G.R.グレッグ商会 山下町

G.R.GREGG & CO.,Limited
絹織物・麻織物等取扱商社
山下町264番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

松川屋薪炭店 翁町

松川商店 田澤道安
薪炭店
翁町1丁目5番地
(1330)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

松川屋石炭薪炭店 田澤道安「田澤家は横濱の旧家にして元町に住せり、 先代田澤氏開港當時現業者少なきを憂い、 南仲通一丁目に石灰商を始め、市草創の際頗る繁榮せしかば、次で更に薪炭商兼營し、爾来市の發達と共に需要増大し、莫大の利を得て松川屋の名喧傅するに至る、現主は武州川越町渡邊喜翁氏の三男にして嘉永二年の生れ、十二歳東京に出で商家の厮養となり、辛酸十年、後明治元年横濱に来り田澤氏の養嗣子となれり孝養と精勵とを以て聞こえたりしが、往年家督を相続するや、 現所に支店を開きて一層業務の擴張を図り後本店を現所に移す、君また公共の事に盡す所尠なからず、戦時其の功により、金銀木杯、賞狀、感謝狀等を賜はる事数回、薪炭商組合長に推され義勇艦隊地方委員、赤十字社員等を兼ぬ」横濱成功名誉鑑

田澤道安「崎嘔催鬼たる行路の難鯨波澎湃たる航海の険は山に非ず水に非ず唯是れ人生世に處するの間にあるのみ故に其の難を凌ぎ険を冒して初めて目的を達するを得即ち田澤道安君の生涯は是れを證明してり餘りあり君年甫めて十二出で東京浅草區西仲町の鈴木定兵衛氏方の店丁となり精勤すること十ケ年其の間君は如何に辛酸痛苦悲哀の日月を経過したりしかされど名剣利刀を得んとすれば百錬を経ざるべからず既にして明治元年九月を以て横濱に出で元町の田澤又右衛門氏の養嗣となる養家は元農を以て業とせしが開港當時より薪炭石灰蠣灰等の販売を営む君此處に至って堅忍不抜の忍耐力と着實周到の意と彗敏迅速の商略とを以て孜々営々として一日の安を貪らず一刻の閑を荀もせず 其功果今日の如き繁榮旺昌を来したるは即ち勤勞に酬ひられたる當然の褒賞ならずや現今にありては販路の廣き信用の厚きを以て市中に鳴るに至れり資性慈愛の心深く公共の念んにして之れ等の事業に関しては屢々財貨を吝まず施捨寄附せること尠からず君の意に叶はざるは後継者の未定に して令息及び令孫に世を早うせられたるにあり然も善因あるものは善果ありの積善の家には餘慶ありと将来必ず好個の承継人の出づるや必せり君は嘉永二年九月十日を以て埼玉入間郡川越町に生る實父を渡邊喜翁と云ひ君は其の三子なり家は代々水車業にして幼名を道三郎と呼びしも後道安と改む幼にして穎敏聦悟機敏捷慧一を聞いて十を知るの明ありき要するに君が今日の地位に至りしは勤儉行刻苦奮励の餘に出で粒々辛苦の汗を絞りて一朝一夕の荀安貪らざりしが故にして彼の徒に優遊逸楽して空理空想に一生を経過する徒輩に好個の龜鑑を垂れしものと謂ふべし」京浜実業家名鑑

白木屋酒問屋 中村町

白木屋白石作造商店
酒類問屋
中村町1341番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

兩國橋印一手捌 白石作造「『終夜浮舟傾數杯』と賛辭を題せる芳醇無比の純良銘酒兩國橋印は灘御影なる若林氏の釀造にして中村町白木屋にて一手販賣せらる、店主白石作造君は嘉永六年埼玉縣粕壁町に生る、明治四年橫浜に來り、當時は微々たる小賣酒屋なりしが、熱心と勉強には敵するものなく、漸次に膨脹して市内六ヶ所の要樞に支店を設置し、儼然たる直受問屋となり、『白作』の名は遠近に轟ろき、三百餘戶の貸屋を所有し、中村方面に於ける重鎮たり、現に商業會議所議員として令名あり、」横濱成功名誉鑑

神奈川縣案内誌

渡辺文七蚕糸貿易商店 弁天通

渡邊文七商店
蠶絲貿易商
弁天通2丁目38番地
(257)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

旭日の勢ある蠶絲貿易商 渡邊文七「生絲貿易界に於ける丸文商店の名は橫濱政界に於ける渡邊文七君の名の如く、少壯氣銳、前途あり未來の好望あり、嶄然頭角を拔さて旭日冲天的の慨あるなり、先代文七君夙に横濱に出でゝ蠶絲貿易の業に從事し𨪙々たる名聲早く旣に今日の萠芽を作れり、現主文七君は山梨縣南都留郡の人、小林米太郎氏の令弟にして明治四年八月を以て生れ、十三年七月前代の養子となり卅九年六月續督襲名す、君幼名は金太郎颯々爽々の資あり、蠶絲屑物貿易商及生絲仲買商として隆々たる進運同業に拔んず、 横濱市參事會員橫濱商業會議所常務委員として公事に竭し、横濱取引所、關東煉瓦、帝國肥料、 横濱生命保險、 横濱電氣鐵道等の諸會社に重役たり、實業社會の信望又極めて厚し、」横浜成功名誉鑑

丸文商店「屈指の蠶絲貿易商なり店主渡邊文七君商機に敏にして營業に熱心なり彼の折返絲の改良は君が獨力に成る其信用頗る厚く業務歳と共に伸展せり又傍ら横浜取引所仲買人として有數なるものなり。」現代之横浜

横浜商品日報

實業之横濱

解析 NECTARINE No.9 神風楼

車夫の法被には神風楼の文字、横浜遊廓の神風楼前の写真である

これと似たような玄関前の写真があるので下に掲載した

2つの写真を並べると緑の葉っぱの柱は緑門であることがわかる
開店を記念しての緑門設置、記念撮影だろう
では、いつの時代(どこの場所)の神風楼か
玄関の意匠、漆喰の白壁が特徴の神奈川七軒町の西洋館、
時代は神奈川七軒町遊郭開業の頃、明治17年前後であろうか
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

解析 NECTARINE No.9 神風楼

NECTARINE、No.9の看板、
いわずとしれた横浜遊廓の神風楼である

横浜遊郭は何度か移転をしている、
神風楼も同様に高島町、神奈川、長者町、真金・永楽町など市内で居場所を変えたのだが
さあ、この写真の神風楼はいつの時代(どこの場所)なのか

↓永楽町の神風楼

永楽町神風楼の入口
入口は暗くて見えない、
庇があるため、暗くて上のような写真は撮れないだろう
また、窓の形状も異なる
永楽町では無さそうだ


↓神奈川の神風楼

神奈川 神風楼(西洋館)の入口
扉は同じようにも見えるが
手前の柱の形状が異なるし、窓も異なる
神奈川神風楼でもなさそうだ


↓高島町の神風楼
特徴的な入口
高島町神風楼も合致しない

永楽町、神奈川、高島町といずれも合致しないが
さあどこでしょう
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

ファルサーリ写真商会 山下町

ファルサーリ商会
写真館
山下町32番
看板にわずかに見えるFarの文字、アドルフォ・ファルサーリの写真館であろう
明治16年(1883)サージェントファルサーリを設立、明治18年(1885)にファルサーリ商会に改称した
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


Yokohama and Vicinity

FAJIYAMA絵葉書商会 山下町

FUJIYAMA商会
絵葉書店
山下町34番地
横浜開港資料館編「100年前の横浜・神奈川」ではファルサーリ商会としているが、FUJIYAMA商会の誤り
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

改築前の吉田橋

改築前の鉄の橋、吉田橋
解体のための足場が組まれた鉄の橋最後の姿
明治44年、鉄の橋は交通量の増加、老朽化もありコンクリート橋へ架け替えられる
関内側から伊勢佐木町方面を望んだ景色、正面の建物は伊勢佐木町警察署
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

高橋唐物店 賑町


高橋半七
唐物古着
賑町1丁目2番地
伊勢佐木町通り、右手前が唐物古着の高橋半七商店、隣に賑座、賑座の向かいが喜楽座
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

弥八ヶ谷戸

弥八ヶ谷戸
吉田新田の埋立と根岸を結ぶ舟運のために堀割川が造られた
その最大の難所がこの弥八ヶ谷戸の切り下げ工事だった
さて、この写真は根岸側から撮ったものなのか、中村川から撮ったものなのか
根岸側からの説があるが、川の曲がりや川面に映る影を見ると中村川側からのようにも感じる
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

震災後の地蔵坂付近と商店

震災後の地蔵坂付近

伊澤兄弟商会
山下町187番地

小原商店
石川仲町4丁目91番地

甲子ビル
山下町82番地

長嶋商店
山下町187番地

斉藤洋傘店

ボストンバー
山下町151番地

田中保次郎商店
松影町1丁目16番地

後藤造花店
元町3丁目121番地

田澤商店
元町3丁目121番地

茨木洋服染洗店
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

市川国松食品商 山下町

市川國松
洋酒類食料品並ニ小間物商
山下町97番地
(854)
市川国松は山下町恤兵会である救護会の発起人で店舗は日露戦争時の横浜奨兵義会恤兵寄付金取扱所をになっていた
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

市川國松 山下町97番地「艱難人を玉にすとは古来幾度か繰り返へされし俚諺なれど余は君の一生に於て其の真理を具體的に認識するを得たるを喜ぶ君は嘉永六年二月静岡縣庵原郡奥衛町に生る父を小衛門氏と云ひ世々農及び商を兼ね營む君は其の五男なり六歳にして父を喪ひ母手に依りて養育せられ不幸不如意の裡に初等教育を了し明治二年横濱に出で元町一丁目に洋品食料及び洋酒店を営める實兄幸兵衛氏を訪づれ入りて同業を見習其の間少なからざる辛酸を嘗めと雖も拮据勉勵惓むことなく畧ば業務の一般に通通暁するを得たりし頃不幸にして兄幸兵衛氏二豎に冒され遂に歸國するの巳む能はざるに至りしかば君は其の後を繼續して益々業務に勉勵し家運愈々隆盛に赴きしが明治八年同市に大火ありて君が亦類焼し莫大の損害を蒙りしが君の勤勉と信用とは直ちに同所に以前の営業を開始するを得せしめたり翌年現所に轉宅して益々業務の繁榮を圖りたりしが同年再び同所に火ありて全焼の災厄に罹りしかば困難又困難殆んど再び起つ能はざるに至らんとせり然れども天は自ら助くる者を助くと勤勉に亞ぐに勤勉を以てし忍耐に亜ぐに忍耐を以てせしかば其の勤勞空しからず三たび同所に一大洋酒店を開業するを得るに至れり茲に於て君は寝食を忘れて業務に盡瘁し刻苦勉勵一身を家運の開發に捧げて数十年來一日も惓むことなかりしかば大に世間の信用を博し店運益々隆盛に赴き今は市内有数の大商家となるに至れり君又嘗て同市南京町に本邦人の籍を置く者僅かに二十七名に過ぎざるを憂ひ町内親睦會なるものを設けて一面町民の交誼を厚ふ傍ら實業の発達に資し廿三年より卅九年まで其の會長を勤め又明治卅五年同市商業會議所議員に撰ばれ今猶其の職に在り」京浜実業家名鑑


貿易新報

AH LONG & CO.洋服店


AH LONG & CO.
洋服店
山下町35番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑





Yokohama and Vicinity

横浜市長公舎 月岡町

横浜市長公舎
月岡町
市長公舎の情報はあまりない
・1906年 新市長公舎新築案可決
・1908年 2月26日、三橋市長、新市長公舎に転居
・1913年 市長公舎修繕費の計上が最後、以後計上無し
・1918年 なくなった市長公舎を新たに建設する建議案が可決された
・1922年 老松町1丁目11番地(職業別電話名簿 東京・横浜 11版)

整理すると
明治40年から震災までには2代の市長公舎が存在していたか
①1907〜13年の市長公舎(月岡町?)
②1919〜23年の市長公舎(老松町)
写真は①の市長公舎か
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

地蔵坂

鈴木順平氏の葬列
日露戦争で戦死した鈴木順平氏の葬列、地蔵坂から西有寺に向かうところ
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「南山戰死の勇士、 齡二十五、 横濱の人、横濱商業學校を卒へて三十三年一年志願兵となり除隊後同市山下町ウヰンクレル商會及ストローム商會に勤務せり、剛毅にして大志あり出征に臨むて決する所あり知己に家族を托して唯だ謂へらく「生還は期せず」と。」日露戦争実記

「君は明治十三年十二月横濱市宮崎町に生れ、老松小學校高等全科卒業、卅三年三月橫濱商業學校全科卒業、卅三年十二月一年志願兵として近衛師圏へ入管 卅四年十二月滿期除隊 同月任軍曹、卅六年三月任少尉、六月敘正八位、卅七年三月豫備役として應召四月一日宇品港出帆、全廿五日韓國南浦へ上陸五月廿七日金州山の激戦に際し敵彈胸部及頭部其他数ヶ所へ命中し爲めに戦死す、墓は相澤西有寺にあり」横浜市民之声

ジャーマンクラブ 山下町

クラブ ゲルマニア
山下町173番地
ドイツ人を中心とする社交クラブとして、文久3年(1863)に横浜居留地161番地に設立された。明治2年(1869)には居留地173番地に新築移転、バーやビリヤードルーム、ボーリングルーム、図書室など設備も備えていた。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑