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小松屋山田漆商店 福富町

小松屋山田商店
漆製造販売業
福富町1丁目30番地・31番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

山田茂平「今にして思ふ漆製造販売業山田商店は實に横浜に於ける斯業者の鼻祖たり、店主山田君は福井縣今立郡河和村字小阪の人、弘化四年の出生なり、資性溫厚篤實、郷里に在るや漆商に従事す、而して横浜開港を聴き飛躍の意あり、明治八年出濱し現所に開業せるが、當時他に同業者少なく、孰れも高價を拂って原料を東京に仰げり、君即ち需要者の便宜を計らん爲め生國より原料を取寄せ、黒目漆の製造を開始す、折柄漆器の輸出増加し君の行も随って繁榮を加へ、巨額の利を占めて基礎を固めしが、三十二年大火の厄に遇ひ數萬の損失を招きたり、されど毫も屈せず家屋を建造し、奮勵努力間も無く盛大舊に倍するに至れり、廿七年第一回聯合共進會、卅六年第六回内國勸業博覧會其他各府縣共進會に出品して賞状を得、」横浜成功名誉鑑

花田新聞店 福富町

現在の横濱
花田新聞店
新聞売捌業
福富町2丁目55番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

本島医院 福富町

横浜姓名録
本島医院
呼吸器病専門
福富町2丁目66番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

雅匠堂家具店 福富町

神奈川縣案内誌
雅匠堂
家具指物業
福富町1丁目27番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

京屋佐藤薪炭問屋 福富町

神奈川縣案内誌
京屋佐藤孝助
薪炭問屋
福富町3丁目71番地
(1720)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

飴平木炭問屋 福富町

神奈川縣案内誌
飴平竹内定吉
木炭問屋
福富町3丁目91番地
(2544)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

横浜印刷舎 福富町

神奈川縣案内誌
横浜印刷舎
印刷
福富町1丁目26番地
(3840)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

橘屋和洋菓子舗 福富町

奉祝記念誌
橘屋 堀田商店
和洋菓子
福富町1丁目19番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


神奈川縣案内誌

開港紀念電気館 福富町

開港紀念電気館
活動写真館
福富町1丁目30番地
(1987)
明治42年(1909)7月2日開場
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

開港紀念電氣舘 內山梅吉「活動寫眞は今を距る十一年前即ち明治卅二年八月辨天通玉村寫眞館に外人より撮影の注文を受けたるに起因す、當時僅かに二三回劇場を之に當て開會せしに過ぎず、爾來長足の進步を來して、東京に於ける吉澤寫眞店京都に於ける横田商會の如き事専門に器械映画を製造し、叉傍ら興行を爲せり、純興行側には駒田好洋一派、堀江謙吉一派の如き全園巡業隊を組織して各地を歴演せり、横濱市内には常設館數ヶ所あり松ヶ枝町の横濱電気舘及び大祝舘、福富町の紀念電氣館等其最なるものとす、紀念電氣舘は内山梅吉君個人の經營にして、資本金二萬五千餘圓を投し設備第一と評せらる、君は共他賑町敷島舘をも監督し、尚進んで横須賀若松町に常設電気舘建設の計畫中なり今此の内山君の継歴を按ずるに又立志傳中の人たるを失はす、そを略叙せむに郷里は伊豆園三津の人、明治六年の出生にして父と共に横濱に移住し、横濱商業學校に於て教育されき、義兄は有名なる米国歸化人内山蘆雪氏なり君廿一才學校を出てて後義兄の業を助けて奥州勝田山硫黄採取事業に従ひしか、廿三歳より山下町百八十番グロッセル商會輸入部に入り、勤績十年に及べり、卅二の春東京麹町ポーラック商會輸入部主任に輾ず、精勤衆に超え商會主の信頼浅からさりしか、多年の辛労終に神経衰弱を来たし病勢日に重かりしかば、終に職を解して保養旁々全國視察の途に上れり、東海の水中國の山、君の病魔を驅りて幸に健康舊に復せしかば、爾来辨天通玉村寫眞舘の經營を托せられ、或は資本を支給し叉各債権者を代表して業務一切を監督することとなりしは、是ぞ君をして活動活動寫眞に従事せしめし動機とはなれるなり、君資性率直にして勤勉、父の遺訓なる『居十中』と云へる語を守り、忍耐節約貯著を以て金科玉條となし、箴言深く胸裏に滲透して習ひ終に性となりぬ、始めグロッセル商會に雇ははや、毎月手當僅に五圓に過ぎす、精励の結果後には三百圓以上の収入ありて、商會を辞せし當時は既に三萬有餘の貯金ありしと、其の克己と精勤には聞く者舌を捲かざるものなし、又曾て久保山に横濱墓地清掃会社を起し市民の便利を計り今尚其監督の地位にあり、又奇篤の行といふべきなり、」横浜成功名誉鑑


神奈川縣案内誌

兵藤芳矩小児医院 福富町

神奈川県銀行会社実業家名鑑
兵藤芳矩
小児医院
福富町2丁目55番地
(932)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

醫會の経世家 兵藤芳矩「浅野總一郎氏等に係れる南北石油會社の平沼に建設さるるや、設備不完全にして油槽の破損一再のみならず、あらぬだに惡臭を放ちて附近の住民に畏懼を抱かしめ、沿海の漁業家は魚族海藻に變味を生じて大恐慌を来さんとす、此時に當て決然立て其非を絶叫し抗議を提出せしは實に兵藤國手の主唱に係れり、國手は丹後峯山の人、明治十年横濱に来りて醫を業とし、市會議員として侃諤の正議衆の推服する所なり、南北石油事件の如き最沈着の態度を取り、仔細に原因を調査し市會の意見として監督官廳に上申し、一方會社に向て警告を試みしに、會社もその穏當なる抗議には大に反省して後寶田石油会社に合併し、残滓の如きも海中に放下せず肥料會社に交付し、設備を更め大に居住民に慰安を興ふるに至りしは、實に國手が仁侠の行為に出てしものと云はざるべからず、」横浜成功名誉鑑

西村写真館 相生町

西村写真館
写真館
福富町2丁目68番地→相生町1丁目公園前
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

西村賀萬三 福富町2丁目68番地「文久元年五月尾張名古屋市七小町に生る父を景達と云ひ尾州大御番役にして後尾張國愛知郡彌富村長たり君は長男にして幼少の時より實業に志せり明治十二年君が十九歳の時東京に出で尾州侯邸内荒木氏に就いて漢學を修む十六年三月奮然東京の地を去りて横濱に出で玉村氏に寫眞術を研究せり其れより三十五年迄君は玉村方に寄留して刻苦其業に従事せんが其間の君の辛酸は實に一方ならざりき寫眞修業のみなれば別に難儀の事にもあらざれども如何にせん食客の悲しさ朝は早く夜は遅く水を汲み薪を割り掃除の事より客の接に至る迄殆んど君の手を勞せざるもの無かりければ餘暇と云ふの殆んど無く若し普通の人間ならば迚も身體の續く所にはあらで半途にして其家を辭したりしならんも君の意志の堅固なる目的に向っては水火も辭せざるの勇猛心は其等の萬苦に打勝ちたるのみならず餘暇なき餘暇を利用して二十世紀に活動せんとするものは是非亦英語を學ばざる可らずと思ひて夜學に通ひて英語を研究せり其精力の絶倫なりしは當時君を知るものの等しく驚く所なり三十五年玉村家を辭してよりは如何にして店運を隆盗ならしめんかと苦心せしが我國の漸く世界に知られ風景の美にして世界に冠たるを利用するに若かずと日本三景は無論到る所の風景を撮影して或は寫眞とし或は寫眞帖として外人に販売せしかば大に外人の好奇心に投じて是を求むる者甚だ多く遂に今日の盛大を見るに至れり君は寫眞術の既に一個の美術にして高等の趣味ある如くに總てのものに趣味を有し知るよりも味ふものを好む所より利慾よりも趣味の多き釣魚は君の最も好む所なり而して黒白を並べて知人と對陣するは君が唯一の慰安なりとは甚だゆかし」京浜実業家名鑑


横浜貿易新報

実業之横浜

奉祝記念誌

綿貫張洗店 福富町

横浜社会辞彙
綿貫七之助
張洗
福富町2丁目44番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

綿貫七之助「君は耐忍にして勤勉、正直にして獨立の勇気を皷して小資本より洗張店綿貫商店を営み社會の信用を得るに至りたるものにて明治六年六月六日埼玉縣入間郡精明村大字平松に生る綿貫角五郎氏の二男なり明治十七年四月九日十一歳にして横濱市福富町二丁目四十四番地山下辰五郎氏の商店員となり十三年間忠實を旨とし勤勉努力し明治二十九年五月十日主家を退き資本金拾五圓を以て洗張店を開業し鶏鳴に起き夜は十二時に臥し一意専心誠意を以て業務に勵精し次第に華客の信用を得るに至り翁町二丁目二十八番地に商店を新築し翌年倉庫一棟を建築して益々營業を擴張し明治四十一年九月一日舊主山下氏の商店倉庫等を譲受けて市内に四軒の支店を設け洗張整練業に従事し福富町を本店と定め翁町の商店は令弟加藤泰造氏に貸與し常に店員を督勵して奮闘せり君は眞摯眞實にて華美を好まず言々皆至誠より出で人を感服せしむるものあり令息林藏氏は(二十歲) 東京日本橋區本銀町金子商店員となり長女初子は(十六歲)愛隣女學校三年生にて他は小學校に通學せり」横浜社会辞彙