震災後の地蔵坂付近と商店

震災後の地蔵坂付近

伊澤兄弟商会
山下町187番地

小原商店
石川仲町4丁目91番地

甲子ビル
山下町82番地

長嶋商店
山下町187番地

斉藤洋傘店

ボストンバー
山下町151番地

田中保次郎商店
松影町1丁目16番地

後藤造花店
元町3丁目121番地

田澤商店
元町3丁目121番地

茨木洋服染洗店
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

市川国松食品商 山下町

市川國松
洋酒類食料品並ニ小間物商
山下町97番地
(854)
市川国松は山下町恤兵会である救護会の発起人で店舗は日露戦争時の横浜奨兵義会恤兵寄付金取扱所をになっていた
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

市川國松 山下町97番地「艱難人を玉にすとは古来幾度か繰り返へされし俚諺なれど余は君の一生に於て其の真理を具體的に認識するを得たるを喜ぶ君は嘉永六年二月静岡縣庵原郡奥衛町に生る父を小衛門氏と云ひ世々農及び商を兼ね營む君は其の五男なり六歳にして父を喪ひ母手に依りて養育せられ不幸不如意の裡に初等教育を了し明治二年横濱に出で元町一丁目に洋品食料及び洋酒店を営める實兄幸兵衛氏を訪づれ入りて同業を見習其の間少なからざる辛酸を嘗めと雖も拮据勉勵惓むことなく畧ば業務の一般に通通暁するを得たりし頃不幸にして兄幸兵衛氏二豎に冒され遂に歸國するの巳む能はざるに至りしかば君は其の後を繼續して益々業務に勉勵し家運愈々隆盛に赴きしが明治八年同市に大火ありて君が亦類焼し莫大の損害を蒙りしが君の勤勉と信用とは直ちに同所に以前の営業を開始するを得せしめたり翌年現所に轉宅して益々業務の繁榮を圖りたりしが同年再び同所に火ありて全焼の災厄に罹りしかば困難又困難殆んど再び起つ能はざるに至らんとせり然れども天は自ら助くる者を助くと勤勉に亞ぐに勤勉を以てし忍耐に亜ぐに忍耐を以てせしかば其の勤勞空しからず三たび同所に一大洋酒店を開業するを得るに至れり茲に於て君は寝食を忘れて業務に盡瘁し刻苦勉勵一身を家運の開發に捧げて数十年來一日も惓むことなかりしかば大に世間の信用を博し店運益々隆盛に赴き今は市内有数の大商家となるに至れり君又嘗て同市南京町に本邦人の籍を置く者僅かに二十七名に過ぎざるを憂ひ町内親睦會なるものを設けて一面町民の交誼を厚ふ傍ら實業の発達に資し廿三年より卅九年まで其の會長を勤め又明治卅五年同市商業會議所議員に撰ばれ今猶其の職に在り」京浜実業家名鑑


貿易新報

AH LONG & CO.洋服店


AH LONG & CO.
洋服店
山下町35番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑





Yokohama and Vicinity

横浜市長公舎 月岡町

横浜市長公舎
月岡町
市長公舎の情報はあまりない
・1906年 新市長公舎新築案可決
・1908年 2月26日、三橋市長、新市長公舎に転居
・1913年 市長公舎修繕費の計上が最後、以後計上無し
・1918年 なくなった市長公舎を新たに建設する建議案が可決された
・1922年 老松町1丁目11番地(職業別電話名簿 東京・横浜 11版)

整理すると
明治40年から震災までには2代の市長公舎が存在していたか
①1907〜13年の市長公舎(月岡町?)
②1919〜23年の市長公舎(老松町)
写真は①の市長公舎か
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

地蔵坂

鈴木順平氏の葬列
日露戦争で戦死した鈴木順平氏の葬列、地蔵坂から西有寺に向かうところ
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「南山戰死の勇士、 齡二十五、 横濱の人、横濱商業學校を卒へて三十三年一年志願兵となり除隊後同市山下町ウヰンクレル商會及ストローム商會に勤務せり、剛毅にして大志あり出征に臨むて決する所あり知己に家族を托して唯だ謂へらく「生還は期せず」と。」日露戦争実記

「君は明治十三年十二月横濱市宮崎町に生れ、老松小學校高等全科卒業、卅三年三月橫濱商業學校全科卒業、卅三年十二月一年志願兵として近衛師圏へ入管 卅四年十二月滿期除隊 同月任軍曹、卅六年三月任少尉、六月敘正八位、卅七年三月豫備役として應召四月一日宇品港出帆、全廿五日韓國南浦へ上陸五月廿七日金州山の激戦に際し敵彈胸部及頭部其他数ヶ所へ命中し爲めに戦死す、墓は相澤西有寺にあり」横浜市民之声

ジャーマンクラブ 山下町

クラブ ゲルマニア
山下町173番地
ドイツ人を中心とする社交クラブとして、文久3年(1863)に横浜居留地161番地に設立された。明治2年(1869)には居留地173番地に新築移転、バーやビリヤードルーム、ボーリングルーム、図書室など設備も備えていた。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


富士瓦斯紡績 保土ヶ谷町

富士瓦斯紡績 保土ヶ谷工場
瓦斯紡績
保土ヶ谷町帷子985番地
明治43年(1910)1月から操業開始した。同年4月2日、県知事他百名を工場に招待し工場案内と午餐会が催された。翌3日(日曜日)も同じように工場見学が催されたのであろう、絵葉書に記念印が押されている。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

富士瓦斯紡績株式會社程ヶ谷工場「我國瓦斯紡績業中第一の大會社として知られたるを富士瓦斯紡績會社とす本社は東京府下大島村に在り先年保土ヶ谷町なる日本絹綿紡績會社を買收して分工場となし大に規模を擴張し男女工一萬餘人を使役し絕えず製造に從事しつつあり、同社は今回又々分工場を川崎町に設く規模保土ヶ谷に讓らざる大工場にして本年中に運轉を開始する 由以て同社の盛運を卜するに足る。」現代之横浜

富士瓦斯紡績株式會社保土ヶ谷工塲 「保土ヶ谷町帷子九百八十五番地に在り明治三十六年に於て絹絲紡績事業を營み來れる日本絹綿紡績會社を買收し事業擴張の方針定まるや技師を歐米に派遣し工費三百萬圓を投じて新工場の建設に着手し明治四十三年竣工す其後數回に涉りて工場を増築し又小山第二工場を移せり敷地六萬坪職工は女工四千五百人男工一千五百人にて精紡機六萬二千四十錘製紡機百三十臺織機二百八十臺全額製產高 一ヶ年約一千萬圓にて絹綿は內地及び歐米印度方面に輸出し紬絲は內地の外歐洲に輸出されペニーは佛英瑞の諸國に珍重され富士絹は濠洲及び英國に輸出す黑姻濛々として龍蛇の天に沖するが如く晝夜を別たす職工は晝夜の兩部に分れて業務に従事し縣下第一の大工場なり特に當會社の特色として職工の爲め衞生設備 幸編增進、慰安會等を組織して幼兒預所哺乳所食堂病院寄宿舍娛樂所學校裁縫購買組合等總て他の模範となるべきものにて工場醫士六人藥劑士一人看護婦十二人あり又社宅二百戶は西谷舊日本絹綿紡績會社工場內に在りて共同沿場慰安所娛樂所內職場等完全の設備を爲せり而して工場長は朝倉每人君次長荒木團藏君技師長後藤正嶷君同次長渡邊幾之助君なり」横浜社会辞彙








横浜市商工案内

西村旅館本店 弁天通

西村旅館
旅館
弁天通6丁目110番地
(1248)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

西村旅館 赤川與左衛門「回漕業を兼ね旅人の便宜を計る有數なる旅宿なり其取扱の丁寧と設備の完全とは兩々相竢て投宿者の多きを占むるの素因ならんか」京浜名家総覧職業


神奈川縣案内


本牧花屋敷 本牧町

本牧花屋敷
本牧町
本牧花屋敷は活動写真館、ミニ動物園、菊花壇を設置した娯楽施設で大正元年(1912)10月に開園、大正3年に海水浴場を開設した
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑




神奈川縣案内誌

星野屋絵葉書店 尾上町

戦前、明治、大正の横浜の尾上町にあった絵葉書屋の星野屋、店頭には絵葉書が飾られている、当時の古写真、古絵葉書より

星野屋絵葉書店
絵葉書屋
尾上町4丁目61番地
星野屋絵葉書店の店主、吉岡長次郎について
明治13年頃(1880)和歌山県有田郡田殿村字田口に吉岡平右衛門の三男として生まれる
                                                  明治14年とする史料もある
明治26年頃(1893)大阪へ出て、呉服店に勤務
明治35年    (1902)呉服店を辞める
明治37年    (1904)尾上町四丁目に星野屋絵葉書店を開業
明治38年    (1905)京浜絵葉書同業組合の設立に参画
大正7年        (1918)羽衣町へ移転
大正12年    (1923)関東大震災により被災、羽衣町復興会などで復興事業に尽力
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

星野屋繪葉書店 吉岡長次郎「成功の基因は機微にあり、吉岡長次郎君明治三十七年横濱に在り、處用を帯びて上京し、某氏の家を訪ひしに、燦絢たる絵葉書の店頭に陳列さるるを見て心大に動き試に數種を購入して横濱に來り居留外人に輾賣せしに、偶然よく的中して頗る賞賛を博し種々の注文を受けたり、往返數回倏ち買へば忽ちに賣り盡くせり君此處に於て断然意を決して一店舗を設く、是れ則ち現住所にして、時は明治三十七年世は日露の平和將に破れて戰雲將に急ならんとするの秋なりき、廣く内地の風景畫コロタイプ板を収集し、主として観光外人に向て發賣し併せて内地人にも供給し、日に月に益々進捗し、終に今日に至りては市内屈指の店舗となり絵葉書といへば直ちに星野屋と答ふるの盛況を呈し、現に各名勝地に支店あり、京濱絵葉書同業組合幹事として名聲あり、君は和歌山縣の人明治十三年の生なり、」横濱成功名誉鑑

吉岡長次郎氏 羽衣町2ノ25番地 コロタイプ印刷業「 氏は和歌山縣有田郡田殿村字田口、平右衛門氏三男として明治十四年一月二日に生る、明治二十六年少年時の氏は志を立てて、大坂に出で、大呉服店に勤務す、十ヶ年の勤績中、實業界雄飛の志を遂げしむべく、あらゆる努力を致して 研鑽の功を積む、其種類の雑多なる事とて、各種の品目に精進するは客易の業にあらず、刻苦精励、遂に明治三十五年に至り獨立營業を開始し得るに至れり、其年某外人の勧めにより横濱に来り、尾上町四ノ六一に店舗を構へ繪葉書商を創め、業界に先鞭をづけたり、大正八年現住所に移りころタイプ印刷に其の特技を発揮なし、輸出カード、レターペーパー等の印刷に於て名あり、大正八年警衛會を廢し羽衣會を設けるに當り大いに力を致し、町内の信望 は加はれり大震災に遭遇せる力は、直ちに羽衣町復興會の組織に協力、同志の人々と共に毎日役割をなして、灰かき、地ならし等をなし天幕を張りバラックの建設に努力する事約十日間に及び、費用は各自の辨づる處となし、愛町の精神に燃へ、復興の完成を急げり、又其バラック修築の集合にあたり、災後幾許もなき時とて筆紙皆無の狀なりしが、僅かに一紙片を拾ひ辛じて記入し得るの狀なりと、氏の公共的心事以て推知するに足る、更に浴場の設置、三社稻荷社の建設の業をなすに興りて力あり、渡邊市長を初め町内其他の方面よりの感謝状に氏の面目躍如たり、國勢調査罹災民人口調査に委員たる外衛生組合副組合長として衛生其他の施設に貢献、現に羽衣町會副會長たり、夫人テイ子氏との間に六人の息女達あり、中學に小學校に家庭に何れも其將來を囑目せらる。」 横浜市誌

絵葉書製造業 星野屋本店 横濱市尾上町四丁目「同店は横濱に店舗を構へ主として外人向絵葉書を製造販賣す。店主吉岡長次郎氏は、和歌山縣の人、明治十四年を以て生る。明治三十七年横濱に出で某外人より外國にては繪葉書の賣行非常なるを聞き内地にては當時繪葉書製造の絶無なるに思ひ當り、或る繪草紙店にて繪葉書大の繪を買求め之を葉書䑓紙に貼付し、試みに之を横濱居留地の外人に示せしに、頗る好評を博し忽ちに多数の注文を受くるに至れり。是れ氏が斯業を始めしの端緒なりしが、今や業務盛大にして、各地に支店を設け、現に同業者の信用厚く、京濱繪葉書同業組合の幹事、同市尾上會組合幹事たり。」帝国現代縦横史

吉岡長次郎君「君は星野屋繪葉書店にて和歌山の人明治十三年を以て生る明治三十七年横濱に来り商用にて上京し其商店方に繪葉書絢爛人目を驚かせるを見て試みに數種の買入を爲し之れを居留地外人に示せるに好評を博し以ての注文を得たるより君の繪葉書店に投ずるの動機となり断然意を決して明治三十七年現所に開店せり内地の風景名勝地は外國観光圏の喜ふ所となり家運の隆盛に赴くと共に各地に支店を設け同業者の信用厚くして京濱繪葉書同業組合の幹事となり益々業務に精励して常に新趣向を凝らし新流行を促し商才測るべからざるものあり斯業界の明星と目せらる」横浜社会辞彙

氏は明治十三年十月二十四日、和歌山縣有田郡田殿村字田口、吉岡平右衛門氏の三男に生れ、同二十六年幼少の身を以て大阪に出て、某大呉服店に忠實に勤務せられて常に主家に愛せられたが、明治三十五年、主家を辭して獨立開業を開始するに當り、某外人の薦めに依り同年九月、横濱に出て、尾上町四丁目六十一番地へ店舗を設け、現営業を創業して専ら輸出入を盛んに開始せられたのであつた、氏は又繪葉書業の益々発展向上を期する爲にめに明治三十八年、同地伊勢佐々木町に在りし、前のトンボヤ店主、前田徳太郎氏及び東京在住の同業有志者四名と共力して京濱絵葉書業組合(組合の沿革参照)を組織せられた事もある、爾来、業務愈々発展して大正七年八月現營業所に移輾し益々同店獨得の製品を出版し、殊にコロタイプ印刷と輸出向カード、レターペーパー等は古くより信用と多大の好評を持つ商店である。氏は資性、常に誠意を以つて事を處理し、質實にして堅實邊幅を飾らず、公共の爲めにも盡力せられて大正七年迄は尾上町衛生組合役員を、大正十二年九月一日突如として起これる関東地方大震災當時には、横濱市は災害殊に甚だしく多数の罹災者を出したが、氏は自店營業所の全壊焼失せるをも省り見ずして此の多くの不幸なる罹災者の爲めに日夜寝食を忘すれ八方町民の爲めに努力せられて、バラックの建設に、救護事業に活躍せられたので横濱市長 より特に表彰せられ且つ其功に依り木盃一組及感謝状二通を下付せられたのであつた。 また、大正七年あり、大正十四年以来、現に今日に至る迄町内衛生副会長の職にあり、尚大正十四年度挙行の国勢調査委員にも推薦せられて居る人望家で有る
古き歴史を持つ同店は大震災後、暫く京都市九條松ノ木町に假營業所を開いて工場の建築と製品の完備を計つて居られたが先般目出度竣成したので京都を引払ひて歸濱せられた、此際を期し一層の努力奮闘を以つて益々、より良き製品の出版に全力を盡して居るのである。 特に名勝繪葉書の引受け印刷には長年の経験と完全なる同社工場に於て製作せられて居るのであつて期日の正確と製品の優良なる點に於ては他に類なきものとして高評を博して居る。絵画絵葉書類品附属品美術印刷製品仕入大観

妙法寺 屏風浦村

大正時代の武州横浜杉田の妙法寺の梅、古絵葉書、古写真
妙法寺
屏風浦村杉田
妙法寺境内には樹齢300年以上の枝垂梅があり「珠簾梅」と呼ばれていたが、明治17年(1884)3月19日に英照皇太后・昭憲皇太后が観梅に訪れた際、元の名前「照水梅」に改名した。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

横浜港より出征する馬

日露戦争に出征する馬
日露戦争のために横浜港から出征させられる馬
日露戦争において兵站、機動力を支えるため多くの馬が動員された
戦闘、疾病、過労などにより亡くなった馬は約38,050頭と記録されている
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

ホテル・ド・パリ 山下町

明治時代の横浜の古写真、ホテル・ド・パリ
ホテル・ド・パリ
ホテル
山下町179番地
薩摩町通り、ホテル・ド・パリ前で列をなす日露戦争に出征する兵士たち
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

蒔田町

大正時代の横浜、蒔田の古写真
蒔田町
写真裏面に「蒔田」の記述
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑