鶴屋呉服店 石川町

つるや呉服店(旧陳列場)
呉服商
石川町4丁目14番地(215)
月野猪八郎の設計で明治43年新陳列場が増築落成した。ルネッサンス式木骨石造の地上3階、地下1階の建築で1階は事務所、2階は陳列所及び休憩室、3階は陳列会場と食堂があり、塔の内壁画は五姓田芳柳が『天国の楽園』を描いた。明治43年以降、暖簾式を廃止して純デパートメントストア式を採用、『横浜にも三越が御座る』と意気込みを示した 松屋デパートの前身
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「横浜市内大呉服店として知られたる亀の橋際鶴屋呉服店は革新の率先者として同業者間に推され又品質の確実なるを以て称せらる位置片隅なりと雖も多大の顧客を吸収して商業繁栄を致し機を見て大に発展するの雄 圖を有し先に東京神田今川橋の松屋呉服店を買収して之を経営し東京屈指の呉服店に数へらるるに至り後に横浜市の中央吉田橋際に地を相し宏荘の建築略略成り市の一美観と称せられ東都と相呼応して斯界に飛躍せんとせしに不幸祝融の襲ふ所となり為に其計画は中止せしも商業は益々繁盛なるを以て他日雄図を実現するの日あるべきを信ず。」現代之横浜

「つるやに至っては其営業振は東京の大呉服店に較べ、よしや後れ馳せてふ嫌あるにもせよ、常に何等かの趣向を凝らして人の眼先を換へ一般顧客の注意を惹き寄する方法を怠らざるのは、甚だ多とすべき點で東京呉服店の格に比べると先ず白木屋、大丸位の所か、併し其客を引く様子から商ひの仕方が如何にも出来星的で、大呉服店の奥床しい趣に缺けて居は、チト面白い言草だが大国民的でない、之は同店顧客の多数に馴致された一種の店風と言って仕舞へば夫れ迄だが折角あれ程の大店としては惜しい事だ、其店内総理たるものは十二分に此點に注意を払はれたいものだ」実業之横浜

つるや吳服店 古屋徳兵衛「龜の橋鶴屋呉服店は横濱草創の老舗で、四十二年間方針を變ぜず、着々として終に今日の成功を來した、古屋德兵衛君は非常の傑物である、弘化元年甲斐國北巨摩郡蓬莱村に生る、君性謙讓にして寡言、始め横濱に來るや同業者の迷惑を避け特に人家の稀薄なる當時の石川村を擇んで此處に出店されたのである、家憲として價を二三にせず、親切を旨とし、客の滿足を圖るべしといふのが第一の綱領である、それで鶴屋の品は如何にして低廉なるかとの疑問は顧客のみでなく同業間にすら度々起る處だが、何も怪むまでもない、元方吟味の上最確かな精良品を仕入れて、他店に比して薄利で賣るといふの點だ、それに顧客の滿足する要素は、流行に後れない、譬へば次期の流行は何物で、如何なる品柄色合が適するかを看破するのだ、猶常に店員を訓誨して、賣人とならずして買人となれとの一言は如何に觀切なるか 判る、客をして不安心を抱かしむるは最も拙の賣方で、双價額の多い程鄭重に取扱ふが人情だが、店主は常に云ふのに、一錢一厘の客人も客人たるに相違がない、吾店の大事の華客である、是を粗末にせば大なる客も自然來られざるに至ると、叉商賣の秘訣ではあるまいか、叉別に地方係を設けて近在地方は勿論、海外の注文にも一視同仁主義で、内地否自店での顧客と少しも變りがない、猶五男榮一氏をして歐米を視察せしめ、率先して文明的の均一販賣部を置き、專ら購客の便利を謀り、又バーケンデーを設けて廉價販賣を開始したのも古屋吳服店が嚆矢である、斯の如く君の嗜好は只商業で、萬籟寂たる秋の長夜など、老の寐醒の徒然なるとき、二三の商業方法を案出して解决するときは、心易く再び眠むらるといふ、天性商人たる資格ある人であらふ、君雅量に富み店員皆其德に服し、忠實に本務に勉勵し、店內一同和氣璽掬すべき美風があると云ふ、双東京支店松屋は明治廿三年中店員其他居附のまま買受けて支店となし、二男藤八氏店主として松屋の屋號を繼承し、業務を擴張されたのだといふ、君は鶴屋呉服店主人として京濱間に於ける同業の重鎮たるのみでなく、實に日本に於ける同業者間に推重 されつゝある一事は、明治卅七年の春彼の絹布課税問題の起るや、全國同業者は奮然として立ち、同年四月京都に於る全國絹織物業同盟大會となり、君は東京吳服太物商組合組長として、東京府の同業者を代表して大會に臨み、これが廢止の爲め斡旋奔走寢食を忘れて盡力されしは、今猶ほ世人の耳に新たなる所にして、同業者の感謝措く能はざる處である、叉大日本織物業聯合會設立せらるゝに至りて、君は同會の理事に推薦せられ能其任を全くし、全國斯業界を指導して誤またず、多大の貢献せるものありたるは一般當業者の熟知する處である、聖君は商業上の傑物のみでなく、同業の重を推され、平素慈善を好みて水災火難の窮民を救恤せしことも少なくない、宜なる哉鶴屋の家名隆々として起り、動るきなき龜の橋の袂、巍然として彌榮ヘに榮へゆくこそ目出度き極みである、」横濱成功名誉鑑



神奈川県銀行会社実業家名鑑

0 件のコメント:

コメントを投稿