玉村写真館 弁天通

玉村写真館
写真
弁天通1丁目2番地(207)
※写真看板の位置は14、15番地付近、2番地は向かいにあたる。大正5年12月には弁天通1丁目2番地から尾上町5丁目81番地に移転することから、移転後に14、15番地に支店をもったか?調査中
明治の横浜手彩色写真絵葉書

玉村康三郎 弁天通1丁目2番地「寫眞術の我國に渡来せしより其由來既に久し従って其進歩發達甚だ顕著なるものあり日に月に其抜新に其術倍練磨せらる而して其人に依り各得意とするあるものの如し君は此寫眞業者間に立って日本の風景を撮影することを以て得意とし方今斯界に其經歷其技術とを以て覇を稱ずるものなり君は安政辰年二月下谷上根岸町に生る牧太氏の嫡男なり舊上野の宮の臣にして御納戸役を勤め君に至って既に九代なり明治十三年始めて浅草厩橋金九原三氏に就き斯術を學ぶと七年切瑳砥勵技大に進む更に六年間著名なる寫眞飾と往來交通して殆んど蘊奥を究むされど原光を撮影するに於ては君獨り其聲を擅にし加之我國の風物を海外人間に盛に喧傳せられて是に由って観光を思ひ立ち遠く覊旅に登るもの其尠からず故に帰國に際し土産として君の撮影になれる寫眞を携へざれば恥辱とす其各國より絶へず幾多の注文を受くるを以ても知るべし昔者長崎に上野彦馬氏と云ふ寫眞師あり名聲海外に聞えたりき君の妙技は猶其の右に出で各國の貴族皇族の上までも賞讃せらるる處となれるは君の光榮のみならず又國の誇りとするに足るもの他かれば内外博覽會より名器大賞牌を授けらる然之を以て他の稱讃を得んが爲め表掲示するが如きをなし心理の如何に霽月の如きかを思ひ轉々敬慕の念禁じ難きものあり君常に言へらく撮影は尤も美術的ならざる可らずと此主義念頭を離るゝとなしとは寔に頼母しきことなり日夕只職務に忠實にして他業に関係するとなし宜なり今日の成効あることや當時外國人は率ね君の店に就きて撮影すと蓋し其の技の精なる故ならん我が日本の風景を海外に紹介し外人観光の念を起さしむる君の如き亦國家的事業家と謂ふべきか」京浜実業家名鑑

寫眞界の古参 玉村康三郎「科學の發達は驚く可きことであるが、特に寫眞術ほど長足に進歩し且つ利用さるるものは又稀れである、四十年前には長崎派、横濱派の二派がありて、下岡蓮杖翁は横濱派の元祖である、翁は實にヒュースケンより口授されショーヤーより直傳されたといふことだ、我玉村廉三郎君の如きも何れの派に属すべきやは知らざれども、東京金丸といふ人から傳習されて、明治十四年に横濱に開店されたといふから、蓮杖翁に繼げる古参であるに相違ない、叉開業が古いだけそれだけ其の技術は外人間に知れ渡つて居る、漫遊の外國貴賓は必ず同館を見舞ふて紀念の撮影を托するといふことだ、内國博覧會は素より佛國、市加高、聖路易、白耳義等の博覧會で賞牌賞状を受けたることも少なくない、近くは五十年祝典寫眞を宮内省に献上して天覧を辱ふしたとのことである、君は本業外の事業には成るべく開係はしないが、ただ原料製造所たる日本乾板株式會社のみは其の取締役であるといふ、君は東京根岸の人本年五十四齢、全國寫其業者中の最も多額納税者である。」横浜成功名誉鑑


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