横浜実業銀行 太田町

横浜実業銀行
太田町2丁目27番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「横浜の門地家として又富豪として知られたる石川徳右衛門氏を頭取に仰ぎ資本金五拾万円預金弐百万円を有し行基固く信用厚し殊に銀行界稀に見る敏腕家伊藤鏆太郎氏支配人として活躍しつつあり。」現代之横浜

「横浜実業銀行は本月末新築の太田町本店に移転し、従来の翁町本店を支店とし副支配人植田陸三郎氏を支店長に任命し、益々業務を拡張する由に候」実業之横浜

嘖々の好評ある 横濱實業銀行「埋地部内の金融機關として、三十三年四月同方面の有力者發起となり設立せるもの、株式會社横濱實業銀行なり、初め不老町一丁目に開業せしが、業務逐日隆盛となり、手狹を感じて現所に移轉す、爾來益々發展し、一般貿易商の機關として行運愈々振ふに至り、三十九年一月資本金を三十五萬より五十萬圓に增加し、更に五萬圓の資本を以て貯蓄銀行を設置し、翁町及上野町の二支店をも有するに至り現時の盛大となれり、同銀行は商業會議所議員に選まれ頭取石川德右衛門氏之が代表者たり、」横濱成功名誉鑑

舊横濱村の名族 石川徳右衛門「文禄年度の水帳に又四郎なる人あり、是れ則ち石川家の祖なるを見れば、數百年前より連綿たる奮家名族たるは論を俟たず、現代徳右衛門君は實に十二代に當す幼名は伸吉明治廿二年襲名せり、若ふして明治の鴻儒篁村島田翁に私淑し造詣する處頗る多し、加ふるに文明的の學理を兼修し實業界に於ける一方の重鎮たり、先代德右衞門氏は開港前後名主代官其他の吏務に鞅掌し、苅部清兵衛氏等と共に相携へて横濱市政の改善を計りしこと數ふるに遑あらず、君其後を承けて又公職にあり、區會議長、商業會議所議員、所得稅調査委員孰も其適任たるを稱す、實業方面には横濱實業貯蓄兩銀行頭取、橫濱船渠、橫濱鐵道二會社の監査役、横濱生命保險、關東煉瓦、日本安全油會社等の取締役、皆その器局の當れるは衆の認むる處、資性謙讓にして端嚴横濱紳士の好模範なり、宜なり門閥素養共に凡に超ゆるや、里俗君の邸を呼んで代官屋敷と云ひ、門前を代官坂と呼ぶ、彼理提督自筆の扇面は家寳として相傳する所なり、君は開港に先つ三年、安政三丙辰を以て其本邸に生る、」横浜成功名誉鑑

石川徳右衛門 元町2丁目108番地「足苟も横濱の地を踏むもの誰れか代官坂なる石川徳右衛門君の名を知らざるものあらんや君は安政三年十二月を以て現地に生る先代徳右衛門氏の長男にして幼名を伸吉と曰ひ家督を繼くに及んて今の名に改む累代連綿として代官役を勤めたる名家にして當主に至る迄實に十二代を算すと云ふ横濱の地にして此の由緒あるの殆んと十指を屈するに足らす君生れて穎悟少にして學を好む先考大に望みを將來に囑し東都に赴き當時漢學を以て有名なりし島田重禮博士に就きて漢學を學はしむ君己に其の塾に入り余暇を以て附近の某洋學の塾に通ひ漢洋の二學を併せ修めて造詣する所からす明治二十年満腔の知識を齎して家に歸り幾千もなくして先考の業を繼き實業界に奔馳して遂に今日の大成するに至れり君才氣余りありて而して謙讓退抑夙に平民主義を唱へ双實行しつゝあり是を以人望隆々旭日昇天の概あり現に横濱實業銀行頭取橫濱實業貯蓄銀行頭取橫濱生命保險會社取締役橫濱船渠會社監查役橫濱鐵道會社監查役關東煉瓦會社取締役日本安全油會社取締役として施設經營機宜に適して能く株主の信頼を完ふし又横濱商業會議所議員所得税調査委員元町區會議長としては直言讜議常に儕輩の重んする所となり且つ余力を割きて土木事業家を以て有名なる荒木組の後見人と焉りて能く其の職責を盡して遺孤をして頼る所あらしめ其の他一家の事業としては貸地貸家業を營み巨萬の資金を運用して能く利殖の道に盡す等其の敏腕辣手到底余人の企て及ふ所にあらず由來門地高く財豊かなるものは動もすれは自ら標榜すること高く人をして不快感を懐かしむるもの往々にして是あり此の如きの徒君の風を聞きて果して如何の感かある」京浜実業家名鑑


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