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伊東彌三郎建築設計 中村町

神奈川県銀行会社実業家名鑑
伊東彌三郎
建築請負製図設計監督業
中村町1555番地
万延元年(1860)12月25日生まれ、明治18年頃よりフランス人建築家サルダ(Paul Pierre Sarda)に就き、製図設計、大小工事に従事した。サルダの亡くなった後の明治40年(1907)10月に独立開業、山下町31番にも営業所を設けた
関わった工事として太田町旧金門銀行工事、山手町エニール氏住宅新築工事、エニール商会倉庫新設工事、山下町37番クーンコモル商会工事、ポーラック商会工事、サイモン商会倉庫他煉化建設設計監督工事、フランス領事館設計監督山下町甲90番館設計監督工事、山下町89番館設計監督工事、尾上町指路教會設計監督工事などがある
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

白木屋酒問屋 中村町

白木屋白石作造商店
酒類問屋
中村町1341番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

兩國橋印一手捌 白石作造「『終夜浮舟傾數杯』と賛辭を題せる芳醇無比の純良銘酒兩國橋印は灘御影なる若林氏の釀造にして中村町白木屋にて一手販賣せらる、店主白石作造君は嘉永六年埼玉縣粕壁町に生る、明治四年橫浜に來り、當時は微々たる小賣酒屋なりしが、熱心と勉強には敵するものなく、漸次に膨脹して市内六ヶ所の要樞に支店を設置し、儼然たる直受問屋となり、『白作』の名は遠近に轟ろき、三百餘戶の貸屋を所有し、中村方面に於ける重鎮たり、現に商業會議所議員として令名あり、」横濱成功名誉鑑

神奈川縣案内誌

弥八ヶ谷戸

弥八ヶ谷戸
吉田新田の埋立と根岸を結ぶ舟運のために堀割川が造られた
その最大の難所がこの弥八ヶ谷戸の切り下げ工事だった
さて、この写真は根岸側から撮ったものなのか、中村川から撮ったものなのか
根岸側からの説があるが、川の曲がりや川面に映る影を見ると中村川側からのようにも感じる
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

横浜植木株式会社 中村町

横浜植木株式会社
植物輸出
中村町21番地
明治23年(1890)鈴木卯兵衛を中心に植木屋が集まり横浜植木商会を設立。日本の花弁植物や百合根を輸出していた。磯子、蒲田に菖蒲園を開設した
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「植物の直輸出を目的とせるものとして本邦植物輸出の開祖たり今日百合根の輸出百萬円に及ぶもの実に同会社が之を各国に紹介したるに依るものなり同社は資本金五拾万円にして積立金拾参萬七千円配当は一割二分の好歩合を有せり以て同社事業の一般を卜するに足るべし。」「横浜植木株式会社は中村町にあり、四季の花木を栽培して専ら海外に輸出し、又園内の遊覧を許せり、又屏風ヶ浦字磯子に支園あり、年々花菖蒲を培養し、磯子の花菖蒲とて世に持囃さる。」横浜名所図会

「横浜植木会社の発展 横浜植木会社は先頃の総会に於て資本金を五十万円に増加することを可決したるが同時にロンドン支店設置の件をも可決したり」実業之横浜

本邦産植物輸出 橫濱植木株式會社「初め外國人の創立せしものなりしが鈴木卯兵衛氏等讓り受けて、久しく植木商會と稱せしが後株式組織に變更せしなり、資本金五十萬圓、支店は北米紐育パークレイ町及英國倫敦キングス街にあり、本邦所産の植物其他の商品を海外に輸出し、園藝に關する諸物件の輸入を以て營業目的となす、明治廿四年五月の創業に係れり、取締役社長は鈴木卯兵衛君取締役は飯田秋三郎、須田定治郎、德田佐一郎、鈴木濱吉等の諸君にして、植木商會以來花園の結構雄麗壯大四季の眺めに富み、橫濱名所の一として、内外人の遊覽絕ヘず、近來蒲田に菖蒲園を設けて觀覽に供す、百合根の輸出は殆んど壇塲の好况を占む、明治卅八年本社事務所の新築成り更に一層の美觀を添ふ、」横濱成功名誉鑑





murray

大日本銘石商会 中村町

和英横浜案内
大日本銘石商会
石材製造
中村町742番地
(838)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「日本共同石材会社と隣し大理石、花崗石の製作品及其販売を業として世に知られ其製作にかかる家具を始め装飾品或は建築材料等は精巧にして勧業共進会出品の塑像の如き金賞を得るの名誉を荷ひたり。」現代之横浜

大日本銘石商會 福島保三郎「大理石及花崗石其他の石材を販出し兼て之れか細工をも營む近時濱港の発展殊に盛なり本商會の需用に竣つ亦多々ならん」京浜名家総覧職業

日本共同石材 中村町

和英横浜案内
日本共同石材
中村町739番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「大理石、花崗石を始め各種石材の販売并に工事材料の請負を為すを以て目的となし現に東京芝なる浅野総一郎氏邸宅の建築材料を始め満州鉄道会社直営のヤマトホテルを請負ひ又三越呉服店、支那印刷局の一部を請負へる由同社の有する石材礦區は全国各地に亘り頗る豊富にして運搬用には軽便鉄道を有し如何なる大工事と云へども石材供給に於て支障なしと現社長は吉田良三氏にして主任は杉山要治氏に当り頗る適材なりと云ふ。」現代之横浜

西有寺 中村町

西有寺
中村町141番地
明治34年(1901)二宮村善光寺を移転し西有寺に改称した。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

西有寺住職 玉田仁齢師「師は備後比婆郡下原湯の人、俗姓は湯淺嘉永三年を以て生る、九歲石州用田瑞岩寺玉田白毛師によりて得度す、後長州周鷹寺長江百衲師の許に修業師に從ひ濃州今須妙應寺に移る、明治六年逮州可睡齋に上り林玄齡師に隨侍すること五年、西有穆山師玄齡師に代りて齋主となるに及び又之れに隨ふ、實に十一年の久しきに涉る、後積名寺住職となりしが、堂宇荒蕪只礎石を存するのみ、拮据經營漸く再興するを得たり、再び可睡に入りて役僧となる、明治廿三年穆山禪師の命により横濱野毛道了殿の恢復を計り、太田治兵衞上郎幸八金子縫藏岡崎安之助四氏の協賛助力によりて根岸相澤に西有寺を建立し、明治卅三年三月穆山禪師を開山として駐錫となす卅六年暹羅國皇大太子殿下臨御公孫樹二株を手栽せられ、併ㄝて金幣下賜の台命あり、蓋し事殊遇に屬す、師頗る理財に長じ且徒弟敎養を好み、到る處に其道を講ぜざるはなし、殊に昨年來大江湖會を置き、全國の雲水八十八名の修行をなせしが如き叉師の功德にして、滔々たる濁世多く得がたき高德の清僧と云ふべきなり、」横浜成功名誉鑑

玉泉寺 中村町

玉泉寺
中村町1320番地
義真言派で本尊は薬師如来の元町増徳院の末寺
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


東亜化学工業合資会社 中村町

奉祝記念誌
東亜化学工業合資会社
中村町426番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

六角病院 中村町

横浜社会辞彙
六角病院
中村町1457番地
(967)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

永壽堂六角病院長 六角謙吉「六角國手は會津の人、明治五年北海道開拓使醫學部に入り米醫に就き研究數年、同十一年米敎師橫濱和蘭病院に轉勤せしにより、又從つて當市に來り、同病院に在りて實地研究に從事す、十三年十全病院の招聘に應じて勤續三年再び和蘭病院に復歸す、 明治三十二年現所に病院を開設し別に境町二丁目に住宅を置き共に懇篤に患者に接せらる、三十七年伏見宮殿下御渡米之際は御附醫官として隨從仰付けらる、今現に橫濱市傳染病豫防委員、 横濱海務署船舶撿查員、神奈川縣港務部醫務顧問及び市町村小學校恩給金顧問員等の職を帶べり、六角病院は石川の高丘上にありて、空氣清澄風光明婿、豆相の雲煙総房の青螺一眸に集まり、人をして先づ神飛び魂往かしむ、加ふるに建築完全構造新式、名國手の診療と設備の周到を以てす、如何なる病魔も酵易して逃鼠せん、蓋し横濱市病院中の仙嚢と謂ふべき也」横浜成功名誉鑑

六角病院「院主を謙吉氏と云ふ神奈川縣海港檢疫所の醫員にして故米國醫師エルドリッヂ氏の薫陶を受けたるは實に氏なりトス患者室に充てり」京浜名家総覧職業

明治肥料 中村町

神奈川縣案内誌
明治肥料合名会社
肥料
中村町
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

神林勘三郎 中村町

現代之横濱
神林勘三郎
土木請負材木商
中村町643番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑