富士瓦斯紡績 保土ヶ谷

富士瓦斯紡績 保土ヶ谷工場
瓦斯紡績
保土ヶ谷町帷子985番地
明治43年(1910)1月から操業開始した。同年4月2日、県知事他百名を工場に招待し工場案内と午餐会が催された。翌3日(日曜日)も同じように工場見学が催されたのであろう、絵葉書に記念印が押されている。
明治の横浜手彩色写真絵葉書

富士瓦斯紡績株式會社程ヶ谷工場「我國瓦斯紡績業中第一の大會社として知られたるを富士瓦斯紡績會社とす本社は東京府下大島村に在り先年保土ヶ谷町なる日本絹綿紡績會社を買收して分工場となし大に規模を擴張し男女工一萬餘人を使役し絕えず製造に從事しつつあり、同社は今回又々分工場を川崎町に設く規模保土ヶ谷に讓らざる大工場にして本年中に運轉を開始する 由以て同社の盛運を卜するに足る。」現代之横浜

富士瓦斯紡績株式會社保土ヶ谷工塲 「保土ヶ谷町帷子九百八十五番地に在り明治三十六年に於て絹絲紡績事業を營み來れる日本絹綿紡績會社を買收し事業擴張の方針定まるや技師を歐米に派遣し工費三百萬圓を投じて新工場の建設に着手し明治四十三年竣工す其後數回に涉りて工場を増築し又小山第二工場を移せり敷地六萬坪職工は女工四千五百人男工一千五百人にて精紡機六萬二千四十錘製紡機百三十臺織機二百八十臺全額製產高 一ヶ年約一千萬圓にて絹綿は內地及び歐米印度方面に輸出し紬絲は內地の外歐洲に輸出されペニーは佛英瑞の諸國に珍重され富士絹は濠洲及び英國に輸出す黑姻濛々として龍蛇の天に沖するが如く晝夜を別たす職工は晝夜の兩部に分れて業務に従事し縣下第一の大工場なり特に當會社の特色として職工の爲め衞生設備 幸編增進、慰安會等を組織して幼兒預所哺乳所食堂病院寄宿舍娛樂所學校裁縫購買組合等總て他の模範となるべきものにて工場醫士六人藥劑士一人看護婦十二人あり又社宅二百戶は西谷舊日本絹綿紡績會社工場內に在りて共同沿場慰安所娛樂所內職場等完全の設備を爲せり而して工場長は朝倉每人君次長荒木團藏君技師長後藤正嶷君同次長渡邊幾之助君なり」横浜社会辞彙



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