サムライ商会 本町

サムライ商会
美術工芸品
本町1丁目20番地(915)
明治27年(1894)開業の古美術店。渡米の帰路に船中で出会った新渡戸稲造の影響を受けてサムライ商会の名を付けたと言われている。
明治の横浜手彩色写真絵葉書

野村洋三 本町2丁目20番地「桑港街頭曾て奇装して日本飴細工を鬻げる黒髪の一青年ありき誰か知らん是れ現時横濱市本町に於て間口十間奥行廿五間の大陳列室を有し本朝美術品及び古器物を外人に込み實に斯業界唯一の大買として其の名内外に藉甚なるサムライ商會主野村洋三氏ならんとは君少壯學籍を早稻田専門學校に置き研鑽大に勗め十八歳にして既にスマイルス自助論を反讀する百廿囘スキントン萬國史を筆寫する三次なりしと云ふ其の精力の絶倫なる豈に驚嘆すべからずや既に這箇の精力あり其の今日の成功叉怪むを須ひざるなり翌年君外國僧侶に通辨として各地を遍歴し偶ま遠州三方原を過り茶園の盛大なるを視翻然として實業に志し其の九尾交六氏の移殖に係れるを聞き氏に就きて冀ふ所あり而して果さず更に渡米の雄圖を企て百方諸家に計り に己自の他又賴む可き者なきを覺り茲に飴賣りの奇案を畫して桑港に渡り見事失敗してお定りのボーイとなる後富士商會桑港支店に本邦茶の賣子となり鐵道王チャーレス、ハーソンの為に知られ氏の日本來遊に伴はれて一旦帰朝共に本所佐竹邸に在りしは世人の熟知する所なり而も得る所の資五千餘金蕩盡して餘すなきに至れり二十六年釋宗演師等の通辯として更に欧米に航し故ありて中途にして歸朝す次で横濱山下町バンタイン氏の館員となり幾くもなくしてサムライ商會を創立し辛苦經營遂に今日の盛運を見るに至れり聞く氏の商會を開くに方り軍事公債僅に二葉額面二百圓の資ありしに過ぎず而も是れ宮本某氏に懇請して融通したる所なりと又以て氏が經營の如何に多難なりし かを想見するに足らん而して双夫人内助の功最も 多きに居ると云ふ君は岐阜縣人明治三年三月十五日大野郡公鄉村の農家に生る」京浜実業家名鑑

サムライ商會 野村洋三「弘く海外諸国に特約を結び専ら新進の雑貨を輸入して需要者に供給し頗る高名あり蓋し斯業者の重鎮と仰ぐに足るべきか」京浜名家総覧職業

「美術雑貨輸出商として其名海外に顕はれ美術骨董王と称せらるるものをサムライ商会となす店主野村洋三氏は海外に対し熱心なる日本美術の紹介者たり。」現代之横浜

「本町三丁目北側なり。骨董、銀器、象牙細工等を以て『東洋キュリオスキング』の名に依り世界に鳴る。」横浜遊覧商業案内

サムライ商會 野村洋三「開港初年に野村三千三氏あり、五十年の今日野村サムライ商會あり、良二千石に野村知事あり、我横浜何奚ぞ野村氏に因緣多きや、野村洋三君は美濃大野郡公郷村の人、明治三年を以て生る、幼より、倜儻大志あり、笈を負ふて東都早稻田に學ぶ、後大洋を横斷せる實に三回、洋三君は實に名詮自稱に因るか、横浜本町一丁目に巍然たる高閣を築きて城櫓に擬し、諸家の紋所燦々目を奪ふ、サムライの語如何に外人の好奇に投ぜし、店頭の器玩服飾何れも純日本の特色品、一たび横浜の地を踏める觀光客は競ふて此の店舗を知らざるを以て愧となす、其商略の巧實に人意の表に出づ、當年の山城屋に比すれば膽氣或は缺如する所あらんも、其機智に於て彼は一籌を輸せん、サムライ商會亦横浜に於ける一名物と云はざるべからず、」横濱成功名誉鑑


murray

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