川俣絹布整練
絹布整練
真砂町1丁目7番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書
「川俣整練会社の発展 岩代国川俣町丸富絹布整練工場は今回廃業して従来の事業全部を川俣絹布整練会社の於て継承することとなりたり」実業之横浜
「忽那惟次郎君は川俣産羽二重の整練を其会社の一手に占め、延いては全国羽二重の整練をも掌握し、海外の市場に立っては日本羽二重整練のオーソリチーたらんとの大抱負を以て川俣絹布整練会社なるものを設立したのである。爾来君の奮闘健戦の功は漸く事実の上に現はれて其抱負は着々実現されて特に海外に声価を博したのである。記者は横浜商館の三四に就きて《鹿印練絹に関し是迄本国から何か苦情を持ち込んだ事があるか》を問ふて見たが孰れも其取ひ分に対しては聊かも無かったと断言された、して見ると尠くとも今日の整練程度に於ては鹿印の練絹は海外市場及び絹機場の満足を買ふて居るものと認めても差支あるまい、」実業之横浜
鹿印純絹整練 川俣絹布整練會社「同社は明治三十三年の創立にして社長は忽那惟次郎君、支配人は岩崎定次郎君なり、工場は福島縣岩代國川俣町にあり、羽二重整練の完全ならず固形物付着の爲め一時輸出减退の傾向ありしかば、同社は一定の方針を固守し、鹿印純絹整練を企畵せり、此の効果は海外の市塲に於て大なる信用を攫取し、隆々たる聲價は宇内に響くに至れり、工塲の設備は完全無缺にして全國の模範と稱せられ、鹿印商標は全國羽二重界を席捲し去るの好况を示しつゝあるは最も喜ぶべき現况なりとす、」横濱成功名誉鑑
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