占場裡に活動し、東京に近き難境に處し敢て下らず、三色刷の好體裁にして機敏迅速なる報道は優に大新聞の俤を存す、最初は貿易商諸氏の後援ありしも今や全く富田君の經營に歸し基礎全く定まれり、富田君は當市商業學校出身の俊才にして、曾て東京商業會議所の書記となり叉バウデン商會の館員となり、頗る敏腕の目あり、次で住吉町二丁目に輸入肥料及雜貨引取の店舗を開きしことありしも、今や全力を新聞事業に傾注して其成績見るべきるのあり、横濱經濟會の發起人兼幹事、横濱市會議員の一人として、終始思ひを市の改良施設に注ぎ貢献する所多し、賦性飄逸洒脫邊幅を衒はず、而かも圖書編著の意匠構想、宴席會同の趣向計畫等着眼奇警にして人の意表に出づ、貿易新報に於ける各種の珍趣向は常に社會の喝采を博せり、君の著『富田氏英語會話』及『外國爲換の説明』等は共に世に行はる、四十二年十二月貿易新報社に組織の變更あり和智郁郎氏理事として入社す、」横浜成功名誉鑑


現代之横濱