角羽銅美術品店 弁天通

角羽支店
銅美術品店
弁天通3丁目47番地
(603)
本店は高岡市の老舗。弁天通店は明治18年(1885)設立
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


銅鐵及金屬器賣込啇 角羽勘左衛門「越中高岡は銅器の生産地にして斯業の巨商頗る多し、就中角羽勘左衛門君は屈指の店舗にして明治十八年中橫浜に支店を設置せらる、製品の豊富なる意匠の奇拔なる市内第一流を以て稱せらる、聖路易大博覽會ポートランド博覽會に出品して孰れも金賞牌を受け、四十年の東京博覽會第廿二回彫刻競技會其他より賞牌を受けしと枚擧に遑あらず外人よりの注文常に忙しといふ、」横濱成功名誉鑑

横浜弁天通の支店から富山高岡の本店へ送られた手紙

広瀬金七商店 元浜町

廣瀬金七商店
元浜町1丁目7番地
製茶貿易商、事業者
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

廣瀬金七 元浜町1丁目7番地「君は嘉永二年九月一日を以て静岡縣遠江國引佐郡金指町に生る家は代々農を以て業とす然れども君幼にして穎敏聰慧に時勢の推移を察し社會の變遷を窺ひて今後處世の術一に商業にありとなし慶應三年飄然鄕關を出で横濱に来りて製茶業に從事しあらゆる艱難辛苦と闘ひ幾多の悲風惨雨を冒して屈せざる剛毅の精神は當時横濱の大商館オットワイメルス會社の知る所となり明治十三年同社員に擧げられ英才敏腕は益々抜擢せられて遂に同社代表員となり盛に内外輸出貿易の衝に當りけるが其の畫策經營皆宜しきを得て遂に今日の隆盛を得たり輓近鑛山事業に従事し目下此の種の會社に關係せるもの一々枚擧に遑あらずと雖め今其の主要なるものを擧ぐれば三十九年三月大又鑛山合資會社長となり同年五月唐戸屋鑛山合資會社長に推され同年十月惠美須森鑛業合資會社長に擧げられ同年十二月八莖鑛山合脊會社長に推薦せられ専ら鑛山事業に斡旋する所ありしが戦後經營として事業の勃興するにつれ君亦諸種の會社を創立經營して卅八年十月清水倉庫合資會社長となり三十九年十月横濱肥料製造合資株式會社取締役社長に推され四十年二月磐城セメント株式會社取締役に選ばれ得意の敏腕辣手は能く其の事務を解決して快刀亂麻を断つの慨ありと君今や家業としては製茶製銅及び鑛石賣込外國米輸入海産物貿易及五品取引仲買を營み家運隆々として旭日昇天の勢あり君曾て遠州天龍川舟楫往来の積弊を慨し之を打破せんと欲し自ら率先經營しく運搬業を開始し事業は着々其の緒に就きて頗る良好の成績を見るを得たりしかば同地方に非常の便益を與へたりといふ昨年故ありて是れを古河鑛山會社に譲り渡したり亦當代實業家中の一人傑なるかな」京浜実業家名鑑

廣瀬金七 元浜町1丁目7番地「君は遠州の人嘉永二年の生れ、慶應三年横濱に来り製茶業に従事し、明治十三年オットライメルス商會に入り、令現に業務担当員として其の經營に任ぜり、君の商略は多方面にして、何れも皆着々として秩序整然其實を挙げつつあり、則ち卅九年中に大叉鉱山合資會社、唐戸谷鉱山合資會社及恵美須森鉱業合資會社々長に推され、猶八莖鉱山の社長を兼ね、君嘗て遠州天龍川舟運の積弊を慨し、之れを打破せん爲に運漕業を開始せしが、良好の成績を収めたるが爲め郷人皆之れを德とせり、是れより自家關係の鑛物運搬を主とし、廻漕部を海岸通一丁目に、支店を江尻、天龍及陸中四倉に置きて其事業を擴張せり、其他淸水倉庫合資會社、横濱肥料株式會社の社長、磐城セメ ン ト株式會社取締役等何れも令聞あらざるはなし、自家の營業としては、製茶、製銅及鑛石賣込、外國米輸入、海產物輸出及取引所仲買等、其複雜なる業務に處して裁决流るゝが如く、些の渋滞なきは實に非凡の手腕あるによる、其傍ら公共事業の如きも又盡くす處少なからず、明治卅八年オットライメルス商會に於て、廿五ヶ年間勤続の功として金時計一個を贈らる、實に當代多く得難商界の傑人ならずや、」横浜成功名誉鑑

広瀬回漕店 海岸通

横神
廣瀬回漕店
海陸運輸
海岸通1丁目2番地
(1676)
廣瀬商店、廣瀬金七の系列
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

伊藤蚕糸売込商店 弁天通

伊藤金兵衛商店
蠶絲売込商
弁天通4丁目76番地
(1879・592)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


蠶絲貿易商 伊藤金兵衞「辨天通は巨商大賈の淵叢と稱す、其間に立て堂々店舗を張るもの卓出せる才能を有せざれば能はざる也、伊藤金兵衛君は幼名保太郎、明治三年十月の出生にして、幼より斯業の經驗を積み、先代金兵衛氏の歿後家督を相續して襲名し、盛に生絲賣込に從事し、叉蠶絲仲買を兼ね、同業者中屈指の敏腕家を以て目せらる、」横濱成功名誉鑑

横浜蠶絲日報

神奈川県庁仮庁舎 横浜公園

神奈川県庁仮庁舎
横浜公園
花は桜の木、真ん中に見えるのはガス灯となれば、場所は横浜公園か、
キャプションが正しいとすれば考えられるのは三代目神奈川県庁建築のための仮庁舎

二代目神奈川県庁舎は老朽化、狭隘化の問題があったため、明治42年、遠藤於菟を神奈川県建築工事長、神奈川県技師に任命し、新庁舎および仮庁舎の建築設計、工事監督を委ねた
同年9月、横浜公園内に木造三階建ての仮庁舎が完成したが、施工業社の手抜き工事により手直しが必要となり遠藤於菟が辞任に追い込まれるなど大きな問題になる
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

金澤梅岡別邸 金沢

相州金澤梅岡別邸
金澤
絵葉書の製作時期は震災後、昭和初期のようだが
梅岡別邸とは何か
梅岡とは人の名前か梅林の丘のことか
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横浜ホテル 神奈川

横浜ホテル
ホテル
(1469)
青木町3576番地
神奈川神風楼廃業後、西洋館をホテルとした
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和英横浜案内

八幡神社 保土ヶ谷

八幡神社
保土ヶ谷区岩間上町2300番地
武蔵風土記稿には『花園院の御宇、文保2年の鎮座なり』とある
祭神は応神天皇、例祭は8月15日
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山手居留地

山手居留地
画面を左右に水平へと貫く丘の上の稜線が山手本通り、
稜線沿いの左側に見える白い洋風の建物がアメリカ海軍病院(U.S. Naval Hospital)、
その右側の斜面に白い墓石や記念碑のようなものが点在している、このあたりが外国人墓地、
画面中央から右奥の建物群がアルフレッド・ジェラール(Alfred Gérard)の瓦工場
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国島皮革商店 尾上町

国島商店 國島銈太郎
洋皮革商
尾上町1丁目1番地
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田部井京屋綿布貿易商 弁天通

京屋 田部井芳兵衛
綿布貿易商
弁天通1丁目1番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


京屋襯衣店 田部井芳兵衛君 太田町1丁目13番地「襯衣製造販賣店として舊き経歴を有し、技術の巧妙を以て著名なる京屋襯衣店主田部井芳兵衛君は今其二代目なり、先代芳兵衛君は明治初年群馬縣新田郡世良田を出で、京屋當地に来り蠶卵紙の輸出商を營み、漸く盛大となりて同十年の頃、生絲及び伊太利向の雑貨輸出商と變じたるに、十三四年の交生絲暴落と銀塊相場變動の爲め多大の損失を蒙り、家運次第に衰へて復起つ能はざる窮境に陥りしが、不屈不撓の先代は十八年三月を以て現営業の襯衣類の製造販賣を始むると共に頽勢を挽回し来り、再び當年の隆盛を見るに至りたりしが、三十九年三月不幸病歿せらる、當代芳兵衛君は松井勝次郎氏の二男にして前名俊三郎、廿九年入て繼嗣となり、先代歿後其後を繼ぎ、最も進取の氣に富み、襯衣原料は英國クリュードソン會社其他英佛の諸會社より需め、之れに誇るべき加工を爲して濠洲南米南亞方面に輸出し益々好評を博しつゝあり、又絹布をも同地方に送荷して名あり、君年歯三十四歳、新進實業家中精勵の聞え最も高し。」横浜成功名誉鑑

依田洋織物引取商 南仲通

依田商店 依田彌助
洋織物引取商
南仲通2丁目24番地
(574)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


潤達なる少壯商人 依田彌助君(山下町甲九十番)「三國の山、三波の水、峻嶮と清玲と、凝ッては人物となり、發して侠氣となる、關東精悍の風秩父山系を中心として起るは古今其撰を一にす、依田彌助君亦上毛藤岡の人、覇氣稜々夙に少壯商人間に鳴る、明治三十七八年日露の干戈相交るに當り、或は後援に或は歡送迎に、炬火爛々たる點燈行列の快運動は、戰國の際坐ろに人意を鼓舞せしめき、君明治二十一年の頃早稲田専門學校に遊びて、政治経済の學を修む、中途乃父の喪に遇ひ不幸退學の已むなきに及べり、家翁は一世の侠商、洋織物引取商の巨擘なりし、君衣鉢を傳へて其業を継ぎ、敏捷なる手腕は往々老成家を歴し、一躍地を擢くの位置を占めしは年僅かに二十七八歳の時なりと聞く、三十三年本町外十三ヶ町區會議員に擧げられ、又市會議員候補者に擬せらる、君年少の故を以て固辭す、三十八年に至り再び推薦せらるゝや、決する所あり斷然快諾を與へたり、今や現に山下町甲九十番に入り盛に其辛辣なる商才を發揮されつゝあり、性任侠潤達にして達辯、侃諤の議を公場に振ふこと久し、三十四年以来輸入商青年會の會長として其牛耳を執り、野外運動及び點火行列のウォーリターとして全港に活躍す、南睦會、上州會其他公共事業に關して盡す所甚だ多く、上州男兒の真骨頭を發揮して、現横浜に於ける一部の化形役者たり、嗟吁山靈水伯の感花も亦偉大なる哉」横浜成功名誉鑑

山田蚕糸貿易商店 本町

横濱蠶絲日報
山田商店 山田駒吉 
蠶絲貿易商
本町4丁目62番地
(101)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


生絲屑物貿易商 山田駒吉「山田駒吉君は生絲貿易界にて傑出せる商店主なり、本年古稀の高齢にして猶且壯者を凌ぐ、明治四年の頃岐阜より來りて店舗を新築し、初めて生絲賣込商を開始す、關西、中部、奥羽地方より委托せられて頗る手廣き商振たり、甞て中央倉庫株式會社創立に盡力して功あり今現に副社長たり、其他橫濱硝子製造會社取締役を重ね、商業會議所議員、四品取引所理事などの職にありしが今は後進に譲りて出でず、令息勘吉氏夙に慶應義塾を卒業して後米國を漫遊し、文明的實業界を視察して歸朝し、目下乃父を助けて業務に勉勵さる、」横濱成功名誉鑑

丸山商店 山田駒吉「濱港は全國唯一の貿易地にして殊に輸出入の頻繁なるは生糸にありとす店主頗る商機に熱中し生糸の輸出額年々莫大なりと」京浜名家職業総覧

山田屑糸部、山田駒吉の関連か

大澤高等傘商店 弁天通


大澤商店
高等洋傘店
弁天通4丁目74番地
居留外国人向けに西陣物の美術的な洋傘を製造販売していた。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


弁天通の大澤洋傘店「明治十五六年頃の当地洋傘界は太田町の伊勢勘、馬車道の酒井屋の二軒が其覇を称へていたのであるが、前者は商品を内地に売捌くのを主眼とし、後者は海外輸出を眼目としていたので、其間に開業した当店は居留地外人向の洋傘を製造販売したのであって、開店後若干も経たぬ中に好評を博し外国婦人令嬢等の店頭に踵を接するもの引きも切らざるの有様となった。それは前二者の後を趁はぬ着眼点が好かったのみではなく製造品が着実であったからで、奈何に其の標的が好くっても実質が是に適はねば最後の勝利を期することは至難である美術的な洋傘は所謂お体裁もので餘り実用に適するものでないが、当店のは高尚優美の上に実用に適して殊に鐵條の末端口止の如きは堅牢無比、常に内外に称賛を博しているので、麒麟に両翼を附けたやうなものであるから今日の雄飛を見るに至ったのである。材料は総べて西陣物で他店にては見ることの出来ない美術的の洋傘を今猶盛に発売しているが、内地でも高尚なる美術的洋傘を望む人は同店に直接注文するものが可成あるが、時には東京から宮家のご注文品もあって、上海香港等を経由して来る漫遊外人は横浜で洋傘を買うのを一つの目的にしていて上陸後直に当店を尋ねて来るとのことである。第五回内国勧業博覧会に出品して二等賞牌を得、鐵條五本星形、富士形二重張、網形等はいづれも明治卅九年に実用新案特許を得ているが、尚男持の取手の取はづしの出来る洋傘もある、不用の時は鞄の中へ入れることが出来て旅行用などには至極軽便である。当店は其の如く製造上新案工風に努めているが創業当時より一方には外字新聞に広告などをして機敏に販路を拡張しているが、卸売は一切しないから当店より製出する洋傘には大澤なる銘の無いものは一本も無く責任のあるもののみで、従来の信用を益々鞏固ならしめている。」実業之横浜

正直屋洋品店 尾上町


正直屋洋品店
雑貨洋品業
尾上町4丁目59番地
(609)
明治15年開店で正札販売の開祖。明治12年に横浜に移り、織物貿易を始めたが雑貨洋品業へ転じて馬車道角で正直屋を開業した。正札付き掛値なしの販売方法で人気になり、正直屋と言えば三歳の児童も知らない人はいないと言われるほどであった。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


尾上町の正直屋商店「主人が在宅である云ふから刺を通じると、来客中であるからと面会しなかった、聞く處に據ると郷里の沼津で悪辣を振り廻したので鼻つまみになり、當地に流れ込んできたのであって、先代の椎野正兵衛が本町の邸宅を賣却する間に立至って、何やら甘い汁をウンと吸ひ込んだのがもとで今の家産をなしたのであるとのことだ、日露戦役の折我軍戦捷の號外が出ると、直ぐに一せんも負けなしと云ふやうな立看板などをして中々抜目の無いことをやる、併し看板通りの正直であるや否やは保證の限りでない。」実業之横浜

正直屋 長谷川久吉「名は実を現はすとは本舗に対するの適評なりとす其品実の精撰に於て其値段の掛直なきに於て優に其名詮自称に背むかざらんや」京浜名家総覧職業

正札販賣の開祖(正直屋洋品店)長谷川榮太郎「大江橋より電車道を一直線に突當り、馬車道通りの角に壯大なる三層樓の洋品店あり、問はずして有名なる正直屋長谷川榮太郎君の店舗なるを知る、正直屋洋品店は正札附懸直無し販賣の開祖にして、馬車道通りの一名物なり、店主長谷川君は元江戸の人、嘉永六年に生れ、家は代々呉服商を營みて德川家及諸藩邸の御用達を爲せり、君は維新の際祖父に從て靜岡に移住し、家業を助けつつ麥稈眞田の製造に留心し、明治五年榮巧社を立つ、麥稈帽子の製作をも試みしが事情ありて此れを中止し、明治四十二年初めて出濱し、絹物貿易に力を注ぎ、傍ら獨力商業を試みしが、開港草創時代の弊害なる所謂懸値掛け引の餘り甚だしく、輸入雜貨の如き東京よりも却て割高の奇觀を見るに慨する所あり、率先是れが廓清の急先鋒に當らんと欲し、十五年洋品店を馬車道なる今の武藏屋呉服店の所に創め、傳來の家號駿河屋を捨てて珍奇にして而も呼び易き正直屋と冠し、名詮自稱正札附懸賣なしを標榜して賣出せしが、習俗に逆ひたる爲め當初は氣受宜しからず、同業間の反對も激しかりしが、不屈不撓誠實を以て所信を断行せしかば、數年ならずして漸次信用を得、顧客も却て安んずるに至り、後には同業以外までも翕然として之に傚ふに及べり、斯くて營業隆盛の結果現在の好位置に轉じ益々商務の擴張を加へ、現今にては市の内外を問はず東海道筋其他へ手廣く仲間取引をも爲し、儼然たる地步を占むるに至れり、」横浜成功名誉鑑

神奈川縣案内

神奈川縣案内誌

横浜姓名録

横浜姓名録

信濃屋洋品店 弁天通

信濃屋洋品店
西洋小間物 雑貨
弁天通4丁目70番地
(1197)
慶応2年(1886)の創業で太田町3丁目で洋品店を開き、後に弁天通に移転した
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


弁天通信濃屋商店「信濃屋の女将と住吉町の有泉の女将とは嬶天下の一対であることは隠れもない評判であって、又当店女将の前身が洋妾であったことは隠されない事実である。旦ツクが没したので遺産を頂戴しそれを資本に開業したのであるが、目色毛色の変った旦ツクを持っただけに多少感化されたものが鳥渡機敏な處もある、まだ広告なぞとふものがあまり世に用ひられない時分に桜木町の踏切手前へ汽車の窓から見えるように目先の変った広告をしたりなどした。買物に出かける時は美装をして 合財袋を手に持ちしやならしやならとお練りで行き、それはそれは営業者も驚く程な緻密な買方をする、商売も總べて此の遣り口で女将が采配を振ってゐるのである。」実業之横浜

信濃屋 吉澤房次郎「錦上花を添ふの小間物幾多を刎ね弘く世に高評を博せり最新の品類と格安の直段とは当店の特色にして又仕入れの多きも一異彩を放つに似たり」京浜名家総覧職業

信濃屋洋品店 吉澤房次郎「辨天通四丁目の角馬車道に面する處、巍然たる宏壯の一洋品舖あり、之ぞ開港以來の老舗として名高き信濃屋洋品店なり、指を繰る實に慶應二年の創業にして、現主吉澤房次郎君の祖父初代吉澤氏は信州松本在に生れ、早くより出濱して、種々の事業に從ひ、後太田町三丁目に洋品店を開き、同十年現所に轉じて其隆盛を期す、爾來店運の昌んなる驚くべきものあり、現主は明治元年に生れ、三十一年父の業を繼ぎたるもの、而して其の發展と共に内外顧客の信用厚く、物貨の富豊と品質の優良なる點に於て斯業者中の白眉たり、君叉淸國貿易に志あり、三十九年淸國杭州城内に信濃號なる支店を開設し、專ら本邦雜貨の轍出販賣を爲しつつありと云ふ、」横浜成功名誉鑑

現代之横濱

河合組靴店 伊勢佐木町

河合組靴店
靴店
伊勢佐木町1丁目10番地
(1936)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


伊勢佐木町通の河合組商店「米国邊りでは靴を買ふのに誂へる者は殆ど無く、皆出来合を買うのであって、高い價で尊い時間を費さ無いようにしてゐるから誂へる者とては千人に一人位であるさうだ。河合の店風は此米国流に則ってゐるので、誂物よりは利は薄いが今迄の如く餘計な日数と高價なのを除いて、多種多形のものを作って置き足さへ持って来れば直ぐ間に合ふ様にして、一般の便利を計り男子、夫人、小児等の手縫ひ出来合靴を製造してゐる。米国の五號より七號半迄あるのに倣つて、甲より丁迄の種類を作り最高が六圓五十銭最低が三圓五十銭であって、短靴は一圓安にしてゐる。開店したのは卅年四月で、短日月の割合に賣込んだ店である。」実業之横浜

神奈川縣案内誌

横浜貿易新報

サムエル・サムエル商会 山下町

present-day impressions of Japan
サミュル・サミュル商会 Samuel, Samuel & Co.
輸出入商
山下町27番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


サミユル、サミユル商会「目下旭日の勢力あるサミュル商會は明治廿五年頃の創立で、マーカス君及サミュル君の両サミュル兄弟が合名組織を以てサミュルサミュル商會と称し、軍器の賣込外資の輸入等て大に利益を得て、発展の基礎を作つたのである、邦人田中善助君入館後支配人ミッチェル氏に献策してタンク油の輸入を計画し、浅野総一郎氏と販賣の契約を爲したが、今では自分の手に収めてライデングサン會社として一手に販賣するに至つた、今年春百五十萬圓の株式組織に改め、神戸鷹取横濱平沼等其他に油槽を設置し意気衝天の慨を以て業務を擴張しつつある、尚同館は事業の関係上本店を東京に移し横濱は積卸手続を為す支店と爲す豫定なりと、館員としては顧問ロビンソン氏以下外人十四名、日本人十二名各重要の事務に當つて居る、」横浜成功名誉鑑

サミュル商会「是はまだ纔か二十年以来メッキリ仕上げた商館で今や旭日沖天の勢がある、サミュル、サミュル氏は明治十七年頃迄は山下町の一隅に長屋住ひをして微々たる輸入業を営みしものだが、廿五年頃からぐんぐん頭を揚げサミュル氏の兄マーカス、サミュル(倫敦市長を勤めた人)と合名組織でサミュル、サミュル商會を創立し、軍器の輸入外資輸入等で大に儲け出した、以前は諸君が知る通り我公債を外國に募るのは大抵此商會の手を経たもので、故星亨なども何の譯かで數萬圓のコミッションを商會から取つて揚々腕車で駆け出すのを見た事があると話す人もある位だ、併し全體に亘り其商ひ振は英國式の作戰慎重、實行勇敢を最も能く打ち現はしてゐる、一例を言ふと邦人の股肱田中善助氏の入舘後間もなく、石油のタンク輸入を支配人ミッチェル氏に献策すると氏も之に同意して詳細に倫敦の本店に具申したが二年経つても三年経つても、更に何等の音沙汰がないから、横濱の方では無論廢案と合點してゐると、最早こちらで忘れた三四年後に突然今よりタンク石油を續々送るから其用意をしろとの電報があつた、則ち此間に本店では洲越運河のタンク船通過其他關聯する問題を、極めて秘密の間に解決し其劃全く成るに及んで疾風迅雷的に命令を下して来たのであるさうだ、夫から一手販賣人を求め、先づ三井物産へ交渉したが熟議を要するさて容易に決せず、淺野へ持込むと大事業だとて天カラ受け附けず、最初の發議者先生共大いにうろたへ居ると澁澤男が『乃公が後援者となるからやれ』と云ふので初めて淺野氏が手を出すやうになつたのであるさうだ、併し今では販賣契約満期でサミュルは之を其手に收めライヂングサン會社としてタンク油を販賣して居る、など、知つたか振りに書く譯では無いが、兎に角サミュルは二十年足らずの間に山ほど儲け、其儲けの糟で、今年春から百五十萬圓の株式組織に改めたといふ藝當は、何ぞドエラいものではあるまいか」實業之横浜