横浜姓名録 |
大橋医院
病院
蓬莱町4丁目54番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書
大橋武造 蓬莱町4丁目54番地「君は安政三年一月を以って羽前國山形に生る孝道氏の長子にして幼名を孝範と稱す家は代々醫を以て業となし君が祖父大亮氏は清水家の侍醫として其の名近郷に普ねかりしと云ふ君幼より學を好み父孝道氏に就きて醫道を學ぶや其の一を聞きて十を悟り記憶強精にして一度其耳に入れば甞て之を遺忘せず將來畏るべき神童として衆皆其爲人を愛せりと云ふ明治十年普通教育を修了するや直ちに山形醫學寮に遊び寝食を廃して勉學したる効果空しからず毎期成績優等を以て進級し三年の後ち即ち明治十三年成績尤も優等にて同校を卒業内務大臣より醫士免許状を附與せられたり茲に於て君は益々其蘊奥を極めんと欲して郷關を出で先づ仙臺に来りて宮城病院に入る同院は一縣立病院に過ぎざりも土地に醫學専門學校在りて之れが學生の研究に供する爲め年々莫大なる國家の保護を得て規模中々に大なると共に数多の名醫と同院に職を奉じ居たりしかば少なからず君の研究を援けしめたりき後ち東京に出で名醫岩佐氏に就きて研學し大に其目的を果して帰省するや福島病院の聘に應じて同院に勤務せしも在職一年にして再び山形に帰り乃父を輔けて開業する傍ら山形乙種醫學校助教となり教頭遠山椿吉氏を助けて数年の間其の職に在りき十七年四月徴兵検査醫を託せられたるを始めとし種々の公務を嘱托せられて何れも嘖々の名誉を轟かせり二十五年上京して東京顕微鏡院に入りて顕微術を研究し其終了するや横濱に赴き居を蓬莱町にトして醫院を開き親切と熱心とを以て其業を行へる爲め市民の人望中々に盛大にして三十四年衛生組合の組織せらるるや其會長に挙げられ三十六年ぺスト再發の際は自ら進んで衛生消毒隊を組織し其撲滅に従事せり」京浜実業家名鑑
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