ラベル 町-内-真砂町 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 町-内-真砂町 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

高木自転車喬盛館 真砂町

神奈川県実業家名鑑
高木喬盛館
自動車・自転車
真砂町1丁目3番地 住吉町1丁目
(882)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

高木壽次「市内數ある自轉車店中本舗の如く親切勉強にして便利なるもの少し殊に外國に特約を結び最新式の自轉車を輸入して一手に販賣せり」京浜名家職業総覧

自輾車業の嚆矢 高木壽次「喬盛館と云へば輪界で知らぬ人はない位有名の老舗で、明治二十四五年の頃自轉車が未だ舶來の初めで珍らしい頃から斯業に從事されて居たのである、初め輸入されたのは鐵製粗造の三輪車でガタガタした者で到底實用どころか子供の遊戯用にも足りなかったのである、日清戰爭の前後からポツポツゴムタイヤの二輪車が流行し始めたので、此機に乘じて高木壽次君は喬盛館を開業されたので、最初の二三年間は經營も困難であったが、漸次精巧なる優等車が輸入されて實用向に應用さるる勢となって、俄然需要も增加して遂に今日の盛况を見るに至ると共に、君も『クリヴランド』號の特約元で、今では屈指の店となったのである。君の店員から獨立して居るものも隨分澤山ある、」横濱成功名誉鑑


横浜姓名録

神奈川縣案内誌

directory

川俣絹布整練 真砂町

 川俣絹布整練
絹布整練
真砂町1丁目7番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「川俣整練会社の発展 岩代国川俣町丸富絹布整練工場は今回廃業して従来の事業全部を川俣絹布整練会社の於て継承することとなりたり」実業之横浜

忽那惟次郎君は川俣産羽二重の整練を其会社の一手に占め、延いては全国羽二重の整練をも掌握し、海外の市場に立っては日本羽二重整練のオーソリチーたらんとの大抱負を以て川俣絹布整練会社なるものを設立したのである。爾来君の奮闘健戦の功は漸く事実の上に現はれて其抱負は着々実現されて特に海外に声価を博したのである。記者は横浜商館の三四に就きて《鹿印練絹に関し是迄本国から何か苦情を持ち込んだ事があるか》を問ふて見たが孰れも其取ひ分に対しては聊かも無かったと断言された、して見ると尠くとも今日の整練程度に於ては鹿印の練絹は海外市場及び絹機場の満足を買ふて居るものと認めても差支あるまい、」実業之横浜

鹿印純絹整練 川俣絹布整練會社「同社は明治三十三年の創立にして社長は忽那惟次郎君、支配人は岩崎定次郎君なり、工場は福島縣岩代國川俣町にあり、羽二重整練の完全ならず固形物付着の爲め一時輸出减退の傾向ありしかば、同社は一定の方針を固守し、鹿印純絹整練を企畵せり、此の効果は海外の市塲に於て大なる信用を攫取し、隆々たる聲價は宇内に響くに至れり、工塲の設備は完全無缺にして全國の模範と稱せられ、鹿印商標は全國羽二重界を席捲し去るの好况を示しつゝあるは最も喜ぶべき現况なりとす、」横濱成功名誉鑑

日の丸本店足袋店 真砂町

日の丸本店
足袋
真砂町4丁目54番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

佐賀屋横尾履物店 真砂町

神奈川県銀行会社実業家名鑑
佐賀屋 横尾儀三郎
履物
真砂町3丁目36番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

富竹亭 真砂町

富竹亭
横浜の寄席(義太夫)
真砂町4丁目58番地 馬車道通
明治11年(1878)竹内竹蔵が馬車道通角に落語席館を開場した。明治16年(1883)に建替、明治18年(1885)に三階を増築し落語席改め義太夫専門館として開場した。竹蔵が明治32年(1899)に亡くなった後は長男の亀次郎が経営していたが、建物が古くなったこともあり明治45年(1912)廃業した。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

富竹亭(義太夫定席)竹内龜次郎「吉田橋畔に三層樓閣がある、有名な富竹亭で義太夫の定席として市内一流の顧客を吸收し、橫浜名物の一に數へられる、この席亭の創立者竹内竹蔵氏といふは、信州宮田村の酒造家に生れ、安政年度橫浜に來て、料理屋もすれば袋物屋もする種々の業務をやったが、結局は寄席がよかるべしとて、太田町四丁目に丸竹亭といふのを建てた、慶應二年の頃で是れが抑も○竹の印のある席亭の元祖である、それから尾上町五丁目の角で現今稻荷鮨のある所に萬竹亭を始めた、明治五年頃更に真砂町五丁目馬車道通りの角に富竹亭を創めたのが今の寄席の前身である、明治十二年頃從來の萬竹亭を廢し、尾上町五丁目現今の天賞堂時計店の所に更に萬竹亭と稱して三階建の寄席を建築し、二階下は商榮社と名くる勸工場を設けた、これは當市勸工場の嚆矢だと云ふ、有名なる高橋お傳の騷動で引合に出るのは此席亭であったが、惜しい哉三十年十二月の大火で類焼した、斯くて明治十五年舊富竹亭を取毀ち更に現今の三階の建物を作り、其當時は酒煙草箪笥店等を副業したが、十九年にそれを止めて寄席專門となった、現主龜次郎君が前代の業を繼いだのは三十三年頃からだと云ふ、因みに橫浜に於ける寄席の元祖は舊港崎町の港座と云ふのが最初との事、」横浜成功名誉鑑

倉田牛肉商店 真砂町

和英横浜案内
倉田商店
牛肉商
真砂町1丁目5番地
(871)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

肉屋問屋倉田商店 竹内慶太郎「真砂町1丁目の角、横浜公園に相対する處、盛大なる獣肉市場あり、之を竹内慶太郎君が經營する倉田商店とす、君は尾張の人、横濱神戸等にて肉類販賣の經驗を積み、明治卅九年七月倉田政吉氏の掌理せる店舗を譲り受け、其名稱によりて開店せんが、忽ちにして世上の信用を博し、殊に有名なる神戸牛を特約販賣することとて大に聲價あり、(神戸の特約店は君の女婿なりと云ふ)、各國軍艦郵船會社及重なる官廳汽船等の御用を蒙むり居れり、是れ一は價格低廉なると品質の優等なるを證するに足れり、又君の厳父は、南太田町に於場を設け、盛んに新鮮の牛乳を搾取して、横須賀海軍糧秣廠の御用を始め廣く市内に供給し居らるるといふ、(君又大岡川村井戸ヶ谷の横濱屠場株式會社の取締役副社長たり)横濱成功名誉鑑

横浜市商工案内

竹元信義機械商店 真砂町

横浜市商工案内
竹元信義
機械 船具
真砂町1丁目15番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

柳和洋酒商店 真砂町

柳屋 柳藤吉商店
和洋酒商
真砂町1丁目12番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

シャンビンサイダー開祖 柳藤吉「シャンピンサイダーが玉ラム子を壓して清凉飲料水中の流行兒となりしは五七年來のことにして、其權輿は横濱に興り、横濱に於ける製造發賣の開祖は實に柳藤吉君とす、日淸役後以來國運の膨脹に連れ、世は漸次奢侈の俗に傾き、從來巾を利かせし玉ラム子の如きは紳士淑女界の嗜好に適せず、此時に當り柳君は獨逸人と謀り、始めてパイナップル印シャンピンサイダーを製造するや、忽ち交際界酒席上に於ける不可缺の必要品となり、叉市井一般の賞翫を受け、次第に販路を擴張して現時の盛況を見るに及べり、君本業は酒類販賣にして創立以來三十年、附近第一の老舗なり、サイダーの販路は京濱の市内は勿論全國有名なる都會に涉りて、パイナップル印の名聲赫々たるものありと云ふ、君は九州長崎市の人、明治卅七年支店を常盤町三丁目に設け女婿をして久留米名産の變傘人形等を販賣せしめ居れり、其他市内三ヶ所に支店あり、何れも盛大に營業すと云ふ、」横濱成功名誉鑑

加山道之助質店 真砂町

加山道之助
質業
真砂町2丁目31番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

加山道之助 真砂町2丁目31番地「實業家にして國事に奔走し社會民衆の爲めに貢献する所ある者世其人に乏しからずと雖も多くは自家一身の射利と名誉に齷齪して眞實公事に盡力する者多からざるは吾人の甚だ遺憾とする所なり我加山道之助君は國家緩急の時に際し一家を捨て一身を捧げて砲煙弾雨の間に激戦し遂に偉勲を奏して凱旋し勳七等功六級榮勲を負ふに至れる者真に我が實業界の異彩となすに恥ぢざるなり君は横濱の人由五郎氏の長男にして石川仲町七丁目百三十九番地に生る家代々質商を営み世間の信用尤も厚く家名近隣に陰れなかりしと云ふ君幼にして學を好み小學全科を卒へ三十一年横濱商業學校卒業後今の眞砂町に支店を設け自ら其店主として日夜其業を勵みしかば家運益々隆盛に赴き既に同業者間に重きを爲すに至れりと云ふ初考ふる所ありて一年志願兵を出願し三十一年十一月高崎第十五聯隊に入営し服役一年克く軍規を遵奉して何等誤る所なかりければ三十二年十二月陸軍歩兵軍曹として除隊せる君乃ち家業に従事し寝食を忘れて業務の擴張を計りたりしが偶々日露の間●隙を生じて三十七年遂に干戈を交ふるの已む能はざるに至りしかば其三月君又召集せられて征途に就く夫より各地に轉戰して常に大功を顯はし殊に旅順口攻包圍戦に参加して數月の苦戦に從ひ開城後更に轉じて奉天を圍む偶々不幸にして敵弾に中り内地に還りて陸軍豫備病院の治療を受けしも右手終に不随となり三十八年三月全く兵籍を退くに至れり三十九年十一月町内金港軍友會の會長に推され又町内衛生組合委員に選まれ自ら進んで其任に衝り業務の傍ら大に公共の事業に盡瘁しつゝありと云ふ君の如きは實に軍人の花として又我實業界の龜鑑なりと云ふべし」京浜実業家名鑑

横済癈兵會々長「横濱癈兵會會長なる加山道之助君は由五郎氏の長男石川仲町に生れ、長じて商業學校を卒へ、今の處に支店を設け店主となる、三十一年一年志願兵となり高崎十五聯隊に入り、軍曹に任ぜられて歸郷し、益々家業の擴張を圖りしが、日露干戈を交ふるに至り豫備より召集せられて出征し、旅順の攻圍軍に参加し、更らに輾じて奉天に向ふ、偶然弾丸飛び來りて右手を傷く、護送されて陸軍豫備病院に於て治療を受けしも終に隻手不随となりて軍籍を脱せり、功によりて勲七等功六級を賜はる、後癈兵會を組織して會長となり、同病相憐むの情具に奔走の労を執れり、又横濱軍友會眞港會々長に推され、眞港會幹事及町内衛生組合委員を兼ぬ、」横浜成功名誉鑑

御国屋麻真田商店 真砂町

實業之横濱
御國屋商店
麻真田
真砂町2丁目
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

徳永保医院 真砂町

實業之横濱
徳永保
医院
真砂町3丁目
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

肥沼新平外米雑穀商店 真砂町

横神
肥沼新平商店
外米雑穀肥料貿易商
真砂町1丁目
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

栗原千足薬品貿易商店 真砂町

神奈川縣案内
栗原千足
薬品
真砂町3丁目39番地
(2376)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


横浜貿易新報

忽那惟次郎絹物商店 真砂町

シルク
忽那惟次郎商店
絹物貿易商
真砂町1丁目7番地
(321)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

羽二重業界の奇傑 忽那惟次郎「眇たる一身を提げて他郷に來たり、幾多の先輩を凌駕し馨望隆々とし起るに嘗て、誰か快哉を呼ばざるものあらんや、忽那商店主惟次郎君は伊像の人、幼にして大阪の一商店に入り、呉服類の経験を積み、明治廿年横濱に来り、辨天通大平屋に投じて貿易業に従事す、時に年廿四、此の二商業の閲歴は實に君が今日ある礎石を築きしものにて、明治廿九年に至り、萬代町に於て獨立自營の絹物賣込の業を瓶む、當時君の資本や僅に十金、大膽と機敏は他の模倣し能はざる處、加ふるに自家継験の商略は倐忽にして忽那商店あるを知らしめき、謂ふ勿かれ事偶然になると、其の間の消息豈尋常門外漢の窺ひ知るべき、實に額に汗の乾く間とてはなかりしなり、寝食を忘る、底の形容は君が平常茶飯のことたりしは論を俟たず、十有除年の奮闘能く數萬の巨利を攫して終に現住所に移縛し、斯業界の泰斗を以て推さるるに至れり、君叉絹布製練業に熱心し鹿印製練羽二重の信用は海外到るに喧傳せり、則ち其社長たる川俣絹布製練株式會社は、福島県を始めとして英彿両国の同業者が之を買収せんと試みたるも、自己一時の利益は國家長久の策にあらずして断然謝絶せりといふ、今現に絹物組合評議員及全國絹織物組合代表員となり、商業倉議所議員として頗る聲名あり、君の如きは斯界多く難き人才なる哉、」横浜成功名誉鑑

忽那惟次郎 真砂町1丁目7番地「君は元治元年四月五日を以て愛媛縣風早郡中島村に生る父を治郎太氏と稱し君は其の次男にして家は世々農を以て業とす君年甫めて十一歳にして大阪市に出で某呉服店に入りて商業見習たること數年明治十九年十月更に東京に來りて麴町區知人某方に身を寄せ静に時勢を窺ひ世の趨勢を察して大に爲す所あらんとし以爲らく將來の活戦場は一に横濱にありと明治二十年八月出濱して辨天通り大平屋に入りて貿易業に従事すること久しく大に經驗習練する所あり明治二十九年三月萬代町に獨立自營の一家を構へ資本金僅に拾圓を以て絹物賣込商を開始し幾多の艱難に遭遇し幾多の嶮路を踏破して屈せず是れ皆自己の心力を試むるの試金石なり自己立脚の地歩を占むるの階段なりとし鋭意 熱心殆ど身命を捧げて業務の發展を企てしかば天何ぞ此の燃ゆるが如き熱血と巖をも砕く堅鐡の志に感ぜざらんや爾來十二年間の星霜をて萬萬の富を贏し得て遂に眞砂町に廣大なる家屋を建築し數多の雇人を使役し日に繁昌の幸運に接し今や市内屈指の豪家として其の名噴々たるものありと云ふ明治三十二年以來市內同業者組合の評議員となり同年全國絹織物組合の代表員となり翌年更に横濱商業會議所議員に推選せられて精到周匝の識と 聰慧明敏の見とを以て嶄然頭角を抽んじたり殊に明治三十二年五月川俣絹布整練株式會社を創立し君は其の社長として専ら外交の衝に當り經營畫策の任を盡せしかば今や社運隆々として旭日昇天の 勢を呈し現に福島縣廳より本社買収の件を提供せしも断然として是れを郤け更に英國より四十萬圓佛國より五十萬圓にて各々買収を申込しも亦斷然として是れを拒絶し益々會社の畫策經營の歩を進め發展向上に盡瘁しつつありと云ふ」京浜実業家名鑑

伊東屋呉服店 真砂町

奉祝記念誌
伊東屋呉服店
呉服太物
真砂町3丁目42番地
(2153)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

神奈川縣案内誌