正直屋洋品店 尾上町


正直屋洋品店
雑貨洋品業
尾上町4丁目59番地
(609)
明治15年開店で正札販売の開祖。明治12年に横浜に移り、織物貿易を始めたが雑貨洋品業へ転じて馬車道角で正直屋を開業した。正札付き掛値なしの販売方法で人気になり、正直屋と言えば三歳の児童も知らない人はいないと言われるほどであった。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

尾上町の正直屋商店「主人が在宅である云ふから刺を通じると、来客中であるからと面会しなかった、聞く處に據ると郷里の沼津で悪辣を振り廻したので鼻つまみになり、當地に流れ込んできたのであって、先代の椎野正兵衛が本町の邸宅を賣却する間に立至って、何やら甘い汁をウンと吸ひ込んだのがもとで今の家産をなしたのであるとのことだ、日露戦役の折我軍戦捷の號外が出ると、直ぐに一せんも負けなしと云ふやうな立看板などをして中々抜目の無いことをやる、併し看板通りの正直であるや否やは保證の限りでない。」実業之横浜

正直屋 長谷川久吉「名は実を現はすとは本舗に対するの適評なりとす其品実の精撰に於て其値段の掛直なきに於て優に其名詮自称に背むかざらんや」京浜名家総覧職業

正札販賣の開祖(正直屋洋品店)長谷川榮太郎「大江橋より電車道を一直線に突當り、馬車道通りの角に壯大なる三層樓の洋品店あり、問はずして有名なる正直屋長谷川榮太郎君の店舗なるを知る、正直屋洋品店は正札附懸直無し販賣の開祖にして、馬車道通りの一名物なり、店主長谷川君は元江戸の人、嘉永六年に生れ、家は代々呉服商を營みて德川家及諸藩邸の御用達を爲せり、君は維新の際祖父に從て靜岡に移住し、家業を助けつつ麥稈眞田の製造に留心し、明治五年榮巧社を立つ、麥稈帽子の製作をも試みしが事情ありて此れを中止し、明治四十二年初めて出濱し、絹物貿易に力を注ぎ、傍ら獨力商業を試みしが、開港草創時代の弊害なる所謂懸値掛け引の餘り甚だしく、輸入雜貨の如き東京よりも却て割高の奇觀を見るに慨する所あり、率先是れが廓清の急先鋒に當らんと欲し、十五年洋品店を馬車道なる今の武藏屋呉服店の所に創め、傳來の家號駿河屋を捨てて珍奇にして而も呼び易き正直屋と冠し、名詮自稱正札附懸賣なしを標榜して賣出せしが、習俗に逆ひたる爲め當初は氣受宜しからず、同業間の反對も激しかりしが、不屈不撓誠實を以て所信を断行せしかば、數年ならずして漸次信用を得、顧客も却て安んずるに至り、後には同業以外までも翕然として之に傚ふに及べり、斯くて營業隆盛の結果現在の好位置に轉じ益々商務の擴張を加へ、現今にては市の内外を問はず東海道筋其他へ手廣く仲間取引をも爲し、儼然たる地步を占むるに至れり、」横浜成功名誉鑑

神奈川縣案内

神奈川縣案内誌

横浜姓名録

横浜姓名録

信濃屋洋品店 弁天通

信濃屋洋品店
西洋小間物 雑貨
弁天通4丁目70番地
(1197)
慶応2年(1886)の創業で太田町3丁目で洋品店を開き、後に弁天通に移転した
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

弁天通信濃屋商店「信濃屋の女将と住吉町の有泉の女将とは嬶天下の一対であることは隠れもない評判であって、又当店女将の前身が洋妾であったことは隠されない事実である。旦ツクが没したので遺産を頂戴しそれを資本に開業したのであるが、目色毛色の変った旦ツクを持っただけに多少感化されたものが鳥渡機敏な處もある、まだ広告なぞとふものがあまり世に用ひられない時分に桜木町の踏切手前へ汽車の窓から見えるように目先の変った広告をしたりなどした。買物に出かける時は美装をして 合財袋を手に持ちしやならしやならとお練りで行き、それはそれは営業者も驚く程な緻密な買方をする、商売も總べて此の遣り口で女将が采配を振ってゐるのである。」実業之横浜

信濃屋 吉澤房次郎「錦上花を添ふの小間物幾多を刎ね弘く世に高評を博せり最新の品類と格安の直段とは当店の特色にして又仕入れの多きも一異彩を放つに似たり」京浜名家総覧職業

信濃屋洋品店 吉澤房次郎「辨天通四丁目の角馬車道に面する處、巍然たる宏壯の一洋品舖あり、之ぞ開港以來の老舗として名高き信濃屋洋品店なり、指を繰る實に慶應二年の創業にして、現主吉澤房次郎君の祖父初代吉澤氏は信州松本在に生れ、早くより出濱して、種々の事業に從ひ、後太田町三丁目に洋品店を開き、同十年現所に轉じて其隆盛を期す、爾來店運の昌んなる驚くべきものあり、現主は明治元年に生れ、三十一年父の業を繼ぎたるもの、而して其の發展と共に内外顧客の信用厚く、物貨の富豊と品質の優良なる點に於て斯業者中の白眉たり、君叉淸國貿易に志あり、三十九年淸國杭州城内に信濃號なる支店を開設し、專ら本邦雜貨の轍出販賣を爲しつつありと云ふ、」横浜成功名誉鑑


現代之横濱

河合組靴店 伊勢佐木町

河合組靴店
靴店
伊勢佐木町1丁目10番地
(1936)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

伊勢佐木町通の河合組商店「米国邊りでは靴を買ふのに誂へる者は殆ど無く、皆出来合を買うのであって、高い價で尊い時間を費さ無いようにしてゐるから誂へる者とては千人に一人位であるさうだ。河合の店風は此米国流に則ってゐるので、誂物よりは利は薄いが今迄の如く餘計な日数と高價なのを除いて、多種多形のものを作って置き足さへ持って来れば直ぐ間に合ふ様にして、一般の便利を計り男子、夫人、小児等の手縫ひ出来合靴を製造してゐる。米国の五號より七號半迄あるのに倣つて、甲より丁迄の種類を作り最高が六圓五十銭最低が三圓五十銭であって、短靴は一圓安にしてゐる。開店したのは卅年四月で、短日月の割合に賣込んだ店である。」実業之横浜

神奈川縣案内誌

横浜貿易新報

サムエル・サムエル商会 山下町

present-day impressions of Japan
サミュル・サミュル商会 Samuel, Samuel & Co.
輸出入商
山下町27番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

サミユル、サミユル商会「目下旭日の勢力あるサミュル商會は明治廿五年頃の創立で、マーカス君及サミュル君の両サミュル兄弟が合名組織を以てサミュルサミュル商會と称し、軍器の賣込外資の輸入等て大に利益を得て、発展の基礎を作つたのである、邦人田中善助君入館後支配人ミッチェル氏に献策してタンク油の輸入を計画し、浅野総一郎氏と販賣の契約を爲したが、今では自分の手に収めてライデングサン會社として一手に販賣するに至つた、今年春百五十萬圓の株式組織に改め、神戸鷹取横濱平沼等其他に油槽を設置し意気衝天の慨を以て業務を擴張しつつある、尚同館は事業の関係上本店を東京に移し横濱は積卸手続を為す支店と爲す豫定なりと、館員としては顧問ロビンソン氏以下外人十四名、日本人十二名各重要の事務に當つて居る、」横浜成功名誉鑑

サミュル商会 是はまだ纔か二十年以来メッキリ仕上げた商館で今や旭日沖天の勢がある、サミュル、サミュル氏は明治十七年頃迄は山下町の一隅に長屋住ひをして微々たる輸入業を営みしものだが、廿五年頃からぐんぐん頭を揚げサミュル氏の兄マーカス、サミュル(倫敦市長を勤めた人)と合名組織でサミュル、サミュル商會を創立し、軍器の輸入外資輸入等で大に儲け出した、以前は諸君が知る通り我公債を外國に募るのは大抵此商會の手を経たもので、故星亨なども何の譯かで數萬圓のコミッションを商會から取つて揚々腕車で駆け出すのを見た事があると話す人もある位だ、併し全體に亘り其商ひ振は英國式の作戰慎重、實行勇敢を最も能く打ち現はしてゐる、一例を言ふと邦人の股肱田中善助氏の入舘後間もなく、石油のタンク輸入を支配人ミッチェル氏に献策すると氏も之に同意して詳細に倫敦の本店に具申したが二年経つても三年経つても、更に何等の音沙汰がないから、横濱の方では無論廢案と合點してゐると、最早こちらで忘れた三四年後に突然今よりタンク石油を續々送るから其用意をしろとの電報があつた、則ち此間に本店では洲越運河のタンク船通過其他關聯する問題を、極めて秘密の間に解決し其劃全く成るに及んで疾風迅雷的に命令を下して来たのであるさうだ、夫から一手販賣人を求め、先づ三井物産へ交渉したが熟議を要するさて容易に決せず、淺野へ持込むと大事業だとて天カラ受け附けず、最初の發議者先生共大いにうろたへ居ると澁澤男が『乃公が後援者となるからやれ』と云ふので初めて淺野氏が手を出すやうになつたのであるさうだ、併し今では販賣契約満期でサミュルは之を其手に收めライヂングサン會社としてタンク油を販賣して居る、など、知つたか振りに書く譯では無いが、兎に角サミュルは二十年足らずの間に山ほど儲け、其儲けの糟で、今年春から百五十萬圓の株式組織に改めたといふ藝當は、何ぞドエラいものではあるまいか 實業之横浜

シイベルヘグナー商会 山下町

シーベルヘグナー商会
スイス系貿易商社
山下町90番地
1865年にスイス人のシイベルとブレンワルドが設立したシイベル・ブレンワルド商会が起源で横浜でも最も古い商社の一つである 生糸取引を中心にガス供給プラントの設置、時計の輸入販売もしていた
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

新九十番『新九』は明治以前に創立された、恐らく横濱商舘中一番古いだらうと思ふ、シーベル、ブエンオールド、シーベル、ウォルフの合名組織で二人共瑞西人である、初めの營業は鐵砲を奧洲南部等の諸大名へ賣り、傍ら日本の生絲を買集めて輸出したものであるが、鐵砲販賣では當時非常に儲け、其頃の大砲が今同舘倉庫の入口に紀念の為め据えられてある、英國人のォーター氏が支配人で此人は本年六十八歳の老躰で新九開業以來の支配人ださうで、日清、日露兩戰役の際は居留外商の先に立つて恤兵、献金等をした特志家である、現在の營業は輸入と輸出に分れ輸入部は又織物、鐵物、薬種(時計、珊瑚樹等も包む)と區別されて織物には依田彌助、鐵物に田中、薬種に松九眞佐彦氏の主任を置き、輸出中の生絲は吉田鈴之助、屑物は加納勇次郎氏が主任番頭である、富田利平、西宮大助、天田武助等は『新九』で大活動をした番頭であつたが、今は皆故人となつた支店は神戸、大阪の二箇所に在るが、要するに生絲商舘では一といひ二と下らぬ店である 實業之横浜

甲九十番 シーベル、ウオルフ商會「横濱商館中最古参との評ある甲九十番館はシーベルブエンオールド、シーベルウォルフの合名組織にして瑞西商人なり、明治初年各藩に使用せしスイツル銃は此商舘によりて輸入せられしものにて今も猶同商館倉庫の入口に紀念として當時の大砲の備付けらるるを見る、支配人はホール君にして其他有力なる社員に富む、現在の營業は織物鐵物硝子、肥料、薬種、時計、紙、珊瑚等を輸入し、生絲屑物等を輸出せり、日本人主管には山田孝太郎、依田瀬助、松丸真佐彦、吉田鈴之助、加納勇次郎等の諸君分分擔して店務を處置され居れり、神戸大阪に支店を置き、生絲輸出に於ては第一流を以て目せらる、」横浜成功名誉鑑 


シーベルブレンワルド

清林堂菓子舗 扇町

實業之横濱
清林堂
和洋菓子商
扇町2丁目43番地
(1578)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

清林堂 小林忠七「本舗は其専賣に係る新菓宇治の友に倚て其名高し店主常に非凡の技を以て珍菓を案出し風味の佳價格の廉なるを自負す店頭顧客の絶へざる宣なりと云ふ」京浜名家総覧職業

宇治の友本舗(清林堂)小林忠七 翁町2丁目43番地「市内幾多の菓子舗より發賣する滋養珍菓の中、最も雅味あるものは『宇治の友』なるべし、乙れ清林堂主小林忠七君が多年苦辛の結果、香味卓絶茶菓兼用の好飲料として發明したるもの、一たび賣り出すや名聲立ち全市を壓し、内地は勿論遠く清韓及東南洋諸國に當つて輸出するに至り、近來は紅茶珈琲代用として外人にも賞用さると云ふ、清林堂は埋地方面に於ける老舗にして明治十年の創業なり、初代主人文次郎氏は信州の産、始め他家に養はれしも人の産を受くるを潔しとせず、横濱に出で、某商館に奉公し、貯蓄を作りて質商を營み火災に遭ひて資を失ひ、刻苦辛酸、途に菓子商となりて基礎を定む、現主忠七氏父業を繼承して益々製菓の方法に心を苦しめ、『宇治の友』を案出して登録商標を受け、各共進會品評會に出品して賞を受くる數次、以て其眞價をトすべし、君叉同業者の一致團結を圖り營業上の改良を促すが為め、率先して先づ埋地部内の組合を組織し、次て全市同業組合の成立を見るに及び、君は其副組長として力を盡しつつあり、堅實持久は君の特性にして今後の發展更に見るべきものあらむ、」横浜成功名誉鑑

扇町の清林堂菓子店「現在の處へ開店したのは今より廿年以前で、殆で新杵と同時に斯業に従事したので、未だ風月などが出来ぬ時代であったので同町に於ける所謂草分である。先代没後十四年になるが餘り發展しないのは勉強が足らないからですと當主は云って居る。併し此間に内務省に登録の『宇治の友』といふのを發賣した、多年日本向の製菓には經驗を持ってゐることであるから可成好評である。蓋し顕實持久を店主としてゐるやうであるから着々として進んで行くらしい。地の利が悪いと云ふ程でもないから、發展は今後にあるのであらう。」実業之横浜

太田醤油野毛売捌所 野毛町

太田醤油造合資会社
醤油醸造
野毛町2丁目40番地
(2208)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

太田醤油造合資会社「合資を以て醤油醸造業に従ひて盛大比儔すべき者なし當社醸造の品質は頗る濃厚にして佳美あり一般の世評既に之を證明して餘りあり」京浜名家総覧職業

鈴木善兵衛 翁町2丁目19番地「名あるものは實なかるべからず所謂仰げば益崇く俯すれば益々固きものある是を稱して名實雙全の人と云ふ君は醤油醸造業者の泰斗と稱せられ素封家を以て鳴る君は慥に能才俊抜の紳士なり私には實業の盛大を致し公には社會國家の行政に參與し國民の安寧幸福を増進せんことを計る誠に模範的人士たり嘉永元年を以て福井縣丹生郡天津村に生れ父を岩崎彌左衛門氏と云ひ君は其二男なり代々酒造家を以て知らる幼名を謙次郎と呼び今の福井市の鈴木善兵衛氏の養嗣子となり姓名を襲ふ于時明治元年なり十一年國を出で實業家としての旗幟を飜へさんと欲し横濱に来り義兄吉田健三氏と協力し同市南太田町に醤油製造業を創始し屋號を太田と命じ謀計百端大に業に精勵す熱誠と正直とは神人の擁護あり日に月に繁榮に赴き遂に十五年現所に販賣店を新設し商業愈々擴張し發展し來り屈指の巨商と言はるるに至れるは君の賦才を以てして粒々辛苦せるの結果なりと謂ふべし茲に於て二十六年輿望を負ふて壽町外六ヶ町の區會議員となり二十九年同學務委員となり三十二年同區會議員となり三十三年横濱中央貯蓄兩銀行の取締役となり三十六年神奈川縣々會議員となる此外學校の設立に奔走盡力し兼ねて神社佛閣の修築に勗め學務委員等の公職に在りて勲蹟尠なからず銀盃木盃賞狀等を受與せられしこと数囘の多きに及び又博愛の心惻隠の情切なる君は慈善事業に對しても未だ曾て人後に落ちしことなし斯の如く社會の爲に鞅掌せらるると同時に決して自己の職分を荀且に附するものにあらず第五囘内國勸業博覽會の開設に際しては君率先して製造品を精製出陳し第一等賞を得られたるは以て生用意のあるところを窺ふに足らん希くは福祉永く君の上にあれ」京浜実業家名鑑

分銅富士印醬油釀造元 太田醬油釀造囓社 南太田町912番地(689)「富士印醬油とて内外に好評ある太田醬油釀造會社は其起原古く、鈴木吉田兩氏の共同事業なりし、吉田繁氏は目下東京に在り、氏は開港當時に於ける英學者にして明治初年頃通譯をなし種々功績ありしが、後醬油釀造を企て盛に販路を擴張せり、鈴木氏は分離して翁町に販賣店を開き目下は主として吉田氏の經營となれり、一ヶ年造石高一萬二千餘石、海外の輸出も尠なからず、內國勸業博覽會及共進會等にて賞状賞牌を受けし數回に及ぶ、支配人村上嘉氏は黄金町五丁目十五番地に住し圓熟なる實業家として世に重ぜらる、横濱成功名誉鑑

翁町の鈴木商店 太田の醤油屋と云へば横濱の一名物になってゐる。 併し聊か遠隔の厭ひがあるので現在の翁町へ販売店を開いたのである近頃新醸造會社の景品付や福引付の醤油販賣があるが、別に差したる事もないさうだ。併し醤油界に於ては従来より醸造力が増加したのであるから、總體には多少の影響はあったに違ひないが、直接の影響はホンの一時的で福引に引付けられて一度は買っても、後は矢張り従前の通りに復舊するさうである。本店は明治十年の創業で、分銅印富士印以下各種を醸造し、小賣を主にしてゐるから店前市を爲す有様で、太田の小賣部の方も附近から小賣に行く者が夥しいが、自動的には各方面に糶って歩くなど中々抜目がなし。併し商賣ぶりは至ってソッケない方である。醸造力は年々増加する計りで現下では一萬石を製出し得ると。実業之横浜

太田屋醬油店 鈴木善兵衞 翁町2丁目19番地(629)「太田の醤油といへば市內はいふに及ばず近鄉近在に知らざるものなし、本店は明治十年の創業分銅印富士印以下各種を醸造し、其石高現に一萬石以上に上るといふ、店主鈴木善兵衛君【六十二歲】は福井縣の人、家代々酒造家なり、明治十年橫濱に來り、義兄吉田健三氏とともに太田村に於て醬油醸造業を創む、一般需用家の信用篤く年々石高を增加せしより、會社組織に更ため、南太田町に醸造所を設け販賣部を當所に置き、卸小賣を爲し酒類をも販賣し、北方町羽衣町野毛町東京等數ヶ所に支店あり、公人としては廿六年七月壽町外六ヶ町の區會議員となり、廿九年十 一月壽學校建築委員に擧げられ、卅三年横濱中央銀行取締役に、叉横濱衛生株式會社取締役に推さる、卅六年縣會議員に選ばれ、四十年九月改選の際再び擧げられて其職に在り、」横浜成功名誉鑑


神奈川縣案内誌

横浜市商工案内

武蔵屋大関美術店 本町

神奈川縣案内誌
武蔵屋大美術店
貴金属美術工芸品製造販売業
本町4丁目66番地
(834)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

本町の大関美術店「横濱の開港したのは安政六年六月二日であって、と同時に開業したのは本店である。其頃本町二丁目と云った現在の場所が四丁目になって今日迄依然として位置を變へずに営業してゐる。蕞爾たる一漁村が世界的の横濱となったのにつれて本店も発展した。商略は奇策を弄せずして堅実に往々として進んだので、随って特記すべき程の事も無い、以前から金銀陶器象牙漆器などの美術品を販賣してゐたのであるが、近頃は重に金属類で中にも装飾品携帯品などが得意である。其他食器花瓶置物もあるが重に外國向けであって、好く捌けるのが化粧品食器盛花器等で卸小賣直輸出もやる。工場は東京横濱の二ヶ所にあって是等の需要に應じてゐるのである。店主大關貞次郎氏は嘗て市會議員商業會議所議員等の名誉職に就かれたが、今は金属品商組合役員に選ばれゐる。氏の商店から出て現今立派な美術店を營業してゐる者、或は後援に依って盛大になった七寳工場などがある。」実業之横浜 

貴金屬美術工藝品商 大關貞次郎「貴金屬美術工藝品を主として外客の重望を博し、信用最も確乎たる武藏屋商店大關貞次郎君は開港同時の開店にて斯業の老舗として其名海外までも聞ゆ、橫浜東京の二ヶ所に工塲を有し、多年の經驗と信用とは同業中一頭地を抜きて優良の品、低廉の價無比の稱あり、君硬直にして穩健曾て市會議員商業會議所議員として、現に金屬品商組合役員として、輿望を負ふ所甚だ厚し、」横濱成功名誉鑑

實業之横濱

murray

アーレンス商会 山下町

神奈川縣案誌
アーレンス商会
ドイツ系総合商社
山下町29番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

ハー、アーレンス繼續社 是は純然たる輸入商館で外に保険業、滊船代理店(北獨逸ロイド汽船會社の)を營む其保險業は本商會に豐富の資本を供給し一般輸入の業務を發展せしめた、輸入業の中其主體となれるものは染料で、横濱商舘中殆んど比肩するもの無しといふも過言でない、織物用糊は『アムローゼ』が獨り天狗であつたが昨年の暮から『グミナート』を本會から賣初めて極力其向ふを張り、機械部も昨年十一月より開業し獨逸ゲバウエル機械製造會社、同ステッケンホルツ機械工業會社、同コーネン染織機械製造所、同ジャコブ、リーター、タービン専門製造所等の代理店となつて大に是から力味うといふ氣勢である。アーレンスの紀元一年は即ち明治二年で築地へ開業したのを濫觴とする、明治八年横濱にハー、アーレンス社を設け、同十八年アーレンス氏死去後繼續社と改稱し、現今はハーケー、ウイスマン、モスレー三氏の合資組織で總資本金額三十萬圓である、横濱は本社の根據地でハーケー氏之に據り、神戸支店にはウイスマン氏長となり、ブレーメン支店はモスレー氏主宰し獨逸流の堅忍不拔、秩序整然たる商陣を布いて東西の貿易界に敢戦して居る、日本人の舘員中には室原興重などいふ老練家もあるが、藥品部、皮革部等には治外法權の夢に魅せられてゐるやうな小癪なハイカラもある。實業之横浜

輪入業保険及汽船代理店 ハー、アーレンス繼續社「當社は明治二年東京築地に開業せるアーレンス社の後身なり、明治八年同社は横濱に移りしが、十八年社主アーレンス氏歿後、ハーケー、ウイスマー、モスレー三君等の合資組織と爲し之を繼續せり、後、ハーケー、ウイスマー二君退社し、ハームセン、テンメの二氏横濱支店にボバート氏神戸支店に、モスレー君はブレメン支店にあり、獨逸流の堅忍不披秩序整然たる商陣を布いて東西の貿易界に雄飛しつつあり、輸人業に於て主脳となれるは染料にして、獨逸國馬獅子染料會社の代理店を為せり機械部は各國製造會社の代理店又は特約店として各種の諸機械及附屬品一切を取扱ふ、日本人館員中には染料主任室原興重君老練の聞えあり、本年六月機械部擴張の結果として東京築地の本店內に移したり、其他藥品部皮革部等にも英才多し、又獨逸ロイド汽船會社の代理業を營むこと古く、是又大に勢力あり、」横浜成功名誉鑑

室原興重 青木町373番地「君容貌魁偉眼光爛々勇斷果決の風ありて而かも襟懷洒耽恰も淸風明月の如く玲瓏たる心事一點の汚塵を止めざる底の資質亦欽ずべきものあり君は萬延元年福島縣元相馬中村藩に生る幼少にして東京芝區露月町鴻内塾に入り初めて英語を學び明治七年石川縣英語學校に入り十一年に至り更に東京に轉じ故尺振八氏の門に遊び修養すること三年學業大に進み後横濱毎日新聞記者となりて筆硯に従事し才氣煥發紙上に靈動す尋で横濱税關に奉職し幾何ならずしてスーアーレス社に入り神戸支店に勤務すること三年更に渡英して倫敦本店に在勤すること三年廿一年横濱支店に入りて染形部を擔任し計畫する處甚だ多し抑も斯業は明治八年の創始 にかゝると雖も初めは微々として振はず而して其商務の発展を來せしは廿一年君が朝以来の事とす蓋し輸入業者の間に競争絶えざるに加へ他に同業の二館ありて資本勢力相匹敵し且つ該事業たるや化學的試験を經ざる可らざるを以て随って精巧熟練の技術を要するものなり此の困難の間にありて君は獨得の技術を備へ資格を具し能く他の競争を排して斯界に一異彩を放つに至れるなり其他亦地方の競争者を壓伏し商權日に擴張せるを以て君は益々重用せらるといふ然れども吾人が君に取る所のものは單に商館員としてのみならず其の品性人格に於て大に推賞するものなり开は從來地方の華客に對して商館員の隙賄を迫り是に由って分に過ぎたる奢侈をなすの悪弊あるを慨し断然贈賄を峻拒してその悪弊を救済したるに在り之が爲めに彼等の悪感を買ひ君にして敬遠主義を執り時に孤立の身となりしも屈する所なく遂に館内の汚風を一洗し清廉高潔の美風を起すに至れりと云ふ豈に感ずべきの至りならずや」京浜実業家名鑑

イサボーイ商会 山下町

神奈川縣案内
イサボーイ商会
輸出入商
山下町45番地
(463)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

白米輸入の巨擘 イサボーイ商會 山下町201番地「當商會は印度商人中の巨擘なるのみならず、外米輸入に於てはライメルス、サミュルと鼎立の位置にありて第一流の勢力あり、本店は孟買にして、支店はカルカッタ、古倫母、マドラス、ピナン、新嘉坂、香港、上海、馬尼刺、神戸、横濱等殆んど全東洋各港に散在す、横濱支店は明治七年エムイサボーイ氏によりて設置せらる、現今支配人はケイ ケイ、カジワラ君にして當商會の店規は各支店長の任期を三年と限れるを以て、經過此に四十年十數名の交迭を見たり、資本は七百萬ルビーにして外國米、肥料、薬品、金屬、皮革及印度藍の輸入は何れも非常の巨額に昇れり、邦人主管には本田鹿蔵君主席にして、 瀧川三太君會計及內外事務主幹たり、羽二重部主任として須藤春次郎氏在り、」横浜成功名誉鑑

イサボーイ 是は印度人の商舘で本店は孟買に在る、支店はカルカッタ、古倫母、マダラス、ビナン、新嘉坡、香港、上海、マニラ 神戸、 神戸、横濱の各地散在し、殆んど東洋全商業地を結附けて居る、設立は餘程古いもので現今の資本金は七百萬ルービーである横濱支店は明治七年エム、イサボーイ氏が初めて南京町に開業したのを起源とするが其頃日印貿易は甚だ幼稚なるので彼我の事情は薩張り知られて居なかったもので、原價五圓の薬品が百九十五圓に賣れた例もある位で、開業六七年の間に横濱支店はエラク成功したのである、支店長は店規として三年を任期とするから、 爾來幾人か支店長の交迭を見たが現支店長は本年三月香港支店長から轉任したエム、ビー、バスライ氏で、氏は各國語に通曉したる有爲の商人である、営業の種目は外國米、肥料、薬品、金屬、皮革、藍などの輸入は孰れも中々手廣いが、就中外国米の輸入に就ては當港商館中オットライメルス商會、サミュエル、サミュエル商會と三館鼎立の有機を成し昨年取扱高十二三萬圓一昨年の取扱高三十五萬圓なるに徴しても一方の覇たるに愧ぢぬ、併し昨年以來内商で外米を取扱へるものは何れも手痛い打撃を蒙り、商館側でも尠なからぬ損耗を蒙って居るそうだから、本年の成績は此商會とても不良の結果を免れぬといふ世評である 實業之横浜

イサボイ商會員 本多鹿藏 本町6丁目52番地(2451)「本多鹿藏君は安政元年の出生にして、十八歳の時九州に在り、軍隊に火薬を賣込みて大利を得たりと云ふ、既に凡庸の人に非ざるを知る、明治十四年京阪の官吏と合資し朝鮮貿易旭商會を京都に興し、自から大阪支店長となりて沙金の取引に當りしが、十七年解散して少時閑散の日を送り、二十四年支那漆輸入を思立ち、廉價を旨として大に販路を擴張し、僅かに八ヶ月間にして収益五六萬圓を得、途に同業者の忌む所となり、二十五年此れを中止して清國に渡り、漆の産地なる湖南湖北の山河を跋渉して二年目に歸朝す、然も資本を要するの莫大なる進むで事業に就く能はず、踏査は空しく効なく了りぬ、日清戰役となるや、君は鹿兒島縣人某氏と山下組を組織し海軍酒保となりて大倉組と對抗し、後基隆に雑貨店並にラムネ製造會社を設立せしが、不結果にして出濱し、三十一年イサボイ商會に入り、輸入部主任を勤むる事となり、現に敏腕を揮ひつゝあり、」横浜成功名誉鑑

本田鹿藏 本町6丁目82番地「君は安政元年四月大阪に生る幼にして實業に志ありしが十六歳の時九州の某地にて商業を見習ひ西南戦争の時に火薬を軍隊に賣込みて大利を得たり時に年僅に十八明治十四年大阪に帰り京阪の官吏と合資して朝鮮貿易旭商會を設立して沙金買集めを目的に本店を京都に支店を大阪釜山等の各地に置き自ら大阪支店長となりて經營に従事せしが株主の多くは官吏にして活動の自由なければ事業も盛大ならず遂に十七年解散せり其後暫くの間放浪に其日を送りて失意の事のみ多かりしが二十四年未だ人の着目せざる支那漆の輸入を思立ち朝鮮漆として販売したるに賣行甚だ良好にして價も廉なりければ大に同業者の忌む所となり第二囘の販賣を始めんとしたる頃は相場を亂下せらるる恐れありとて君を殺さんとしたるものありしが忠告する者ありて漸く虎口を免れたり其漆にて儲けたるもの僅々七八ヶ月にて五六萬圓なりとは實に驚かざるを得ず而して君は大膽に其漆の本たる支那に於ける元を括らんと清國に渡り楊子江を遡り湖南湖北の漆山に入り二十五年より二十七年迄實地踏査せんが其漆山の廣漠にして十萬以下の金にては到底手の着け様も無きを覚り踏査の効もなく遂に絶望するの止む無きに至れり二十七年日清戦争の起るに及んで鹿児島人と共に山下組を組織して海軍酒保なし大倉組に對抗して花々しく活働し人をして其の敏腕に驚かしむ尋て基隆に雑貨店を開きラムネ製造會社を起し澎湖島臺東縣にも店を出して大奮闘を試みしが悉く失敗して遂に横濱に帰れり三十一年イサボーイ商會に入り今日に至る抑イサポー商會は輸入に米穀肥料織物薬品印度藍を扱ひ輸出に羽二重天産物を扱ひ近頃外米甘五萬袋を輸入せりと云ふ」京浜実業家名鑑

半田屋美術小間物商店 弁天通

神奈川縣案内
半田屋
美術小間物商
弁天通4丁目74番地
(752)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

弁天通の半田屋商店「明治元年頃には本店及太田町の吉村外二三軒の鼈甲小間物商があったが、今は其当時の店が一軒も残っていないから営業に於ける横浜第一の老舗である。十年頃から珊瑚の売買を始めて十二年頃から一層手広く取引を為し、商館に売込み又は東京大阪の同業者に卸していた。横浜へ著く珊瑚の荷の八分通りは一手で引受けた程の盛況出会ったが、其後関税が次第に高くなって今では五割といふ有様であるから、迚も利潤を見ることが出来ないといふので現今は小売のみをするやうになった。其他婦人物の金銀鼈甲宝石類の小売をしているが束髪が増えても従来の髪飾品の売行きは少しも衰えへないので結局品目が多くなったに過ぎないさうである。廿五年に筋向ふの六十二番地から現在の七十四番地に移転して専ら婦人装飾品の製作に意を凝らしている。」実業之横浜

小間物商界の耆宿(半田屋號)下鳥儀助「下鳥儀助 君、年齒古稀に及び精力根氣壯者を凌ぐ、肖像は君の還暦當時の撮影に係る、其钁鑠として衰へざる風采欣羨すべきなり、君は新潟縣の人維新前江戸に於て米殻株式仲買商を營みしが、明治元年橫濱に來り小間物商に轉じ、殊に象牙珊瑚貴金屬品の賣買をなせり、珊瑚は一時盛に輸入せしも明治廿五年頃に至り、海關稅の増加と本國伊多利の産出高减少せし爲め該品輸入は殆んど杜絶の姿となれり、目下は小賣に重を置き、内地向と共に外人を顧客として盛に營業せり、君資性羲俠公共心に富み、曩きに第三議會に向って古物商條例改正の際斡旋する所あり、今猶古物商組合頭取橫濱三業組合幹事長に推され聲望あり、」横濱成功名誉鑑


實業之横濱

横浜貿易新報

金子蚕糸売込商店 太田町

横浜蠶絲日報
阿波屋 金子商店
蠶絲売込商
太田町1丁目9番地
(861)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

金子政吉 太田町1丁目9番地「維新開國以來海外貿易は旭日昇天の勢を以て東洋の天地に漲り世界共通主義の欧米諸邦は爪牙を逞ふして宇内に馳驅し爲めに生存競争の激甚を來たし優勝劣敗の活劇場を現出しぬ此時に當り我國民が全力を傾注して彼の鋭鋒を迎へ世界の活舞臺に於て平和の戦争に勝敗を決せんとす若し一朝にして敗衂を取らん乎國家の命脈を維持する機關たる經濟社會の運命をして死地に陥らしむるものと謂はざるべからず我が貿易業界の重鎮たる金子君は安政元年十月を以て上野國勢多郡花輪村に生る鈴木宗左衛門氏の長男にして家世々蠶絲業者たり幼時金子五左衛門氏の養子と焉りて其家を嗣ぐ明治八年横濱に出で質商を営みしが幾許ならずして之を生絲貿易商となりて大に海外に向て取引を計畫す爾來事業益々繁盛に赴き以て今日の旺盛を見るに至れり斯道の発展は實に我國運に盛衰に多大の關係を有するものなれば一日も忽諸に附すべからざるものたり是に於て乎君は満腔の熱誠を捧げて盡瘁する所あり明治十三年現住所に居をトし之が拡張に努めつつあり甘九年横濱商業銀行取締役に擧げらる翌年五月横濱火災運送信用保険株式會社の創立委員と爲る其の成立を見るに迨んで之が監査役と爲り卅二年貿易銀行専務取締役に擧げられ同年更に横濱蠶絲外四品取引所の専務理事に推薦せられ卅七年二月橫濱瓦斯株式會社の常務取締役に擧げられたり其他名誉職としては市會議員横濱商業會議所議員等にして尚ほ其他の公共事業に関係する所尠からず殊に貿易業に意を注ぎ大に同業者を鼓舞して自ら其の木鐸となり内外の通商貿易に警戒を加へ斯業の隆盛を断圖したるの功實に大なりと云ふ君は實に我岡貿易業界の指導者と謂つべきなり」京浜実業家名鑑

太田町の金子合名会社「営業課目は蚕糸貿易であって、阿波屋号の金子商店が昨年糸価の大暴落があった九月に上記の如く改称したのである。曰く『まだ漸く一年経ったばかりで是れと云ってお話し申す程のこともなく、雑誌へお書きなさる様な材料はありませんが面倒な荷主はなる可く避けて堅い荷主と取引をする方針を取っていますが年々に荷は増加して行きます、目下は荷主も問屋も警戒しているから相場は堅い方で其内に資金の回収もつき好況になるでせうが、下物が動かないのに閉口します』云々」実業之横浜

橫濱市會議長 金子政吉「市會議長として公平無比の評ある金子政吉君は實業界に於ても謹直穩健信義に篤く、夙に豪商原氏の知る處となりて大に厚遇せらる、家庭に於ける君は顔る圓滿なる良主人公にして數名の令息を愛撫し、長子常太郎氏高等商業學校を卒り、金子合名會社執行社員として本店の事務に當り、次息泰次郎氏又同校出身にして貿易銀行支配人心得たり、君夙に實業界に重望を負び五品取引所理事、貿易銀行專務取締役商業銀行取締役及貿易倉庫橫濱火災保險等の監査役を兼ね令名隆々たり、君は上州氏家の土豪鈴木宇右衛門氏の二男にして安政元年の產、年廿二家翁と共に横濱に來り質商を營み次で蠶絲賣込を爲せしが、廿七歲の時金子家の懇望によりて養子となり、十八年家業を繼承し蠶絲賣込に從事す、廿一年横濱銀貨並株式取引所肝煎となり、二十三年以來市會議員商業會議所議員たる乙と數回、又徴兵參事員水道常設員等の要職に推され、市の公事に貢献さるること鮮少にあらず、市政團に於ける一勢力として市の內外に推重さる、」横浜成功名誉鑑

横浜蠶絲日報

中野屋洋服店 弁天通

中野屋洋服店
洋服店
弁天通4丁目80番地
(344)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

弁天通の中野屋商店「店主は横浜商業学校第一期の卒業生で、明治十八年頃から翁町で出来合の洋服を売っていたのであるが、日清戦争の時に支那人の洋服商が帰国したのに乗じて居留地又は外国船の注文を取って裁縫を始めた。それが動機で商運が次第に発展し二十八年に現在の處へ移転して益々業務の擴張を計った。一般の裁縫の外に異彩を放っているのは婦人服子供服で、令弟岩崎貫三氏が多年海外に於て家庭を為していた経験に基き、容姿に應じて色の配合縞柄の調和をとるのには妙を得ている。殊に嬰児用として發賣するベビーボックスは従来の弊を除いた理想的のもので、下肢の運動を自由ならしめ小児成育上に効果のあるものであって本店独特の製品である。昨春から東京鍛冶町に出張所を設けて顧客の便を計っている。」実業之横浜

洋服裁縫並毛織物商 中野英一郎「辨天通りの中野屋洋服店主中野英一郎君は東京の人幸澄氏の長息なり、夙に橫濱商業學校を出で明治十八年洋服業を開き、廿二年に毛織物輸入業をなし雜貨輸出を開始す、卅八年商業視察の爲め濠洲南阿南北米國歐洲等に渡航し、歸朝後は專ら歐米の長所を擇びて洋服裁縫の術を改革したりしに忽ち紳士間の高評を博し陸續其注文を寄せ來るの繁榮にて、苟も流行界に馳驅するの人にして中野屋號の商標なきは遜色あるの盛况を來せり、啻に流行にのみ止まらず裁斷正確に縫合堅牢、永久に其型躰を頹さゞるは同店の最も得意とする所にして、他店の决して摸倣し能はざる所なりといふ、」横濱成功名誉鑑

中野洋服店 中野英一郎「ミシン機械數臺を据ひ幾多の職工亦孜々業務を勵む各所よりの注文實に矢の如し當主腕利の評判高く且裁縫緻密なりといふ」京浜名家総覧職業

増田屋安部幸兵衛商店 南仲通

present-day impressions of Japan
増田屋 安部幸兵衛商店
砂糖、麦粉、外米貿易商
南仲通3丁目50番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「商号を増田屋と云ひ店主は安部幸兵衛氏なり、本邦糖界の大立物として知られ又獨逸糖輸入の元祖たり、同店は全国に支店を設け、砂糖、小麦粉、外国米、肥料を販売し直輸出入を爲す信用資本兼備せる大商店なり。」現代之横浜

南仲通の阿部商店「一見しただけでは商業を営んでゐるや否やを疑がはしめる程の店附だが、これは家風の質素なるが爲であって、日本の砂糖の大半は増田屋の兄弟店と一手で呑吐してゐるくらゐな商業振りで、外国の粗製砂糖を輸入し又は内地精製砂糖を盛んに取引してゐる、併し得意は東北の方には殆ど皆無といっても宜く、主に静岡、駿、遠、三、濃、尾、伊勢の関西地方であって、進取的な活溌な商ひぶりは、砂糖に蟻の著くが如くに得意を汲集してゐて、少し質素過ぎはせぬかと思はれる程に滋味である。横浜製糖株式会社社長は店主安部幸兵衛氏なのである。」実業之横浜

糖界の重鎮 安部幸兵衛「曩さに時事新報は、五十萬圓以上の資産家を全國に募りしに、其數實に四百四十一の多きに上る、されど仔細に観察せば、財を愛するの人、財を吝むの人、各其面に似て異なれるを覺ふ、吾人は今統計中より特に安部幸兵衛君を擧げ來りて、財界中果して那邊に置く可きかを詳論せむ、君や十歳の妙齢先天的貯金の趣味を自覺し、零砕積んで十四齢に及ぶ比に、能く之を利用して日常自家身邊の用を便ぜしと云ふ、此美徳や教へて成るにあらず、學んで得べきにあらず、天稟の霊光發して君の今日あるを得せしめしなり、非凡なる君は、明治初年横濱開港當時既に新進商店の稱ある榎並屋に入りて大に其才能を磨勵し、明治七年増田嘉兵衛氏とともに本町四丁目に於て砂糖麦粉石油の引取商を營みたり、當時清商の跋扈跳梁は言語に絶し、不當なる看貫料といへる牙錢を貪る慣例なりしを、君奮然として其難局に處し、折衝應接終によく彼をして非を悔ひ暴を愼み、日商亦侮る可からざるを大悟せしめたり、明治十七年增田氏と分離し、新に商店を南仲通三丁目に開き、坪井、鬼頭、靑谷等幾多有爲の店員を督勵し、牢として拔くべからさる一大根柢を造くれり、現在の事業は製糖、製粉及外國米肥料等の輸入にして、本店及綠町製糖所の外、大阪、仙臺、名古屋、新潟、小樽、 臺南、其他の各要地に支店叉は出張所を設けて大に初翼を擴張し、其他滿洲製粉、鹽水港精糖、帝國製粉、日清紡績、盤城セメント、第二銀行等の監査役其他紡績、製糖等各種大會社の重役に推され、且横濱製糖會社常務取締役としては令名隆々として喧傳せらる、明治廿八年横濱商業會議所開設以来其議員となり、現に常務委員たり、又砂糖貿易商組合創立以來の頭取たり、冊六年極東の風雲将に急ならんとするや、報國の時機逸すべからずとして、金一萬圓献納を出願せしに立ろに嘉納せらる、翌年千戈愈交はるに當て種々なる名目の下に合計一萬圓を納付し、猶八十五萬圓の國債に應募せり、此巨額なる後援事業は蠻雨瘴煙の中に叱陀馳驅する戰士の勲績に對して些の軒輊あるなし、鳴呼君や實に身を財界中に置きて能く積み能く散し、眞個に財を愛する人たるを知る、君は職務に服し學問の餘暇なかりしといへども、深く福澤翁の學説に心服し、翁の著書出る毎に一本を購ふて耽讀倦むを知らずといふ、君や一面に於て又活眼活書を読むの人たり、君の家系は越中より出で、弘化四年を以て生る、父長兵衛氏弘化三年江戸小舟町に開店以来三代に當ると云ふ、」横浜成功名誉鑑



神奈川縣案内誌

現代之横濱

鴻池美術店 本町

神奈川縣案内誌
鴻池美術店
貴金屬美術工藝品商
本町3丁目47番地
(1039)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

本町の鴻池美術店「従来経験のある處から明治二十三年に當地へ來り、現在の三丁目へ徒手空拳で開業したのであって、外国人向銀器専門として立ったのである。工場は東京に一ヶ所當地に二ヶ所を有してゐて、東京の工場は鎚起家として有名なる黒川榮勝氏が職工を主宰してゐて、其規模は當地のより大なるものである。開店當時米艦隊員の嗜好に投せし製品を 賈出して発展の第一程をなし、今日の隆盛を見るに至った。日露戦役後内地に銀器の需要が激増して來たが、我横浜などではそれ等の需要を大概東京によって仰ぎ、土地に銀器商のあるのを知らないので、餘計な手数と費用と時間とを費やしてゐたのであるそれを甚だ遺憾として、本邦人向商品の販路を開拓し出して新聞などにも時々廣告をしてゐる。嘗てコンノート殿下が御来遊の折、随行員一同へ宮内省から寄贈された銀製美術品は當店と天賞堂とで用命を受けたのであって、其他内外博覧會からの賞状褒状は店内に扁額となって飾られてゐる。近頃型に入れて模様を現はしそれを合せて廉價に 賈るものがあるが素人眼には鳥渡分らぬが、それでは美術品としての價値がないから、本店では一切然ういふ製品を拵へないで鎚起依り金銀盃及洋盃、銀製茶器一式、花瓶及菓子器類其他美術装飾品を製作してゐる。然うして價格の競争をしないで製品で競争をしてゐるのである。」実業之横浜

「貴金属美術品の製造販売を以て知らる其製品は市内の需要を充たすのみならず近年に至り其名海外に及び注文続々として至り業務を一層拡張せし故市内知名の商店に屈指せらる。」現代之横浜

「美術品の製造販売に従事し然も其金属彫刻は精巧にして其名を海外に馳せ直接注文し来るもの絶えず、現主與吉氏はY校出身の人にして新進の学識を有し横浜の金属製美術品の需要は之を他に仰がず自ら之を供給し尚海外に向って盛んに輸出を為さんとの希望を有し熱心業務の発展と擴張とを図り順次其目的に近きつつあり氏の方針は薄利多売なれど価格の競争よりは品質の競争を為し信用歳と共に高めり。」現代之横浜

貴金屬美術工藝品商 鴻池與吉「本町通の大家櫛比せる間、金銀珠玉の美術工藝品を羅列し人目を眩せしむるものは鴻池美術店である、店主與吉君は嘉永元年江戸に生れ、長く斯業に從事し、普く内外人の信用ありしが、本邦製銀器の外人間に賞翫せらるゝといふに、橫浜市内に其營業者の無きを歎じ、明治廿三年橫浜に店舗を始めた、或日一外人來店して一金器を求め去ったが、須臾くしてり來つて曩の金器を返戻して其の性質が疑はしいと云った、君直に快諾して若し證明するを得ば如何と問ふ、客は勿論買取らうとある、で職に忠なる君は之を大阪造幣局に送りて鑑定の證明證を得て示した、客初めて其熱心に驚き且つ大に信任さるゝに到った、君は目下の銀器は大槪打出機械を用ひた粗惡物の多いを慨し、斯くては本邦美術の骨髓を傷ふものであると、必ず手工彫刻品を精選して裏面に證印を附し欺かざるを誓ひつゝある、由來懸羊賣狗の商工藝家多き中に、君の如き眞摯なる人を見出したは美術界の譽とすべ 所であらう、」横濱成功名誉鑑

murray