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吉見電気工事商店 野毛町

吉見商店
瓦斯及電気に関する工事請負
野毛町1丁目11番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


駿河屋陶磁器店 野毛町

駿河屋(駿州屋)大石貞蔵商店
陶磁器小売商
野毛町2丁目69番地→71番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


福井屋呉服店 野毛町

福井屋呉服店
呉服
野毛町1丁目5番地
(1992)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


和英横浜案内

海老屋うなぎ蒲焼商店 野毛町

日下部 海老屋商店
うなぎ蒲焼
野毛町4丁目186番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

結田吉野鮨店 野毛町


吉野鮨 結田宇三郎
飲食鮨
野毛町2丁目42番地
旗には「茨城水戸味噌一手販売」の文字が見える
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

鳥居玩具店 野毛町

鳥居翫具店
和洋玩具
野毛町3丁目99番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

大黒屋装具店 野毛町

大黒屋装具店
礼装具
野毛町3丁目147番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

佐藤歯科治療所 野毛町

佐藤歯科治療所
歯科医院
野毛町3丁目128番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

富田医院 野毛町

富田医院
小児科・内科
(1596)
野毛町3丁目148番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

日本堂本店菓子舗 野毛町

奉祝記念誌
日本堂本店
菓子舗
野毛町3丁目95番地
(4767)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

湯浅洋服裁縫店 野毛町

湯浅洋服裁縫店
洋服裁縫
野毛町3丁目136番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

原田屋洋服裁縫店 野毛町

原田屋洋服裁縫店
洋服裁縫
野毛町3丁目129番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

鈴木時計店 野毛町

鈴木時計店
時計
野毛町2丁目42番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

野村歯科医院 野毛町

野村歯科医院
歯科医院
(3125)
野毛町2丁目68番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

山城屋高橋甚蔵茶商店 野毛町

山城屋 高橋甚蔵商店
茶小売商
野毛町2丁目40番地
(780)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

野毛の山城屋茶舗 高橋甚蔵「當地にて茶商といへば人は直ちに製茶貿易を聯想するであらふ、當店はそれでなくて専ら内地向自家専用の品に限る、玉露の上品より番茶も出花の並等品、抹茶の臼の轉るが如くに五人の店員夜を日に繼での大繁忙は、野毛の通りなる山城屋茶舗である、店主高橋甚藏君は福井の出身で、宇治や木幡は云ふに及ばず、山城伊勢の生産地を跋涉して十分製茶の研究を積み、明治十二年當地に來りて開業せしが、遂年の大繁昌で今日に及びしものである、君は製茶組合員に列し又赤十字社員となり公共の事にも奔走さるるよし、本年六十歳で至極健全とは何よりのことである、」横浜成功名誉鑑


横浜新聞社 野毛町

和英横浜案内
横浜新聞社
野毛町3丁目128番地
(1999)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

長谷川下駄傘商店 野毛町

長谷川商店
下駄・傘
野毛町1丁目4番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

山城屋友染店 野毛町

現在の横濱
山城屋友染店
友染
野毛町2丁目42番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「新柄新意匠の友染縮緬は大抵茲に陳列せられて各種の反物は廉価に鬻がれる産地を吟味して顧客を大切にするので門前は常に人の山を築いて居る」現在の横濱

林屋鶏肉スープ商店 野毛町

實業之横濱
林屋商店
鶏肉スープ鑵詰商
野毛町2丁目78番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

小林吉五郎 野毛町2丁目78番地「剛直にして克己の心に富み酒を廃し煙草を禁じ刻苦精勵の結果遂に今日の盛運を見るに至りぬ君が人と偽りを叙して以て新進者の興奮劑たらしめんか君は元治元年十一年市内四ッ谷區に生る即ち源之助氏の四男なり八九歳の時寺小屋に於て僅かに習字を學びしも當時家甚だ豊かならざるを以て 家政上より奉公に出でざる可らざるに至る即ち十歳の時某家の小僧となり更に轉じて某々の諸店に入り年来の宿志を抱いて風雲を待つこと八九年に及ぶも未だ機の至らざるにや前途尚ほ茫々として何等の得る所なし茲に於いてか君大に心に決する處あり奮然蹶起して僅に圓餘の資本を以て鶏肉切賣の露店を開きぬ時に君思へら假令微々たる露店なりと雖も一個獨立の營業たり他の頤使に動かんよりは遥に快なりと爾後粒々辛酸を甞むること二歳にして漸く少資を得依て麹町の富士見町に一家を構へて開店し一意勵精の結果漸次盛運に向ひ四五年の後には店頭常に數百金の商品を並ぶるに至れり然るに好事魔多し夜半に嵐の吹き荒みて満閼の櫻花散亂するは是れ浮世の常態なれば人間亦遂に之れを免るる能はざるなり即ち數年ならずし不幸一陣の魔風は君が身を襲いて失敗を来し君をして遂に破産の止むを得ざるに至らしめき然りと雖も君は之を以て時勢の然らしむる處敢て悔ゆるに當らずとなし意に介するなく少計りの荷物を提げ飄然として横濱に至り僅々十數圓の資金にて鶏肉スープ製造販賣店を開業し傍ら之が切賣の行商をなせり是れ即ち君が二十九歳の時なりと爾 來十星霜の久しき業に倦むなく臥薪嘗膽の結果は數多の富となりて現はれスープ製造及び鶏肉切賣は同市第一の商店となり更に鶏肉罐詰製造高に至 ては全國第一となすと云ふ」京浜実業家名鑑

林屋スープ店 野毛町2丁目78番地 主人小林吉五郎「牛肉罐詰は至る處に販賣せらるるも鶏肉罐詰に至っては近来之を製造するものなし、そは原料の高價なるが爲めに之を製するも賣品に適せざるに依るも先づ鶏肉のスープを製し罐詰製造の副業と爲す者あらは則ち斯業に成功したる者にして東京府下にある二百餘ケ所の鶏肉罐詰製造所が一として成功せざるは斯の副業を營むことなきに由れり林屋スープ店主茲に見るあり、先づスープを製して衛生家の滋養品となし傍ら鶏肉罐詰を製して海外各地の需要に應ず、日本煮の商標を附して京濱間に販賣せらるるもの是れなり、別にボイルド、チキンあり同じく罐詰として賣行頗る宜し、英一斤入三十銭、一ヶ年の販賣高二万五千圓以上に達し目下製造所の擴張中なり」現在の横濱

林屋スープの本舗 小林吉五郎「銀難汝を玉にすとは古き諺なり、君の立志程凄惨なるものはあらざりしなり、されど君は所信あり、赤貧洗ふが如き時代に泰然自若初一念を貫徹せざれば止まざるの敢為の決心は眉宇に現はる、明治廿六年東京より横濱に來り、僅少の資本もてスープを製造し、板場も配達も一人にて一ヶ月二圓の収益を得たり、尋常一様ならんには直ちに放棄すべかりしも、忍耐と克己はよく君を支配して次第に顧客を加へ、日に月に繁忙を極めしにより、終には罐詰製造をも開始し、市内到る處として林屋スープの廣告を見ざるなく、國内は勿論遠く東洋の諸港太平洋沿海岸の埠頭林屋罐詰を知らざるものなきに至れり、君の成功や實に空拳より鍛ひ出せしものといふべきなり、君年齒四十六、熱心なる基督教信者なり、」横浜成功名誉鑑

「野毛町二丁目を鳥渡と這入ると左側である。見付きは甚だ好くないが商賣は確實であって、徒らに外構のみを飾って鬼面人を驚かす底の亜流汲んでゐない。鶏肉の鑵詰にかけては横浜一否全国一であると主人は云ってゐる。東京の二三ヶ所でもやってゐるがホンの少しであって、大仕掛けには製造して居らないとのことだ。うれは實際材料と賣價とが引合はないから自然手控えるのであって、太平洋沿岸で日本移住民のある處へは、本店の鶏肉鑵詰が珍重されてゐて、注文が續々と来るさうだ。市内では鶏肉スープの賣行が好く各病院を始め諸方へ日々配達をしてゐるので、 廿五年に開業した當時より漸次販路が 擴張して盛況を来してゐる」実業之横浜


神奈川県銀行会社実業家名鑑

太田醤油野毛売捌所 野毛町

太田醤油造合資会社
醤油醸造
野毛町2丁目40番地
(2208)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

太田醤油造合資会社「合資を以て醤油醸造業に従ひて盛大比儔すべき者なし當社醸造の品質は頗る濃厚にして佳美あり一般の世評既に之を證明して餘りあり」京浜名家総覧職業

鈴木善兵衛 翁町2丁目19番地「名あるものは實なかるべからず所謂仰げば益崇く俯すれば益々固きものある是を稱して名實雙全の人と云ふ君は醤油醸造業者の泰斗と稱せられ素封家を以て鳴る君は慥に能才俊抜の紳士なり私には實業の盛大を致し公には社會國家の行政に參與し國民の安寧幸福を増進せんことを計る誠に模範的人士たり嘉永元年を以て福井縣丹生郡天津村に生れ父を岩崎彌左衛門氏と云ひ君は其二男なり代々酒造家を以て知らる幼名を謙次郎と呼び今の福井市の鈴木善兵衛氏の養嗣子となり姓名を襲ふ于時明治元年なり十一年國を出で實業家としての旗幟を飜へさんと欲し横濱に来り義兄吉田健三氏と協力し同市南太田町に醤油製造業を創始し屋號を太田と命じ謀計百端大に業に精勵す熱誠と正直とは神人の擁護あり日に月に繁榮に赴き遂に十五年現所に販賣店を新設し商業愈々擴張し發展し來り屈指の巨商と言はるるに至れるは君の賦才を以てして粒々辛苦せるの結果なりと謂ふべし茲に於て二十六年輿望を負ふて壽町外六ヶ町の區會議員となり二十九年同學務委員となり三十二年同區會議員となり三十三年横濱中央貯蓄兩銀行の取締役となり三十六年神奈川縣々會議員となる此外學校の設立に奔走盡力し兼ねて神社佛閣の修築に勗め學務委員等の公職に在りて勲蹟尠なからず銀盃木盃賞狀等を受與せられしこと数囘の多きに及び又博愛の心惻隠の情切なる君は慈善事業に對しても未だ曾て人後に落ちしことなし斯の如く社會の爲に鞅掌せらるると同時に決して自己の職分を荀且に附するものにあらず第五囘内國勸業博覽會の開設に際しては君率先して製造品を精製出陳し第一等賞を得られたるは以て生用意のあるところを窺ふに足らん希くは福祉永く君の上にあれ」京浜実業家名鑑

分銅富士印醬油釀造元 太田醬油釀造囓社 南太田町912番地(689)「富士印醬油とて内外に好評ある太田醬油釀造會社は其起原古く、鈴木吉田兩氏の共同事業なりし、吉田繁氏は目下東京に在り、氏は開港當時に於ける英學者にして明治初年頃通譯をなし種々功績ありしが、後醬油釀造を企て盛に販路を擴張せり、鈴木氏は分離して翁町に販賣店を開き目下は主として吉田氏の經營となれり、一ヶ年造石高一萬二千餘石、海外の輸出も尠なからず、內國勸業博覽會及共進會等にて賞状賞牌を受けし數回に及ぶ、支配人村上嘉氏は黄金町五丁目十五番地に住し圓熟なる實業家として世に重ぜらる、横濱成功名誉鑑

太田屋醬油店 鈴木善兵衞 翁町2丁目19番地(629)「太田の醤油といへば市內はいふに及ばず近鄉近在に知らざるものなし、本店は明治十年の創業分銅印富士印以下各種を醸造し、其石高現に一萬石以上に上るといふ、店主鈴木善兵衛君【六十二歲】は福井縣の人、家代々酒造家なり、明治十年橫濱に來り、義兄吉田健三氏とともに太田村に於て醬油醸造業を創む、一般需用家の信用篤く年々石高を增加せしより、會社組織に更ため、南太田町に醸造所を設け販賣部を當所に置き、卸小賣を爲し酒類をも販賣し、北方町羽衣町野毛町東京等數ヶ所に支店あり、公人としては廿六年七月壽町外六ヶ町の區會議員となり、廿九年十 一月壽學校建築委員に擧げられ、卅三年横濱中央銀行取締役に、叉横濱衛生株式會社取締役に推さる、卅六年縣會議員に選ばれ、四十年九月改選の際再び擧げられて其職に在り、」横浜成功名誉鑑


神奈川縣案内誌

横浜市商工案内