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畠山カバン商店 太田町

畠山清次郎
鞄製造販売
太田町1丁目1番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

近江屋足袋店 太田町

近江屋
足袋店
太田町2丁目40番地
(2211)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

小田川磯吉「太田町通りに近江屋といふ足袋屋がある、先代友吉氏は東京府荏原郡糀谷村生れで横濱の新開地へ踏出して旗揚せんものと、殊勝な志を立てて出濱されたは明治の元年であった、日に月に他國人の入り込む一方の土地にて、其頃類ひ少なき店であるから意外に繁昌して、数多の職人を抱くても問に合はぬ有様となった、そこで明治五年に現住所に開業したのが則ちそれである、十五年の頃に天壽を終られたが、現主人磯吉君は全然移住策を取り益商買に勉強されたから上等品は同家でなくてはならぬとの評判で、今では市内に数多の支店を置き、同業者中一頭地を抜く盛況を来たすに至つた、君は明治二年の生れて本年は四十一歳である、」横浜成功名誉鑑

渡辺耕平仲買商 太田町

横浜商品日報

渡邊耕平
株式米穀蠶絲外四品取引所仲買
太田町3丁目48番地
(595)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

日盛楼西洋料理店 太田町


日盛楼
西洋料理店
太田町5丁目85番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

西洋料理店日盛樓 米山フク子「今は走卒輿䑓と雖もる洋食を云爲し、口にして通を衒ヘど、開港當初は葡萄酒を啜れば即ち血を想ひ、肉を啖へば蠻臭度し難しと爲して即ち指弾の的となりき、此の時につて洋食店を開業し、人気をめんとす容易の業にあらず、日盛樓は元白鳥氏の經營に係り、明治元年の開店なり、初め露店よ仕出し其の能く人気を得しはに甘香美味を提供せし白鳥氏の力にして、君が當年の西洋料理家たると市有敷の西洋建築とを持して英佛の粋を蓋し、料理の技倆を発揮せしに據る、現代米山女史は相州久里濱の人、年四十八歳、廿一年渡米し、二十ヶ年料理業を營み、其の間研究を重ねて歸朝し、四十年同樓を譲受けたるもの、目下東京に支店を有し、同棲内には玉突場を設けて來客の嗜好に應じ、元祖たる暖簾に對して一層勉強しつゝあり、」横浜成功名誉鑑

三平伊之助「洋風の大厦優に多人数の宴會に適し料理も佳絶他の模倣すべからざる伎あり要するに此樓は管内繁華の中心に居を占め同業界の泰斗なりとす」京浜名家総覧職業

「西洋料理店として開業古く料理又美味にして其名を博せり。」現代之横浜


神奈川縣案内

神奈川縣案内誌

永井印房商店 太田町

横浜商況新報
永井印房商店
印刻
太田町3丁目44番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

修勒堂彫刻師 永井清三郎「山縣元帥、小村大使等歐米へ渡航さるる際名刺印刷の命を受け、爾來高官貴紳は必ず修勒堂の彫刻名刺を用ゐらるることとなつた、此名譽ある店主永井清三郎君は、彼の有名なる永代橋架換へ工事を請負ふた永井金三郎氏の實子で、大體からいふと父の箕裘を繼ぎて請負業をなして頭領といはるべきであつたが、幼少より兎角繊弱な質で、荒くれた仕事の出來そうにもない、それに生來器用で書畫に巧みである、そこで太田町稲葉といふ當市一等の彫刻家へ弟子入したが持て生れた手腕は恐るべき上達を早め、主人や高足の弟子どもも舌を捲くばかりである、十年の修業首尾よく勤めて獨立開店せしは、明治十八年の頃てあつた、常盤町五丁目から太田町通に移って、印判彫刻に加ふるに、鞄製造及雑貨商をも兼ねて、盛に營業を開始さるることとなつた、十年前我國に於て未だ見ざる精巧無比の銅版彫刻を創始し、名刺及び招待狀などに應用するに其雅致優秀なるは到底他の企及し能はざる處である、名聲は京濱上流社會に馳せ、昨年米國實業團體渡來の際の如きも一手に其の名刺を調製して大に賞賛を博されしといふ、」横浜成功名誉鑑

「稻葉の店を繼承して明治十八年に印刻業に従ひ、廿一年より革具類をも販賣し始めたので、其多くは鞄であるが今では餘り製造されない皮の疊鞄なども製造してゐるが店賣のみでなく新嘉坡、上海、露西亞などへ輸出を爲し此頃は印度迄手を延ばしてゐる。其外に銅版印刷をしてゐるが、これは薬品で腐蝕させる方のでは無く彫刻したのを印刷するので、文字が紙面より高くなる品の好いものである、多くは外人の名刺婚禮の招待状などの注文に接しているが、外人が外字新聞に注文するのを當店へ廻して來るので、外人は日本人が拵へるのでは無いと思ってゐるらしく、色々苦心の末近頃漸く歐文字形がその意に適ふやうになったのださうだ。」実業之横浜


神奈川県銀行会社実業家名鑑

岩崎屋銅鉄商 太田町

岩崎由次郎
銅鉄商
太田町1丁目5番地
支店相生町4丁目47番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

岩崎兄弟商會代表社員 岩崎次三郎「合名會社岩崎兄弟商會代表社員岩三崎三郎君は又鐵業銀 行及橫濱肥料會社の重役として令名嘖々たり、君は故由次郎氏の長男にして明治六年十二月生る、幼にして西下し辻本商店にて銅鐵の商業を實修し卅六年令弟友次郎君と協力して岩崎兄弟商會を組織し販路の擴張に勉む、商運隆々として日に昌也、君資性溫順寡默寧ろ實行的の人たり、而も志博愛慈善に存し事苟も公共の稗益に關する者は奔走盡力至らざるなし、實に少壯實業家中稀に見る德望家なりとす、」横浜成功名誉鑑

 岩崎兄弟商會代表社員 岩崎友次郎「岩崎友次郎君は故由郎氏の二男にして、先代市五郎氏の養嗣なり、兄と共に岩崎兄弟商會の代表社員として斯界に名を知らる、君夙に横濱商業學校を卒業し尚ほ外人某氏につき英語を研究し造詣頗る深し、卅八年四月歐米各國の都市を歷遊して歸朝し直輸入の途を開き、四十年四月再び海外漫遊を企て同十一月多大の好結果を齎らして歸へれり、君天性機敏にして豁達能く謀り能く斷ず、少壯實業家とし前途の光彩陸離れるものあり、關係事業としては中央倉庫株式會社監査役に擧げられ現に其任にあり、君は實に明治十四年八月の出生なり、」横浜成功名誉鑑

岩崎次三郎「語に曰く百里の道を馳せんと欲するものは先づ其車に油さずと蓋し大なる事業をなさんとするものは大なる準備なからざるべからざるを言ふなり岩崎三郎君の如きは其意を得たるものか君は明治六年を以て神奈川町に生る父は由次良氏君は其の長子なり漸く長じて横濱市八木下商店に入りて丁稚となり銅鐡の商業を見習ひ居ること多年熱心勤勉一に主人の爲めに怠らず同僚皆君の精勵着實を称讃せざるものなし三十六年三月主家を辞して家督を相続し父の業を継ぎ其八月を以て兄弟商會を創む是に於て兄弟協力して業務に黽動し精力主義を以て販路の拡張に努む斯くの如くして戮力熱心の結果三十七年十月に及んで支店を相生町に開設するに至れるを以て如何に業務の隆昌を来しつつあるやを想像し得るにあらずや明治三十六年十一月推されて鐵業銀行監査役となり爾来繼續して今日に至るまで其の職に在り尋で三十九年十二月 横濱肥料株式會社の創立せらるや又選ばれて之が取締役の地位にあり其他公共事業に就きては甘七八年及び卅七八年の戦役に際して軍國の爲に東奔西走して盡瘁せしところなからず學校又は道路修築に至るまで社會衆庶の爲めに資金を吝まず努力せり君資質温恭謙人に接するに靄然として頗る慇毫も圭角を設けずされば家庭は常に静和圓満にして春風駘蕩たるが如く實に羨望するに堪へたり而も君尚ほ漸く靑壯前途甚だ豊かなり吾人は君が業務の更に倍々増大し來りて斯業に覇を稱し大なる成功をなし國帑の充實に力めんことを望む彼の徒らに空理を談じ空想を抱きて敢て實行の念な準備の覺悟なくして一躍杰業の成功を得んと欲するものは先づ来て君が傅記を三誦し以て静に自己の非望を反省すべきなり」京浜実業家名鑑

岩崎友次郎「凡て事其の精妙の域に到達すれは期せずして世の嘆賞を受くること今更喋々の辯を要せずと雖も成功の裏面には必ず千百の苦難伏在せるものなること明かなり殊に君の如き青春少壮の士にして斯かる成功の歴史を持てるものに於て然りとす君は横濱市神奈川町の出身にして明治十四年八月廿八日を以て生る父を由次良氏と云いて君は其の二男なり父君は曾て幼時横濱に於て或る金物商店に奉公し備さに商業の経験を積み後獨立して太田町1丁目に於て金物商を営みしが爾來事業繁盛に赴きしも不幸中途にして黄泉の客と爲れり茲に於て君は令兄次三郎氏と共に謀りて其の業務擔當員と爲り専ら事業の經營に黽勉す其外中央倉庫株式會社監査役と爲りて盡瘁する所あり君人と偽り眞摯温厚職務に忠實にして且つ機敏の才ありて豁達能く謀る嚢に横濱商業學校を卒業し尚外人某氏に就きて英語の研究に力め造詣深し君夙に社會の趨勢
を洞察し大に悟る所あり先づ歐米に渡航して彼の國の文物制度及び業上に於ける諸般の事業を 察して帰朝し三十八年四月更に米岡及び英國を経て同年八月蹄朝後は益々業務を拡張して海外諸國と直接取引を開始するに至れり更に昨年四月再び歐米に渡航しシカゴイリノイス製鐵場ピッツバーグァカーネギー製鐵場及桑港紐育華聖頓をて歐洲に赴きパーミングハムニウポートウルバハンプトンに於ける各製鐵工場及び倫敦巴里伯林等の各都府を視察し同年十一月歸朝せり吾人は之れより愈々君が事業に活動し二十世紀に於ける模範的實業家として英名を発揚するに至らん事を切望するもの也君や人となり活撥進取の気性に富み一旦の素志は千艱來り萬難到ると雖も貫徹せずば止まざるの慨あり今日の成功豈偶然ならんや」京浜実業家名鑑

実門堂印章本店 太田町

奉祝記念誌
實門堂本店
ゴム印並に付属品製造
太田町2丁目23番地
(370)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

大熊熊吉 太田町2丁目23番地「夫れ天才なる者は區々たる規矩縄墨の拘束するところに非るなり念ふに規矩準縄の覊束に依って行動するものは多くは尋常一樣の人物のみ古來俊傑の遺蹟に鑑みるに殆んど此定義觀察の誤らざるを見る故に其天才の趣向に基きて此を鞠育培養するに至れば不動の軔めて発揮するを獲べきなり君は慥に一個天才の人十四歳にして佐分利某氏の門に遊びて漢籍に心を潜むること三年有餘想ふに方今の時勢廣く海外泰西の事情に通ぜざるべからずと困って横濱に出で八雲井雲八氏の弟子となり英學を研精す在の日伊國人フェー氏の知遇を得蓋し君が賦性の英敏怜悧なる將來大に用ゆべきものあればなり偶々フエー氏の歸國に乗し師に謀り君を伴はんことを以てす師其志を嘆賞し君が決心を促す茲に於て師の好意に感激し進んで父の許容を求む當時父の境遇事情具志望を察すること能はず君慨然として嘆息す然も勃然たる英鋒は収むるに由なく時機の至るを待てり併這は百年河清を俟つの恨ありき事志と違ひ遂に畫餅に属したりしと云ふ君八雪井氏に在學の日學業の閑を偸んで篆刻の技をなす抑之が天才の流露する端緒にして曾て嗜好の末技なりしもの漸く進境に到り高田緑雲氏に贄を通じ後稲葉清峰氏に就きて共に彫刻の藝術を學ぶ日夕切瑳砥礪其術大に進む而して今日の名刻家たるに至る素由ありと云ふべし之より曩き君は醫家たらんことを望みしもならず其他種々の事業に指を染めしも意に満たず終に篆刻の城奥を究め廣民と稱し實門堂を以て屋號となす夙に斯界に錚々の誉あり君萬延元年二月東京新橋日吉町に生る父を勘十郎氏と云ひ其女子なり幼名は直彦後長じて今の名に改む吾人は更に妙技を揮って倍々社會に貢献せんことを希望して己まざる也」京浜実業家名鑑

彫刻家中の異彩 大熊熊吉「彫技は古來より我邦人の長所にして、觀光外人も常に嘆賞する所、吾橫濱市に於て此卓絕なる一名匠を有するは誇とすべきなり、實門堂主大熊熊吉君廣民と號す東京の人、明治三年十一歲にして當市に來り、明治十八年を以て開業す、初め八雲井雲八氏に從ひ英學を學び、又佐牙利芳齋氏の門に入りて漢籍を研究す、伊國人フェー氏は雲井氏の友たり、君の手工の技あるを見て深く威じ米國に伴ひ行きて長所を學ばしめんとす、君年少氣鋭、登龍門の好機逸す可からずとして之を乃父に計る、而かも許を得ず孝心深き君は断然是より心を彫技に潜め、高田禄雲、稲葉清峰二師に就って孜々屹々其蘊奥を究む、天稟は奪ふ可からず、果然二師をして出藍の嘆あらしめき、君の最も得意とする所は銅鐵彫刻にあり、蒼古にして瓢逸凡手摸倣し能はざるの雅趣あり、又君が多年の苦辛になりし壓搾文字深出機及打拔機械は、一般證券及記錄等重要書類の記數署名に代へて真贋を判別するの便あり、二機共に大阪博覽會に出品して有効賞狀を受く、其他一般の圖章彫刻ゴム印製造等、何れも堅牢にして精巧一家の風をなせり、」横浜成功名誉鑑

實門堂 大熊熊吉「堂主性巧緻細密天然的に印判彫刻の技能を有す加ふるに多年の琢磨と研鑽を以てす豈上達せすして可ならんや」京浜名家総覧


神奈川縣案内

横浜姓名録

横浜実業銀行 太田町

横浜実業銀行
太田町2丁目27番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「横浜の門地家として又富豪として知られたる石川徳右衛門氏を頭取に仰ぎ資本金五拾万円預金弐百万円を有し行基固く信用厚し殊に銀行界稀に見る敏腕家伊藤鏆太郎氏支配人として活躍しつつあり。」現代之横浜

「横浜実業銀行は本月末新築の太田町本店に移転し、従来の翁町本店を支店とし副支配人植田陸三郎氏を支店長に任命し、益々業務を拡張する由に候」実業之横浜

嘖々の好評ある 横濱實業銀行「埋地部内の金融機關として、三十三年四月同方面の有力者發起となり設立せるもの、株式會社横濱實業銀行なり、初め不老町一丁目に開業せしが、業務逐日隆盛となり、手狹を感じて現所に移轉す、爾來益々發展し、一般貿易商の機關として行運愈々振ふに至り、三十九年一月資本金を三十五萬より五十萬圓に增加し、更に五萬圓の資本を以て貯蓄銀行を設置し、翁町及上野町の二支店をも有するに至り現時の盛大となれり、同銀行は商業會議所議員に選まれ頭取石川德右衛門氏之が代表者たり、」横濱成功名誉鑑

舊横濱村の名族 石川徳右衛門「文禄年度の水帳に又四郎なる人あり、是れ則ち石川家の祖なるを見れば、數百年前より連綿たる奮家名族たるは論を俟たず、現代徳右衛門君は實に十二代に當す幼名は伸吉明治廿二年襲名せり、若ふして明治の鴻儒篁村島田翁に私淑し造詣する處頗る多し、加ふるに文明的の學理を兼修し實業界に於ける一方の重鎮たり、先代德右衞門氏は開港前後名主代官其他の吏務に鞅掌し、苅部清兵衛氏等と共に相携へて横濱市政の改善を計りしこと數ふるに遑あらず、君其後を承けて又公職にあり、區會議長、商業會議所議員、所得稅調査委員孰も其適任たるを稱す、實業方面には横濱實業貯蓄兩銀行頭取、橫濱船渠、橫濱鐵道二會社の監査役、横濱生命保險、關東煉瓦、日本安全油會社等の取締役、皆その器局の當れるは衆の認むる處、資性謙讓にして端嚴横濱紳士の好模範なり、宜なり門閥素養共に凡に超ゆるや、里俗君の邸を呼んで代官屋敷と云ひ、門前を代官坂と呼ぶ、彼理提督自筆の扇面は家寳として相傳する所なり、君は開港に先つ三年、安政三丙辰を以て其本邸に生る、」横浜成功名誉鑑

石川徳右衛門 元町2丁目108番地「足苟も横濱の地を踏むもの誰れか代官坂なる石川徳右衛門君の名を知らざるものあらんや君は安政三年十二月を以て現地に生る先代徳右衛門氏の長男にして幼名を伸吉と曰ひ家督を繼くに及んて今の名に改む累代連綿として代官役を勤めたる名家にして當主に至る迄實に十二代を算すと云ふ横濱の地にして此の由緒あるの殆んと十指を屈するに足らす君生れて穎悟少にして學を好む先考大に望みを將來に囑し東都に赴き當時漢學を以て有名なりし島田重禮博士に就きて漢學を學はしむ君己に其の塾に入り余暇を以て附近の某洋學の塾に通ひ漢洋の二學を併せ修めて造詣する所からす明治二十年満腔の知識を齎して家に歸り幾千もなくして先考の業を繼き實業界に奔馳して遂に今日の大成するに至れり君才氣余りありて而して謙讓退抑夙に平民主義を唱へ双實行しつゝあり是を以人望隆々旭日昇天の概あり現に横濱實業銀行頭取橫濱實業貯蓄銀行頭取橫濱生命保險會社取締役橫濱船渠會社監查役橫濱鐵道會社監查役關東煉瓦會社取締役日本安全油會社取締役として施設經營機宜に適して能く株主の信頼を完ふし又横濱商業會議所議員所得税調査委員元町區會議長としては直言讜議常に儕輩の重んする所となり且つ余力を割きて土木事業家を以て有名なる荒木組の後見人と焉りて能く其の職責を盡して遺孤をして頼る所あらしめ其の他一家の事業としては貸地貸家業を營み巨萬の資金を運用して能く利殖の道に盡す等其の敏腕辣手到底余人の企て及ふ所にあらず由來門地高く財豊かなるものは動もすれは自ら標榜すること高く人をして不快感を懐かしむるもの往々にして是あり此の如きの徒君の風を聞きて果して如何の感かある」京浜実業家名鑑


和英横浜案内

神奈川縣案内

神奈川縣案内誌

市川紙店 太田町

神奈川縣案内
川紙店
和洋紙商
太田町4丁目57番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

市川元八「管内消費の和紙は大略本舗の供給を仰ぐと謂ふも溢美にあらず土佐美濃各産地より直輸する荷數少からざるも消散異常にして忽に之を賣盡すといふ」京浜名家総覧職業

雁皮紙輸出の筆頭 市川元八「雁皮紙及びコッピー紙の輸出は實に市川商店主元八君を以て先輩とす、君は靜岡縣富士郡西比奈の人、弘化元年十月を以て生る、慶應二年卅餘金を懷にして郷里を出で橫浜に來り、明治元年微々たる店舗を元町に開き荒物紙類を鬻ぎ、雁皮紙等を首として取扱ひしに、益々需要を增加し外人より多大の注文を受るに至り、是に力を得てコッピー紙を作り輸出を試みたるに叉好結果を奏し、明治三年の頃には岐阜縣及び高知縣に製造所を設け盛に輸出を爲すに至れり、後現所に移り洋紙の引取文房具等の引取をも開始せり、然るに十八九年の頃商况不振に陷り如何とも爲し難き逆境に遭遇せしも、よく忍耐して鋭意挽回策を講じ、數年を經て漸く順當に向へり、よりて廿九年日本紙輸出合資會社を組織し業務擔當員となり、卅二年相生町洋紙部商行を設立し益々發展して今日に及ベり、君は橫濱商業會議所議員に列し、太田町校睦會長相生町睦會々頭に推されて其職に在り、」横濱成功名誉鑑

市川元八 太田町4丁目57番地「不屈不撓の精神を排して邃に目的を達し成功を遂げたるものを市川元八君となす君は弘化元年甲辰十月十五日靜岡縣富士郡西比奈の寒村に生る彌左衛門氏の二男にして家代々農を以て業とす君維新の際深く世運の推移に𥡴へ身を立て家を興すは商に如かずとなし窃に機の到るを俟ちしが慶應二年遂に意を決して飄然として横濱に来りあらゆる艱難辛苦の餘漸く三十有餘圓を得て明治元年十一月元町に一小舗を開き荒物紙類を鬻ぎしが是れ實に今日の隆盛を致したる基礎なりとす當時泰西諸国に於てライスペーパーと稱するコッピー用紙の需用多きを見本邦特有の雁皮紙を以て之れに代へんことを企て研究の結果遂に海外に輸出せしが 是れぞ我が國紙の歐米諸國に整價を博したるの嚆矢とす而も君が猛進勇邁の精神は更に紙質を改良して内外顧客の嗜好需要の適否を参酌し以て革新の實を擧げんとせんが天運是れに酬ひず十九年不幸にして頑固なる眼疾に罹りて容易に癒へず計畫之れが爲に齟齬を生じ加ふるに商況不振を来たし家道或は傾かんとするの時に當り煩悶憂慮の結果商勢を既倒に挽回する一に精神の堅否如何にあるを悟り百難千艱敢て屈せず身を挺んで、逆流に抗す是に於て君が企業に係る紙類の輸出漸次其の額を増加し内地の需要之れに伴ひ幾何ならずして家運順境に赴き事志と添ふに至る甘九年日本紙輸出合資會社を設立して業務搾當社員となり卅二年相生町に洋紙部商行を設置し愈々業務を措張して遂に今日の隆盛を致せり君今や横濱市會議員として能く其の職責を盡し横濱商業會議所會員となりて同市の實業に貢献し其の他太田町交睦會長として相生町睦會會頭として令名噴々たり」京浜実業家名鑑


神奈川県案内誌

directory

鈴木辨蔵穀物輸入商店 太田町

business directory
鈴木辨蔵商店
穀物輸入販売
太田町1丁目22番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

鈴木辨藏 太田町1丁目22番地「君は安政二年七月神奈川縣橘樹郡城郷村に生る父を嘉左右衛門氏と云ひ君は其二男なり家代々農を以て業とせり幼時君修學の傍ら馬を以て神奈川町に米を商ひ多少の利益を得しかば君始めて實業の面白きことを覺り十二三歳にして田舎より米を買入れ之を馬に積み神奈川町に賣り出したるに其利益頗る多かりしかば君は断然農業を廃して實業に従事せんものと十九歳の時神奈川町字青木町なる某商店に見習として店員となり熱心に其取引の模様を研究せしかば得る所甚だ多かりき是に於て君は愈々社會に打って出でんものと明治十九年十一月神奈川を後にして横濱に出で小資本を以て東町四丁目に米商を開業し一意専心經營に従事せり居ること二年にして二十一年には海岸通四丁目に轉じ以前にも増して勉勵せしかば店頭俄かに繁忙を来して大に利する所ありしかば新に建築して其所に移轉せり現住居即ち是なり而して其經營宜しきを得しかば次第に繁榮して遂に米穀貿易商となり業務を拡張してラングーンホンコンシンガポー ル等の米を直輸入して今や横濱市中屈指の大商家となれり又本年二月頃より本職の傍ら肥料販賣商をも營み是又繁昌せり人と爲り篤實にして勤勉且義俠心に富む曾て郷里の出征軍人に金百圓を送り木盃を下賜せらる又東北飢饉の際二百圓を贈り窮民を救ひ其他市内の慈善事業及び公共事業に盡力せこと甚だ多し而して今や財を積むこと甚だ多く九州鐵道日本鐵道炭鉱鐵道郵船會社東洋汽船其他数十個所の株主たり聞く不意の成功の爲めに興 味を與へられ其興味を追求して遂に大成功するもの世間其の人甚だ多しと不意の米賣にて成功し其を追求して途に今日の位置を得たる君も夫れ此類の人にあらざるか」京浜実業家名鑑

米穀肥料界の辣腕家 鈴木辨蔵「鈴木辨蔵君は橘樹郡の人、安政二年生、嘉左衛門氏の二男なり、君幼時修学の傍ら馬を以て神奈川町に米を商ひ、多少の利を得しかば漸く商業の興味を感じ、断然農を廃し實業家たらんと志し、十八歳にして神奈川の某米店に入り、孜々として業務に勤勉し、大に主家の信頼する所となり、明治十九年一月に至り、小資本を以て本町四丁目に店舗を開き、錬磨せる手腕を振込ひ、不接不屈の精神を鼓舞し、商勢次第に膨脹せり、廿一年太田町一丁目に新築移轉し専ら貿易を経営す、蘭貢新嘉坡を主とし薹湾香港等よらも外国米を輸入 し活潑に營業せり、今日に至りては實に外国米貿易商中屈指導の辣腕家を以て目せらるるに至る、其他肥料は一般北清地方より直輸入をなし、其販路も頗る遠隔の地に擴張されつゝあり、君の家庭は頗る圓満にして、南大田町に別邸を構へ、男女八名の子福者にして、長男彦太郎氏は商業學校に在學し、成績頗る佳良なるは慶すべきなり、君本業の傍ら横濱織道、中央倉庫、横濱倉庫、東京鐡道、東洋汽船、日本郵船、北海道探鉱鐡道等の株主にして重役の地位にあるもの多しといふ、」横浜成功名誉鑑

讃岐屋旅館 太田町

讃岐屋栄太郎
旅館
太田町6丁目109番地
(1309)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

淺田榮太郎 太田町6丁目109番地「世に立ちて功を遂げ名を成したるものの半生を叩けば皆耐忍持久以て同主に勤續すること多年以其勞を積むの比々として皆然り是に於て乎知る々として浮草の如く彼方に漂ひ此方に走り一定固着の態なきは到底成功の要素を備へざることを金港有数の實業家淺田榮太郎君の如きは又成功者の典型として後人の奮起を促すに足るものならんか君は慶應二年十二月兵庫縣武庫郡西ノ宮町に生る父を卯左衛門氏と呼び君は其の長男なり君幼にして四方を遊歴し各地の人情風俗に明かに諸國の景況に通ずる所あり明治二十年二月始めて横濱に出でて同市本町六丁目旅館廣島屋に入り店員となり鋭意熱心寒暑を厭ばず寝食を忘れて主家の爲めに盡瘁貢献すること十数年大に主人の信頼を得將來に囑望せられたりと云ふ明治廿九年五月獨立小資を以て相生町六丁目に旅館を開業し忠實と懇篤とを以て内外旅客を待遇せしかば家業日に日に繁榮して同三十一年五月には現所に移轉し今や内外汽船乗客並に軍用旅舍及鐡道荷物取扱所海陸廻漕業として市内屈指の豪商たるに至れりと云ふ君資性活潑にして敏捷物に停滞せず事を辨ずること恰も水の流るるが如く又仁俠同情の念に富みて貧民窮児を憐れむこと恰も骨肉の如きものあり殊に身は親しく主家に仕へて具に辛苦艱難を嘗めしを 以て雇人にする懇篤叮嚀を極め未だ曾て不親の熊度は一囘もなし金殿玉楼の裡に住む人は物の隣れを知らず艱難辛苦を嘗めたるの人始めて社會同情の觀念に富むと云ふは決して虚言にあらざるな り君は又三十四年より町内衛生組合委員となり三十七年より赤十字社々員となりて一意公共事業に貢献しつゝありと云ふに至っては誠に得易からざるの實業家なりと謂つべし」京浜実業家名鑑

讚岐屋旅舘 淺田榮太郎「人情風俗の機微を察せざれば旅館の營業はなし難し、君讚岐屋主人淺田榮太郎君は少小國を出で、諸方に流遇し具に辛酸を甞む、後橫浜に來り廣島屋旅館の店員となり、周到なる應接機敏なる處置巧に主客の間を斡旋し、十數年の久しき一日の如し、明治廿九年相生町六丁目に獨立開業して内外旅客を待遇し、日に月に盛運に際會し、卅一年五月現所に移轉し、汽船乘客軍用旅舎道荷物取扱海陸回漕業を營み、旭日冲天の勢あり、資性任俠にして苟くも不幸に沈淪する者あれば事の難易道の遠近を問はず救濟するを以て自ら快しとす、蓋し少壯間身を艱難に處せし結果より出しものならむ、叉公共の心に厚く、赤十字社々員及町内の衞生委員等に列し奔走盡力到らざるなし、近代多く得易すからざる人と云ふべし、君郷里は攝津西の宮にして、慶應二年十二月を以て生る、」横浜成功名誉鑑


神奈川縣案内

横浜姓名録

武蔵屋鈴木呉服店 太田町

神奈川県銀行会社実業家名鑑
武蔵屋鈴木安兵衛
呉服太物
太田町4丁目70番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

武藏屋吳服店 鈴木安兵衛君 太田町4丁目70番地「橫濱呉服店の老舗武職屋の創始は實に明治元年の昔にあり、最古の呉服商にして、上流社會に顧客多く、高等絹布類の潤澤を以て名あり、創業の主人先代安兵衛氏は東京本所大平町に生れ、幼より日本橋區久松町の某呉服問屋に奉仕し斯業を見習ひしが、中途志を立てて橫濱に來り、明治元年現在の塲所へ小なる床店を開き、夙起晚寐孜々として艱苦を甞め、次第に繁榮に向ひ、遂に現在の盛大を見るに至れり、氏は織物の鑑識に長じ商機を見るに敏なり、本業に熱心せし丈けに世事には磊落の方なりし、されば主として優等の品を蒐め、一時は贅澤屋を以て稱せられたり、現主は其長男にて卅二年業を継ぎ襲名す、沈着にして守成の器に適し、能く家道を守りて商况益々盛大に赴く、呉服商組合組織當時より斡旋盡力し、今に役員として推重せらる、」横濱成功名誉鑑

内外貿易輸出入会社 太田町

神奈川縣案内
内外貿易合資会社
輸出入
太田町5丁目89番地
(883)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

神奈川県銀行会社実業家名鑑

百井久七蚕糸絹物貿易商 太田町  

横濱蠶絲日報
百井商店 百井久七
蠶絲絹物貿易商
太田町3丁目48番地
(903)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

蠶絲絹物貿易商 百井久七「先代百井久七氏は丹後宮津の人、明治五年横濱に來り通稱蘭八(外商八番館)の店員となり、生絲係として明治十一年頃迄勤續し、其の間質商をも營み後獨立して生絲業を兼營す、明治十四年現主久七君襲名して家督を相續し、京都及宮津に支店を設け、生絲及縮緬業を開始だが、十六年經濟界の恐慌により打撃を受け、兩支店を閉ぢて橫濱貿易商會に入る、十八年より蠶絲伸次業に從事し、蠶絲取引所設立後仲買業をも兼ね、明治二十五年第一絹絲紡績會社の原料買次業を營み、岡山南海兩會社の買次をも兼ね、三十五年絹絲紡績六會社の大合同により、横濱出張所として原料買入及絹絲紡績絲の賣込に從事す、三十七年伸次業を廢し蠶絲貿易商を營み翌年より輸出絹物業を兼ね、四十年十一月玖馬共和國バナゝ市に商店を設立し、絹物及雜貨の直輸出を營みつゝあり、先代久七氏甞て明治三十一年六月蠶絲賣込方改良に腐心し、改良方案並に日本蠶絲内外委托販賣會社設立の意見を農商務大臣に上申せしとあり、諄諄說く處三十八頁、節々肯綮に當る、叉以て其業に熱心なりしを想ふべし、」横濱成功名誉鑑

伊東屋旅館 太田町

伊東屋旅館
旅館
太田町4丁目60番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

若菜寿司 太田町


若菜寿司
寿司
太田町1丁目12番地
暖簾に若菜の文字がある
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

若菜壽司 笹布金三郎君「今は早昔市となりぬ、港崎町大門のほとりに若菜鮨なる 招牌の翻へるを見たり、店主は東京青山の生れ春日山栄藏氏と聞きし、當時は飲食店としては蕎麦屋位が關の山、外に見當らぬ冬枯の雪景色に若菜とるとは面白しとの洒落からして大繁昌を来たし、終には當地の一名物となりし、秋水居士と名乗る風流家が、『年もわか菜のまだはづかしく そっと手をにぎりずし』の情歌は起源が場所柄だけ以前を懐想せしものと思はる、現主人笹布金三郎君『明治十四年生』は先代の甥にて、天性溫和文藝の 嗜みあり、よく家業を守りて益々勉強し、世と推し遷りて嗜好に投するの考深く、四十幾年の老舗彌榮えに榮えゆく若菜の縁、幾千代重ぬる初春を壽く心地ぞせらるる」横浜成功名誉鑑

港月堂菓子舗 太田町

神奈川縣案内
港月堂菓子舗
菓子製造販売
太田町4丁目61番地
(317)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

港月堂菓子舗 小林清兵衛「朝日消露、五十鈴糖など云へる菓子は夙に甘黨の賞玩を博せるものにして、港月堂の名も随つて現はれたり、同店は明治二年六月の開業にして、初めは菓子と煙草とを兼ね商へり、日清役軍用麺鞄を納めて功あり戦地より賞状を賜ふ、三十二年舶来糖菓の輸入防遏と、緩急あるの日軍需用品の準備に資せん目的を以て、品川御殿山に東洋製菓株式會社を起し、三十六年内命により携帯餉糧の試製に従事し、日露役には全力を蓋して奉公の誠を致せり、朝日消露は其の紀念菓にして今は横濱名物の一となれり、年々勅題新菓を初め新案菓子の製造に腐心し、博覧會に出品して賞牌を受くる事數度、市內有數の店舗として注文引きも切らず馬車道に分店ありパン菓子を専門とす、其他數ヶ所の支店皆旺盛なり、現主清兵衛君は蒲田の人、明治三年の生にして創始以來二代目なり、商賣熱心にて世辭に富む、東洋製菓會社は創業以來の關係にして曾て取締役たり、君叉三十年頃より横濱吾妻社(胞衣埋葬業)を引受け獨力經營せらる、」横浜成功名誉鑑

小林清兵衛 太田町4丁目75番地「鮮麗佳味なる種々の和洋菓子算するに遑あらず進物用折詰用を調製し贈答品に好適の品種を販出して各所より續々注文ありと」京浜名家総覧職業

「製造場へ這入って見ると当店独特の竃が拵らへてある。釜へ平均に火が廻るのと、其餘力で湯を沸し使用すれば其容積だけ水道から自然に填補が出来るようになってゐるのとで、主人の考案に基いたのは云ふ迄もない。恁る事に迄創意があるのであるから、製菓の上にも何條それが現はれずにゐやう未だ流行し始めぬ数年以前から勅題に因む新菓を年毎に製造してゐる。卅七年二月に日露宣戦の布告せらるるや「朝日消露」と命名したものを売り出して好評を博した。平和が克服すると同時に消の字を松として「朝日松露」と爲し今尚盛に製造し、其他卅八年から「五十鈴糖」又昨春から「玉川」と云ふ新工夫のものを発賣してゐる。明治元年六月から現金門銀行のある處で営業してゐたのであるが、筋向ふの現在の處へは本年八月に移輾したのである。」実業之横浜


神奈川縣案内誌

大黒屋会田商店 太田町



 大黒屋会田商店
洋小間物販売
太田町3丁目47番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

近文洋品店 太田町

神奈川縣案内
近文洋品店
欧米雑貨直輸入麦 稈帽子製造業
太田町2丁目23、24番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

近文洋品店 中井文之助「明治五年断髪令が出て帽子が賣れ初めた、今でこそ流行だの何だのと骨も折れるが、其頃は古いも新しいもない、どんな形でもよく賣れたものであった其頃江州から出て辨天通四丁目に西洋小間物を鬻て居った中井文平といふ人があった、明治二年からの開店で隨分手廣く取扱ったのが今の近文商店である、明治九年に太田町二丁目角に移轉して、十三年頃より麥稈帽子や鳥打帽子を製造し始めた、則ち和製帽子店の鼻祖である、現代文之助君は明治八年の生れで、十五年家督を嗣ぎ、幼より父を助けて事業に精通し、舶来小間物の直輸入を爲し、帽子を特色として歐米流行界の新式帽子は悉く一店に網羅し、特に近來に至りては帽子適合機を店舗に据付け、形直しを瞬間にするといふので内外人の評判は格別である、價額は凡てデパートメン式で如何なる人にも買ひ易き方法を擇ぶなぞは頗る嶄新である、また卅五年中戶部町に帽子製造工塲を新設して以來一層の繁榮を極めて居る、實に斯界の覇王と云ふべきである、」横浜成功名誉鑑

神奈川縣案内誌

横浜市商工案内

近江屋小間物商 太田町

近江屋 尾嵜榮次(尾崎栄次)商店
和洋小間物商
太田町2丁目38番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑