代官坂
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑
1900-1920 明治〜大正 古絵葉書・古写真・古書籍・古地図より
祇園舟神事 富岡
武州富岡海祭漁舟競争
富岡
富岡八幡宮の祇園舟神事か
青茅で編んだ茅舟を沖合まで運んで流したのち、二艘の船が全速力で速さを競い合う八百年以上の伝統を誇る夏の神事で横浜市指定無形民俗文化財第一号に指定されている
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調査 高島町神風楼
高島町神風楼の写真
左側が入口だが、NECTARINEの看板はまだ架かっていない
さて、この建物は神風楼内のどこにあるのだろうか
三階建の建物とは別の建物か、道を挟んだ向かいか、増築前なのか
調査中
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酒井屋洋傘店 常盤町
洋傘雑貨
常盤町4丁目69番地
(933)
明治4年に福富町で創業し、明治20年に常盤町の馬車道通りへ移転した業界の老舗。相生町の田邊民吉をはじめ多くの人材を輩出したほか、中国やインド等への海外輸出を展開した。
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酒井あさ「洋傘店の老舗なり意匠を凝らしたる新形の品種續々入荷し市内に聲價を博し一般需求者には便利と確實を標榜しつゝあり」京浜名家総覧職業
「物故された榮八氏は元来甲州の甲斐絹商人であったのであるが、當地へ取引をしてゐる中に洋傘の将来に望みを屬し、商業のかたわら洋傘製造の研究に著手し、大に得る處があったので、明治四年に福富町一丁目の其頃在ったおつや稻荷の前へ開店したのであったが、一般の需要もさして無く随って商業も微々たるものであった。併し氏は不撓不屈の誠心を以て製造販賣の 擴張を計った。處が巖丈で實用向きであるから世人の意に叶ひ、非常な賣行を見るやうになったので規模狭少な處から、明治廿年に現今の常盤町四丁目の馬車道通へ移輾したのである。其當時市内に洋傘を製造販賣してゐた店は太田町の伊勢勘、長者町の楠見と當店の三軒であったので、後進ながら伊勢勘と竝び 稱されてゐたので、十五年以前から未だ世人の著手せざる洋傘の輸出を計り支那印度方面へ販賣し大に効果を収め爾來益々盛大になったのである。洋傘及洋杖は當店獨特な製造法によるので、居留外人の顧客も尠なからず又本町の椎野商店で取った外人の注文も受けてゐる。相生町の田辺、姿見町の神保、野毛町の酒井屋、白木屋の下職等は皆當店から出た者で、依って以て如何に其の製造法の巧妙にして有爲なる人を置いてあるかが解るのである。賣品は正札附を實行し無代で破損の個所は修繕するのであって、一昨年甲府に於て開催された一府九縣聯合共進會に出品して賞状を受領し、先年當市永住町で開かれた關東實業大會に出品して好評を博した。」実業之横浜
三井物産横浜支店 山下町
三井物産横浜支店
総合商社
山下町177番
明治44年(1911)に竣工した旧三井物産横浜支店は、鉄筋コンクリートで構築した日本初の本格的なオフィスビルで、日本の都市建築が近代化へ向かう決定的な足駆けとなった、設計を手掛けたのは遠藤於菟
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑
「三井家の経営する所にして直輸出入貿易を為すの目的を以て設立せるものなり資本金貳千萬円積立金千貳百萬円あり自ら船舶を所有して貨物の運搬を行ひ全世界至る所支店又は代理店あらざるなく従って取引の盛んにして信用の厚き我国海外貿易業者中同社の右に出づるものなし横浜支店は直輸入の外主として生絲、羽二重其他絹物の直輸出を為し就中生絲の如き外国商館の遠く及ばざる所にして斯界に於ける大手筋として相場を左右するの勢力を有せり支店長北村七郎氏は在任長く実業界に重んぜらる。」
三井物産株式會社 橫濱支店 本町4丁目69番地「當會社の起因は遠く明治九年の頃にあり、當時我國の貿易は實に外國人の掌中に屬し本邦人の容喙を許さず、三井家は深く之を憤慨し、其一族三井武之助三井養之助二氏を社主として三井物産會社の名目の下に海外貿易を企畵せられたり、當時益田孝氏社長に木村正幹氏副社長に任ぜられしが、廿五年四月社主養之助氏益田氏に代り、廿六年商法の一部實施と共に合名會社の組織として三井物産合名會社と改稱す、翌廿七年十月同族中より三井元之助氏を業務擔當社員とし、越へて三十一年十一月に至り再び改革して三井十一家主人を盡く無限責任社員として依然元之助氏社長たりしが、卅四年三井八郎次郎氏新に代表社員長となれり、四十二年組織を變更して株式會社とし同氏社長に推さる、橫濱支店は創設同時より置かれ、生絲輸出を主とし輸出入品一切を手廣く取扱へり、現支店長は北村七郎君にして良支配人の稱あり、」横濱成功名誉鑑
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河野美術商店 本町
河野美術商店
七宝器販売
本町2丁目37番地
(1807)
河野美術商店(河野七寶器店)の店主、河野由太郎は粗製濫造により信頼を失い、輸出が途絶えかけた七宝焼の現状を憂い、横浜における七宝焼の鼻祖・後藤省三郎と協力し、原料供給や意匠の考案、販路拡大に奔走した。彼の指導下、無線七宝や写実的な風景・花鳥などの精密な製品を生み出し、再び振興させるに至った
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑七寳器中興の功勞者 河野由太郎「陶磁器漆器と共に海外に輸出して東洋美術の聲價を揚げたる七賓燒は、端なくも明治十四五年の交一大打擊を蒙りたり、他なし日本工藝品の通患なる粗製濫造に基因せり、是時に於ける東京、尾州、京都等の産地に於ける凶荒は筆紙に盡し難きものなりき河野由太郎君は東京々橋の人傳藏氏の長男なり、父祖世襲の銅器商を繼承して營業し來りしが、我重要なる輸出品の販路杜絶せんとするを見て奮然之れが恢復の任に當らんと決心し、橫浜に來りて故後藤省三郎氏と謀りて、或は原料を供給し或は意匠を考案し、百方救濟の術を講ぜしかば、明治十八年に至り後藤氏は獨得の製品を發明し、新に購買者を挽回せんとする機會に接せり、君は此に於て曩きに原料を供給せし一人なる某氏の店舗を讓り受け、製造家より精選せる品を集めて全力販路の擴張に奔走せしかば、明治十九年に至り再び商務を振興し來りたるより、更らに現在の店舗に移轉し益々事業の發展を謀れり、製造家も一意專心製品に注意したるにより、未だ甞て見るを得ざる無線物風景花鳥の精緻殆んど描寫と髣髴する品等續々出で來りて從前にも倍する盛况を來すに至れり、されば販賣者及製造家は悲酸なる境遇を脱却したるを紀念せんが爲め、各自醵集して紀念碑を尾張海東郡七寳村字東島に建て、君も亦功勞者の最なるものとして其姓名を列せらるゝに至れり、君恬淡の性曾て虚名を國內に求むるを欲せず、單に商品を海外に擴めて君國の利福を進むるを以て天職とす、商海稀に見るの篤志者と謂ふべきなり、」横濱成功名誉鑑
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コンノート殿下来日 横浜停車場
英国コンノート殿下来日
明治39年(1906)2月19日、イギリスのコンノート公アーサー王子(コノート殿下)が明治天皇に「ガーター勲章」を奉呈するために来日した、横浜停車場前
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英国東洋艦隊来航 横浜港
英国東洋艦隊の来航
横浜港
1905年10月11日、第2回日英同盟協約を記念してノエル提督に率いられた英国東洋艦隊12隻が横浜に到着した。巡洋艦アラクリティ号は後日遅れて神戸から入港した。
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矢倉橋 根岸
矢倉橋
根岸堀割
矢倉橋の先はヘルムブラザーズ商会の艀造船所(ヘルムドック)へ続くのだが
ヘルムドッグがいつ頃から利用されていたのかは不明、
資料上、ヘルム会社と滝頭の名が一緒にでてくるのは大正13年以降に見える
①ヘルム兄弟株式会社造船部 滝頭町上紅189 艀修理業(横浜市商工案内 大正13年)②ヘルム兄弟株式会社 滝頭町198 船舶修理業(職業別電話名簿 東京・横浜 大正14年 )
当初は造船部として、のちに船舶修理工場として分かれたのか、
船舶修理工場としては明治40年頃からのようだが、明治11年とする資料もある
①ヘルム船舶修理工場、明治11年1月設立(横浜市産業概要 昭和12年版)
②ヘルム船舶修理工場、明治40年2月開業 (全国工場通覧 昭和6年9月)
③ヘルム船舶修理工場、明治40年4月創業 (神奈川県工場名簿 昭和16年版)
④ヘルム船舶修理工場、明治40年6月設置 (神奈川県工場便覧 昭和12年版)
ヘルムドッグの記載は無いが、
ヘルム一族、ヘルム兄弟会社については「横浜ヤンキー」を一読されたい
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生麦事件の碑 生見尾村
生麦事件の碑
生見尾村
文久2年(1862)8月、東海道を京都へと進む薩摩藩一行を英国人4人が妨げたため、リチャードソンを殺害、2人に重傷を負わせた
明治16年(1883)、旧跡の碑が建てられた
この絵葉書は大正11年(1922)、事件六十年祭記念として作成されたもの
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角羽銅美術品店 弁天通
角羽支店
銅美術品店
弁天通3丁目47番地
(603)
本店は高岡市の老舗。弁天通店は明治18年(1885)設立
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銅鐵及金屬器賣込啇 角羽勘左衛門「越中高岡は銅器の生産地にして斯業の巨商頗る多し、就中角羽勘左衛門君は屈指の店舗にして明治十八年中橫浜に支店を設置せらる、製品の豊富なる意匠の奇拔なる市内第一流を以て稱せらる、聖路易大博覽會ポートランド博覽會に出品して孰れも金賞牌を受け、四十年の東京博覽會第廿二回彫刻競技會其他より賞牌を受けしと枚擧に遑あらず外人よりの注文常に忙しといふ、」横濱成功名誉鑑
横浜弁天通の支店から富山高岡の本店へ送られた手紙
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