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日本メソジスト横浜教会 蓬莱町

日本メソヂスト横浜教会
蓬莱町1丁目5番地
明治32年(1899)竣工した横浜美似教会会堂
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

天狗堂三田時計店 蓬莱町

横浜貿易新報
天狗堂三田時計店
時計店
蓬莱町1丁目7番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

原木土木請負組 蓬莱町

神奈川縣案内誌
原木組
土木建築請負業
蓬莱町3丁目13番地
(496)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

建築業の古参原木組 原木仙之助「現代原木仙之助君は本年十六歳工手學校に通學中なり、君の祖父なる人は千葉縣原木村の人、明治五年頃より土木建築業を營みしが、嚴父之を世襲して橋梁架設を以て最得意とせり、鶴見村に煉瓦工場を建てて煉瓦を製造し、鶴見矢向に原木組出張所を設けて盛に營業範圍を擴張せり、卅五年六月遠逝せらる、爾後金子啓三郎氏監督支配人として百事に鞅掌し、能く幼中の現主を補佐し明治卅八年に至り組合組織に改め、石川徳右衛門氏を組長に仰ぎて偉業を大成せんとす、四十一年十月横浜倉庫會社埋立工事を請負ふや、二ヶ年半の契約期限なりしが、勉勵董督其功を奏し一年十ヶ月に竣工せり、實に期に先つ八ヶ月の速成なりし爲め三萬五千圓の賞與を受けたりといふ、又以て其業務の整盛なるを察知すべきなり、 其他横浜船渠の第一船渠工事も完成して 銀杯を受け、諸會社より勞に酬ひて表彰せし金銀賞牌木杯等枚擧に遑あらずといふ、」横浜成功名誉鑑

「横浜市に在りて土木建築其他工事の請負業者間に巨擘と仰がるるものを原木組となす同組は原木仙之助氏が實に今日の基礎を遺せしものにして事務所を蓬莱町三丁目に設け盛んに工事の請負を爲せり、彼の勸業共進会の建築の如き實に其請負にかかると云ふ」現代之横浜


現代之横濱

金線サイダー製造所 蓬莱町

神奈川県案内誌
金線サイダー製造所
蓬莱町4丁目48番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

金線印サイダー製造元 秋元巳之助「蓬来町川岸に宏大なる洋風建築物あり、轣轆たる機關の響、呼呶たる人夫の聲、二六時中絶ゆることなし、是れぞ秋元巳之助君が清涼飲料水金線印シャンピンサイダーの工場とす、君本年六十五歳而も共見識の卓越に商略の機敏なる同業者中匹儔を見ず、夙に清涼飲料水製造に腐心し、明治九年の頃巳に佛國より機械を輸入し、年々新奇の飲料水を製出せしが、明治廿年更らに英國の最新式を撰び、諸般の設備を改良し、機具を整頓し、明治四十年には原動力に電気及瓦斯を使用する等全く斯業界の模範工場を以て目せらるるのみならず、猶自家獨得の製造機を考案し、終に好評嘖々たる金線印シャンピンサィダーを製造するに至る、今や全國至る所に普及して、炎熱焼が如き三伏の候、萬人をして涼味を聯想せしむる最好飲料水は即ち是なり、實に同種品類中の白眉とす、君は千葉縣の人、明治四年初めて横濱に來り、始め翁町に開店、後尾上町に移り更に擴張の為め現所に轉じ又鎌倉八幡前に支店を設く、蓋し邦人にして斯業を營むものの元租なりと云ふ、令嗣秋元君又敏活の人、主として事務經營の任に當り、孜々發展の爲めに盡瘁せらる、」横浜成功名誉鑑

「市内に入りて目に付くは屋根上の大瓶なり。是れ清涼飲料『金線サイダー』の製造所なり。煉瓦造二百餘坪職工千餘人販路全国に普し。種々なる「サイダー」あれど本品は其優等なるものなり。勿驚一ヶ年の製造高百餘萬圓公私宴會に缺くべからざる品となる。發賣所は尾上町中澤彦吉商店。「キリンビール」と共に本市の二大勢力。横浜遊覧商業案内

小林九蔵薪炭問屋 蓬莱町

小林九藏
薪炭問屋
蓬莱町2丁目11番地
(799)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

小林九藏「豆相常野の産地より日に入荷する薪炭は原質清良にして貫目亦正確なり其商法着實を旨とし勉強他を凌ぐを以て繁榮第一に位すといふ」京浜名家総覧職業


神奈川縣案内誌

大橋医院 蓬莱町

横浜姓名録
大橋医院
病院
蓬莱町4丁目54番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

大橋武造 蓬莱町4丁目54番地「君は安政三年一月を以って羽前國山形に生る孝道氏の長子にして幼名を孝範と稱す家は代々醫を以て業となし君が祖父大亮氏は清水家の侍醫として其の名近郷に普ねかりしと云ふ君幼より學を好み父孝道氏に就きて醫道を學ぶや其の一を聞きて十を悟り記憶強精にして一度其耳に入れば甞て之を遺忘せず將來畏るべき神童として衆皆其爲人を愛せりと云ふ明治十年普通教育を修了するや直ちに山形醫學寮に遊び寝食を廃して勉學したる効果空しからず毎期成績優等を以て進級し三年の後ち即ち明治十三年成績尤も優等にて同校を卒業内務大臣より醫士免許状を附與せられたり茲に於て君は益々其蘊奥を極めんと欲して郷關を出で先づ仙臺に来りて宮城病院に入る同院は一縣立病院に過ぎざりも土地に醫學専門學校在りて之れが學生の研究に供する爲め年々莫大なる國家の保護を得て規模中々に大なると共に数多の名醫と同院に職を奉じ居たりしかば少なからず君の研究を援けしめたりき後ち東京に出で名醫岩佐氏に就きて研學し大に其目的を果して帰省するや福島病院の聘に應じて同院に勤務せしも在職一年にして再び山形に帰り乃父を輔けて開業する傍ら山形乙種醫學校助教となり教頭遠山椿吉氏を助けて数年の間其の職に在りき十七年四月徴兵検査醫を託せられたるを始めとし種々の公務を嘱托せられて何れも嘖々の名誉を轟かせり二十五年上京して東京顕微鏡院に入りて顕微術を研究し其終了するや横濱に赴き居を蓬莱町にトして醫院を開き親切と熱心とを以て其業を行へる爲め市民の人望中々に盛大にして三十四年衛生組合の組織せらるるや其會長に挙げられ三十六年ぺスト再發の際は自ら進んで衛生消毒隊を組織し其撲滅に従事せり」京浜実業家名鑑