柳屋平林果実園 野毛町

柳屋平林
果物問屋
野毛町1丁目8番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


神奈川縣案内誌

武相貯蓄銀行川和支店

武相貯蓄銀行川和支店
銀行
都田村川和964番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

有田屋庄村陶器商店 相生町

有田屋 庄村藤吉
陶器商
相生町1丁目16番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

コンノート殿下来日 横浜停車場

英国コンノート殿下来日
明治39年(1906)2月19日、イギリスのコンノート公アーサー王子(コノート殿下)が明治天皇に「ガーター勲章」を奉呈するために来日した、横浜停車場前
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

英国東洋艦隊来航 横浜港

英国東洋艦隊の来航
横浜港
1905年10月11日、第2回日英同盟協約を記念してノエル提督に率いられた英国東洋艦隊12隻が横浜に到着した。巡洋艦アラクリティ号は後日遅れて神戸から入港した。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


英国東洋艦隊来航 横浜港



英国東洋艦隊来航
横浜港上陸
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

矢倉橋 根岸

矢倉橋
根岸堀割
矢倉橋の先はヘルムブラザーズ商会の艀造船所(ヘルムドック)へ続くのだが
ヘルムドッグがいつ頃から利用されていたのかは不明、
資料上、ヘルム会社と滝頭の名が一緒にでてくるのは大正13年以降に見える
①ヘルム兄弟株式会社造船部 滝頭町上紅189 艀修理業(横浜市商工案内 大正13年)
②ヘルム兄弟株式会社 滝頭町198 船舶修理業(職業別電話名簿 東京・横浜 大正14年 )

当初は造船部として、のちに船舶修理工場として分かれたのか、
船舶修理工場としては明治40年頃からのようだが、明治11年とする資料もある
①ヘルム船舶修理工場、明治11年1月設立(横浜市産業概要 昭和12年版)
②ヘルム船舶修理工場、明治40年2月開業 (全国工場通覧  昭和6年9月)
③ヘルム船舶修理工場、明治40年4月創業 (神奈川県工場名簿  昭和16年版)
④ヘルム船舶修理工場、明治40年6月設置 (神奈川県工場便覧  昭和12年版)

ヘルムドッグの記載は無いが、
ヘルム一族、ヘルム兄弟会社については「横浜ヤンキー」を一読されたい
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生麦事件の碑 生見尾村

生麦事件の碑
文久2年(1862)8月、東海道を京都へと進む薩摩藩一行を英国人4人が妨げたため、リチャードソンを殺害、2人に重傷を負わせた
明治16年(1883)、旧跡の碑が建てられた
この絵葉書は大正11年(1922)、事件六十年祭記念として作成されたもの
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角羽銅美術品店 弁天通

角羽支店
銅美術品店
弁天通3丁目47番地
(603)
本店は高岡市の老舗。弁天通店は明治18年(1885)設立
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


銅鐵及金屬器賣込啇 角羽勘左衛門「越中高岡は銅器の生産地にして斯業の巨商頗る多し、就中角羽勘左衛門君は屈指の店舗にして明治十八年中橫浜に支店を設置せらる、製品の豊富なる意匠の奇拔なる市内第一流を以て稱せらる、聖路易大博覽會ポートランド博覽會に出品して孰れも金賞牌を受け、四十年の東京博覽會第廿二回彫刻競技會其他より賞牌を受けしと枚擧に遑あらず外人よりの注文常に忙しといふ、」横濱成功名誉鑑

横浜弁天通の支店から富山高岡の本店へ送られた手紙

広瀬金七商店 元浜町

廣瀬金七商店
元浜町1丁目7番地
製茶貿易商、事業者
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

廣瀬金七 元浜町1丁目7番地「君は嘉永二年九月一日を以て静岡縣遠江國引佐郡金指町に生る家は代々農を以て業とす然れども君幼にして穎敏聰慧に時勢の推移を察し社會の變遷を窺ひて今後處世の術一に商業にありとなし慶應三年飄然鄕關を出で横濱に来りて製茶業に從事しあらゆる艱難辛苦と闘ひ幾多の悲風惨雨を冒して屈せざる剛毅の精神は當時横濱の大商館オットワイメルス會社の知る所となり明治十三年同社員に擧げられ英才敏腕は益々抜擢せられて遂に同社代表員となり盛に内外輸出貿易の衝に當りけるが其の畫策經營皆宜しきを得て遂に今日の隆盛を得たり輓近鑛山事業に従事し目下此の種の會社に關係せるもの一々枚擧に遑あらずと雖め今其の主要なるものを擧ぐれば三十九年三月大又鑛山合資會社長となり同年五月唐戸屋鑛山合資會社長に推され同年十月惠美須森鑛業合資會社長に擧げられ同年十二月八莖鑛山合脊會社長に推薦せられ専ら鑛山事業に斡旋する所ありしが戦後經營として事業の勃興するにつれ君亦諸種の會社を創立經營して卅八年十月清水倉庫合資會社長となり三十九年十月横濱肥料製造合資株式會社取締役社長に推され四十年二月磐城セメント株式會社取締役に選ばれ得意の敏腕辣手は能く其の事務を解決して快刀亂麻を断つの慨ありと君今や家業としては製茶製銅及び鑛石賣込外國米輸入海産物貿易及五品取引仲買を營み家運隆々として旭日昇天の勢あり君曾て遠州天龍川舟楫往来の積弊を慨し之を打破せんと欲し自ら率先經營しく運搬業を開始し事業は着々其の緒に就きて頗る良好の成績を見るを得たりしかば同地方に非常の便益を與へたりといふ昨年故ありて是れを古河鑛山會社に譲り渡したり亦當代實業家中の一人傑なるかな」京浜実業家名鑑

廣瀬金七 元浜町1丁目7番地「君は遠州の人嘉永二年の生れ、慶應三年横濱に来り製茶業に従事し、明治十三年オットライメルス商會に入り、令現に業務担当員として其の經營に任ぜり、君の商略は多方面にして、何れも皆着々として秩序整然其實を挙げつつあり、則ち卅九年中に大叉鉱山合資會社、唐戸谷鉱山合資會社及恵美須森鉱業合資會社々長に推され、猶八莖鉱山の社長を兼ね、君嘗て遠州天龍川舟運の積弊を慨し、之れを打破せん爲に運漕業を開始せしが、良好の成績を収めたるが爲め郷人皆之れを德とせり、是れより自家關係の鑛物運搬を主とし、廻漕部を海岸通一丁目に、支店を江尻、天龍及陸中四倉に置きて其事業を擴張せり、其他淸水倉庫合資會社、横濱肥料株式會社の社長、磐城セメ ン ト株式會社取締役等何れも令聞あらざるはなし、自家の營業としては、製茶、製銅及鑛石賣込、外國米輸入、海產物輸出及取引所仲買等、其複雜なる業務に處して裁决流るゝが如く、些の渋滞なきは實に非凡の手腕あるによる、其傍ら公共事業の如きも又盡くす處少なからず、明治卅八年オットライメルス商會に於て、廿五ヶ年間勤続の功として金時計一個を贈らる、實に當代多く得難商界の傑人ならずや、」横浜成功名誉鑑

広瀬回漕店 海岸通

横神
廣瀬回漕店
海陸運輸
海岸通1丁目2番地
(1676)
廣瀬商店、廣瀬金七の系列
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伊藤蚕糸売込商店 弁天通

伊藤金兵衛商店
蠶絲売込商
弁天通4丁目76番地
(1879・592)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


蠶絲貿易商 伊藤金兵衞「辨天通は巨商大賈の淵叢と稱す、其間に立て堂々店舗を張るもの卓出せる才能を有せざれば能はざる也、伊藤金兵衛君は幼名保太郎、明治三年十月の出生にして、幼より斯業の經驗を積み、先代金兵衛氏の歿後家督を相續して襲名し、盛に生絲賣込に從事し、叉蠶絲仲買を兼ね、同業者中屈指の敏腕家を以て目せらる、」横濱成功名誉鑑

横浜蠶絲日報

神奈川県庁仮庁舎 横浜公園

神奈川県庁仮庁舎
横浜公園
花は桜の木、真ん中に見えるのはガス灯となれば、場所は横浜公園か、キャプションが正しいとすれば考えられるのは三代目神奈川県庁建築のための仮庁舎

二代目神奈川県庁舎は老朽化、狭隘化の問題があったため、明治42年、遠藤於菟を神奈川県建築工事長、神奈川県技師に任命し、新庁舎および仮庁舎の建築設計、工事監督を委ねた
同年9月、横浜公園内に木造三階建ての仮庁舎が完成したが、施工業社の手抜きにより手直しが必要となり遠藤於菟は辞任に追い込まれた
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金澤梅岡別邸 金沢

相州金澤梅岡別邸
金澤
絵葉書の製作時期は震災後、昭和初期のようだが
梅岡別邸とは何か、梅岡とは人の名前か梅林の丘のことか
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横浜ホテル 神奈川

横浜ホテル
ホテル
(1469)
青木町3576番地
神奈川神風楼廃業後、西洋館をホテルとした
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和英横浜案内

八幡神社 保土ヶ谷

八幡神社
保土ヶ谷区岩間上町2300番地
武蔵風土記稿には『花園院の御宇、文保2年の鎮座なり』とある
祭神は応神天皇、例祭は8月15日
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山手居留地

山手居留地
画面を左右に水平へと貫く丘の上の稜線が山手本通り、
稜線沿いの左側に見える白い洋風の建物がアメリカ海軍病院(U.S. Naval Hospital)、
その右側の斜面に白い墓石や記念碑のようなものが点在している、このあたりが外国人墓地、
画面中央から右奥の建物群がアルフレッド・ジェラール(Alfred Gérard)の瓦工場
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国島皮革商店 尾上町

国島商店 國島銈太郎
洋皮革商
尾上町1丁目1番地
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田部井京屋綿布貿易商 弁天通

京屋 田部井芳兵衛
綿布貿易商
弁天通1丁目1番地
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京屋襯衣店 田部井芳兵衛君 太田町1丁目13番地「襯衣製造販賣店として舊き経歴を有し、技術の巧妙を以て著名なる京屋襯衣店主田部井芳兵衛君は今其二代目なり、先代芳兵衛君は明治初年群馬縣新田郡世良田を出で、京屋當地に来り蠶卵紙の輸出商を營み、漸く盛大となりて同十年の頃、生絲及び伊太利向の雑貨輸出商と變じたるに、十三四年の交生絲暴落と銀塊相場變動の爲め多大の損失を蒙り、家運次第に衰へて復起つ能はざる窮境に陥りしが、不屈不撓の先代は十八年三月を以て現営業の襯衣類の製造販賣を始むると共に頽勢を挽回し来り、再び當年の隆盛を見るに至りたりしが、三十九年三月不幸病歿せらる、當代芳兵衛君は松井勝次郎氏の二男にして前名俊三郎、廿九年入て繼嗣となり、先代歿後其後を繼ぎ、最も進取の氣に富み、襯衣原料は英國クリュードソン會社其他英佛の諸會社より需め、之れに誇るべき加工を爲して濠洲南米南亞方面に輸出し益々好評を博しつゝあり、又絹布をも同地方に送荷して名あり、君年歯三十四歳、新進實業家中精勵の聞え最も高し。」横浜成功名誉鑑