大河原靴店 扇町


大河原商店 大河原源太郎
靴商
扇町2丁目61番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

増川屋食器店 吉田町

 
増川屋商店 柴田安兵衛
硝子器食器食料洋燈器
吉田町1丁目29番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

真光堂 キリスト教書店 寿町


真光堂
キリスト教書店
寿町1丁目60番地
バプテスト教会のキリスト教書店
明治の横浜手彩色写真絵葉書

富田屋布団店 常盤町


富田屋
夜具布団
常盤町4丁目57番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

森田屋岡本小間物店


森田屋岡本商店
小間物類洋服裁縫
元町2丁目86番地
明治の横浜手彩色写真

中川牛肉商店 吉田町


中川商店
牛肉卸小売
吉田町1丁目32番地(1421)
吉田町の牛肉問屋 中川喜三郎「市内牛肉問屋の巨擘中川喜三郎は伊勢國飯南郡の人、明治二年を以て生る、幼少の頃横濱に來り、初め牛馬賣買業を營み居りしが、明治十九年中、屠獣肉の利あるを察し、現住所に於て牛肉卸小賣業を創むることとなれり、君多年牛馬賣買の業に従事し、産地及性格に精通せるより、自然同業界に推重され、横濱屠場會社創立者の一員として立つに至り、業務益々盛大に赴きつつあり、實に吉田町方面に於ける牛肉問屋の雄鎮とす、」横浜成功名誉鑑

中川喜三郎「牛肉の精良無比を以て市内に誇る殊に塵埃汚物の混入せるを避くるため収容所を作りて設備完全せり當舗は卸小賣とも營むといふ」京浜名家総覧職業
明治の横浜手彩色写真絵葉書

英国東洋艦隊来航 本町通

英国東洋艦隊来航
本町通
明治の横浜手彩色写真絵葉書

武蔵屋熬豆店 伊勢佐木町(松ヶ枝町)

 
武蔵屋
熬豆店
伊勢佐木町1丁目1番地
(写真は松ヶ枝町、支店か?別の店か?)
武蔵屋熬豆店 川邉正義「熬豆を以て産を興せしといへば人は實にその根氣よさに驚かん、川邉政治氏は名古屋の人、世は西南の役とて兵馬倥偬の際志を立てて東京へと上りしが、事志と違ひて凡て徒労に屬せり、流遇の末横濱に來り、若干の資を擲ちて豆に代へ、はじけ豆を製して行路の人に鬻きしに、此畫策誤たず忽ちにして賣り盡くせり、随ふて熬り随ふて盡くす、轉々に幾回を知らす、諺に云ふ熬豆に花と、氏の運命や實に花の盛りなりき、かくして當市に於ける熬豆屋の元租として終に名題となれり、現主政義君(十五年出生)乃父の基礎に よりて、食料熬豆類一切を専業とし、殊に人造豆なる菓子は獨得の妙品として風味佳良是叉意外の好評を博し、武蔵屋豆の名遠近に響き、伊勢佐木町散歩の客必ず家苞にと購ひ歸へる、一粒萬倍冥利は一に此の店に集まりつ、人に仇なす悪鬼どもも、豆には到底敵し難きと見ゆるは實にも目出度き限りならずや、」横浜成功名誉鑑
明治の横浜手彩色写真絵葉書

三河屋羊羹店 松ヶ枝町


三河屋
羊羹
松ヶ枝町31番地
三河屋羊羹店 森源次郎「伊勢佐木町通を往來する人は紅黄紫白種々なる美色の蒸羊羹を店頭に陳らね、華客四時雑踏しつつある著名なる三河屋羊羹店を發見すべし、店主森源次郎君は明治五年を以て三河國岡崎に生れ、明治十三年父君仁三郎氏に伴はれ東都に出て、神田五軒町に菓子舗を開きしが、後横濱に來りて明治廿五年の頃松ヶ枝町勇座前に開店し、更科蕎麦店長谷川氏と隣り合ひて盛名を馳せつつありしが冊三年の大火に類焼の厄に遇ひ、其後目下の處に新築を為し生國の名に因なみたる三河屋號と共に賣出したる蒸羊羹は、敢て高雅と云ふにはあらざれど、却つて俗に通じ一般の嗜好に合し、焼失前に倍して賣行き好良にして、三河屋羊羹の名四方に喧傳す、君寡言沈毅、言へば必らず行ふの人、今日の成功蓋し偶然にあらざる也、」横浜成功名誉鑑
明治の横浜手彩色写真絵葉書

横浜市瓦斯局 花咲町

横浜市瓦斯局
花咲町5丁目71番地
明治17年(1884)竣工
「日本に於ける瓦斯事業の嚆矢にして高島嘉右衛門翁の創立する所。其開業の際は特に天皇陛下の御幸在せられし程なり。明治五年の創立にして其後市の事業に移し。今現に埋設管五十七里余需要一萬余戸を照し。一箇年の料金は二十八萬圓石炭一萬四千余頓を消費す。」横浜職業遊覧案内
明治の横浜写真絵葉書

錦橋

錦橋
桜木町と花咲町の桜川に架かる
右上の鉄骨は大江橋か
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新子安海水浴場 新子安

新子安海水浴場
新子安
「夏は尚善し冬も亦佳。涼客集まるの時地所一坪一月の賃料三圓以上を要す詳く云はずも其繁昌思ふべし。常時水明楼なる料理店あり安値新鮮を供す。泳場は三百間の桟橋の先に設けらる停留場あり」横浜遊覧職業案内
大正の横浜写真絵葉書

横浜貿易新報社 本町


横浜貿易新報社
新聞社
本町6丁目84番地
明治23年(1890)横浜貿易新聞を東京で創刊。幾度かの変遷を経て明治39年(1906)に横浜貿易新報へ改題した。

横濱貿易新報社長 富田源太郎「我國新聞紙の權輿は實に横濱にあり、元治元年岸田吟香氏等が埋地百四十二番館に於て發行せる『新聞紙』と題せし者即ち是なり、次で蘭人ベーリ氏の萬國新聞岸田吟香氏の『もしほ草』福地源一郎氏の『江湖新聞』等の發行あり、明治六年讀賣新聞出で之と前後して東京日々、報知、横濱毎日等の起るに及び稍や體裁を爲すに及べり、横濱毎日は後に東京に移轉し、其後に起りたるものを横濱貿易新聞とす、廿三年二月の創刊にして、宇川盛三郎、高橋義雄、鈴木梅四郎、川上英一郎等の諸氏相繼承して執筆せしが、卅七年五月に至り富田源太郎君入て社務を督するに及び、從來對峙したる橫濱新報と合名して貿易新報と改題し、次で横濱の二字を冠して今に及べり、貿易新報は横濱貿易界の機關として、獨占場裡に活動し、東京に近き難境に處し敢て下らず、三色刷の好體裁にして機敏迅速なる報道は優に大新聞の俤を存す、最初は貿易商諸氏の後援ありしも今や全く富田君の經營に歸し基礎全く定まれり、富田君は當市商業學校出身の俊才にして、曾て東京商業會議所の書記となり叉バウデン商會の館員となり、頗る敏腕の目あり、次で住吉町二丁目に輸入肥料及雜貨引取の店舗を開きしことありしも、今や全力を新聞事業に傾注して其成績見るべきるのあり、横濱經濟會の發起人兼幹事、横濱市會議員の一人として、終始思ひを市の改良施設に注ぎ貢献する所多し、賦性飄逸洒脫邊幅を衒はず、而かも圖書編著の意匠構想、宴席會同の趣向計畫等着眼奇警にして人の意表に出づ、貿易新報に於ける各種の珍趣向は常に社會の喝采を博せり、君の著『富田氏英語會話』及『外國爲換の説明』等は共に世に行はる、四十二年十二月貿易新報社に組織の變更あり和智郁郎氏理事として入社す、」横浜成功名誉鑑
明治の横浜手彩色写真絵葉書


現代之横濱

横浜市大歓迎会

アメリカ領事館前

横浜公園前
横浜市大歓迎会
明治38年(1905)観艦式2日後の10月25日、東郷大将は横浜市大歓迎式に参加する。13時9分に横浜停車場へ到着、弁天橋を渡り、本町通を郵便局まで進み右折、境町2丁目を左折し(境町2丁目を右折し港橋通りを左折?)港橋通りに入り、尾上町1丁目角より横浜公園の会場に入った
明治の横浜写真絵葉書