宝田石油株式会社横浜製油所 保土ヶ谷町

寳田石油
保土ヶ谷町字岩間
明治の横浜手彩色写真絵葉書

本邦石油界の盟主 寳田石油株式會社横濱支社石油の燈火として用ゐらるゝに至りしは近代の事なるも、天然石油は古代よりあり、アッシリヤ及エジプト時代既に鉛狀原料のものを建築用に供せりと云ひ、本邦にては天智帝の御宇燃ゆる水を献ぜし乙と古史に見ゆ、千八百五十九年米國に於て始めて鑿井法起りし以來現時年額數億萬圓の一大鑛業となり、日本にては明治十九年米國式鑿井法を應用せるより、俄然斯業の勃興を見るに至れり、寶田石油株式會社は廿六年二月資本金一萬五千圓を以て日本のバクーたる越後の長岡町に創立せらる、當時石油業發達の機運に際し、會社及組合の組織さるゝもの踵を接したれ共、多くは一時の僥倖を庶幾する投機者流にして、着實の企業家は之を賤蔑するの狀勢あり、斯業の前途爲めに一頓挫を來さんとせり、本社は之を慨し、其弊害を矯正して斯業の發達を擁護するの目的を以て起てるもの、乃ち率先して合同を唱導し、外には大隈伯等の聲援あり、内には現社長山田又七君専務取締役渡邊藤吉君等熱心に鑛業家を勸告し、加ふるに戰後經濟界の大整理を必要とする好機に會し、前後三回の大運動を以て、創立より本年に至る十七年間に於て、村井石油鑛業部、南北石油會社其他合計百廿七の會社及組合(投資金額千八百萬圓)を買收し、今や日本隨一の大石油會社と爲れり隨て現時の資本金一千百六十五萬圓(内拂込九百十五萬)積立金百九十八萬餘圓を算するに至れ 、本社は專ら米國式機械鑿井法を用ひ、鑛區は新潟、長野、靜岡縣を始め、遠く臺灣、北海道に亘り七個の出張所二十九の鑛塲を以て之を經理し、探油坑井入十三、最近の日産額三千五百餘石に達せり、本社の事業は石油の採掘、製油、固形鑛物の探掘製煉及是等の販賣にして、製油所を長岡、柏崎、新津、沼垂、横濱の五個所に設け、販賣の全部は擧げて株式會社國油共同販賣所に托せり、製油の種類は燈油、輕油、機械油、揮發油、燃料油、殺蟲油及びピッチ等にして、燃料重油は他社に卓越せる特色ありと云ふ、重役には山田社長渡邊專務の外、村井吉兵衛、淺野總一郎、大倉喜三郎、其他の諸君あり、横濱支社主事は布施國治君、同製油所主事は今井藤次郎君、同貯油所は平沼町に在り、前横濱市助役高木可久君之が主事たり」横浜成功名誉鑑

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