井上定吉蚕糸貿易商店 本町

シルク
井上定吉商店
蠶絲貿易商
南仲通3丁目52番地→本町1丁目11番地
(1576)
井上定吉は明治3年11月21日に高座郡大澤村の醤油醸造家、井上喜右衛門の次男として生まれた。明治26年に横浜へ出て小島商店に入店し、明治33年からは森田商店に勤務した。その後、明治39年に南仲通で蚕糸貿易商「井上定吉商店」として開業して独立し、事業を大きく発展させて成功を収めた
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


蠶絲貿易商 井上定吉「君は高座郡大澤村大島の人、同苗喜右衛門氏の二男なり (明治三年生)、明治二十六年七月橫濱に來り、南仲通小島商店の店員となり蠶絲貿易に從事し、夙にに敏腕の名聲を博す、店主の信頼頗る大なりしが、廿七年店主病歿後幼主を補助し賣方主任として八年間よく店務を處理して家名を墜さしめず、明治三十三年に至り年限滿ちたるにより同店を辭し、更らに本町三丁目森田浪吉氏の店に轉ず、勤續六ヶ年三十八年十二月再び店主の病歿に遭へり、君茲に於て獨立南仲通に店舗を開きしは實に三十九年三月廿七日の事なり、君賦性頗る人情に厚く、前主小島氏の舊誼を感じ、主從僅々一年餘なりしも遺業を守る殆んど十年、今に小島會なるものを組織して追薦哀悼具に到ると云ふ、澆季の世絶て無くして稀に見るの人たるべし、」横濱成功名誉鑑

「井上定吉君 君は縣下高座郡大澤村大島幸左衛門氏の二男にて明治三年十一月を以て生る。明治二十六年横濱に来り小島商店に入り生絲賣込業に従事する數年勤勉忠實を以て聞ゆ。三十二年同店を退き本町三丁目森田浪吉氏の生絲店に入りしが三十九年四月獨立して蠶絲貿易商を開業し專ら生絲の賣込業を營めり。君の着實温厚は強く地方荷主の信頼を買ひ新進の店舗にはあれど業務非常に盛盛を示せり。君夫人シゲ子との間に一男二女あり。息元一君は横濱第二中學校に通學し、長女タマ子は本年横濱實科高等女學校を卒業し目下家事を修養しつゝあり。君は又義太夫に趣味を有し造詣深し」横浜社会辞彙

「井上定吉氏 本町一ノ九番地 蠶絲貿易商 明治三年十一月二十一日高座郡大澤村に於て醤油醸造家井上喜衛門氏の次男として生る。幼少より俊英人に異なる所あり小學を終るや奥津の耕余義塾に入り主として英語數學及漢學を學び他年貿易商として大成せる素地は夙く此處に作られたり。明治二十六年蠶絲貿易商たらんと志し横濱に出で小島商店に入り居る八年更に森田商店に轉じ精勤六年前後相通して十四ヶ年の歲月を豫備知識の練習に費せり氏が如何に事に當て用意の周到なるかを伺ふに足るなるべし。諸般の準備は調へり商機の秘鍵は自得せり明治三十九年春四月宿昔の志此に成り井上定吉商店として獨立の旗を掲げたり直ちに蠶絲同業組合に入り後更に横濱取引所員たり此に堂々一個の貿易家たる門戸を得たり。爾後天賦の英邁と不断の努力は漸次社會の認識を得て今や斯業の重鎮と仰がれ現に横濱商工會員横濱取引所議員大日本蠶絲會神奈川支部商議員蠶絲同業組合評議員蠶絲業中央會評議員横濱裁判所商事調停委員本町衛生組合長等凡ゆる機關團體の要職に在り又以て聲望の如何に隆々たるかを寸度するに足る夫人しげ子氏中郡旭山端山家の出なり嫡德完備の良夫人なり。長子元一君横濱第一中出身にして山口高等商業學校を卒へ父君の業を補翼し長女たま子君已に嫁し次女さだ子君家にあり母堂の家政を助く。宗教は佛教にして趣味は義太夫にあり喜清と號し勘能の評定まる。横浜市誌

薫風堂印房 賑町

明治後期の横浜伊勢佐木町通り、賑町の古写真、古絵葉書
薫風堂印房
印章
賑町1丁目
明治41年9月の創業、店主は小林薫風
伊勢佐木町通りを賑町から松ヶ枝町・伊勢佐木町方面を望む風景で、通り左の塔は喜楽座、右の三角屋根は賑座である。喜楽座、賑座ともに大正の改築前なので明治の撮影だろう
隣に絵葉書屋があるが看板の文字は不明である
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


横浜Q この建物は何の施設?

明治時代の横浜の古写真・絵葉書
この建物は、かつて横浜に存在した施設です
いったい何の施設でしょうか?
商業施設でしょうか。それとも、娯楽や文化、公共のための施設でしょうか
正解された方には、当サイトに掲載している目録を差し上げます
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

金丸銃砲店 本町

明治時代創業の金丸銃砲店の古絵葉書、古写真
金丸銃砲店
銃砲
本町2丁目21番地
(155)
明治22年(1889)7月、金丸謙次郎が創立した銃砲店、欧米から護身銃や猟銃を直輸入する他、自社で製造した単身猟銃も販売していた。また、郵便販売法を導入して全国へ販路を広げ、月刊機関誌『銃猟界』を刊行するなど、先進的な販売戦略を展開していた。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

金丸謙次郎「金丸銃砲店の名全國に普着物は其廣告に依るよりも其種類の豊裕工作の巧緻販賣方の便利なるにアラン本舗は全國銃砲店の覇たるものたり」京浜名家総覧職業

日本第一の銃砲商 金丸銃砲店「明治廿二年七月故金九議次郎氏によりて創立せらる、我國に於ける銃砲火薬輸入及製造販賣の老舗にして、文明の制度を利用し、郵便販資法を開始して需要者の便利を圖りしかば、如何なる山間避地も金丸銃砲店の名を知らざるものなし、明治三十九年一月組織を變更して合資會社とし、西村喜作君を代表証員とし西村潤藏君を営業主任と定む、外國製品は歐米五十餘個の大會社と特約を結び、護身銃及猟銃を輸入し、自店工場部製造に係る新式單身猟銃は精巧完美にして堅牢を主とし夙に好猟家の信用を博し其需用益々多きを加ふ、銃砲類並に附嘱品一切に關する精細なる設明書及び機關雑誌として月刊銃猟界を刊行す、愛猟家の必読すべきものなり、」横浜成功名誉鑑

「鉄砲火薬販売業者として横浜唯一の商店たると共に其名又銃猟界に洽ねく販路全国に及べり今は組織を合資会社となし営業益々伸揮し信用ある一商店たり。」


金丸銃砲店は明治22年(1889)、金丸謙次郎が創立した、欧米から護身銃や猟銃を直輸入する他、自社で製造した単身猟銃も販売していた。また、郵便販売法を導入して全国へ販路を広げ、月刊機関誌『銃猟界』を刊行するなど、先進的な販売戦略を展開していた



神奈川縣案内

神奈川縣案内誌

川和の菊 虎渓園

川和の菊の名所、中山良材の虎渓園の手彩色絵葉書
川和の菊 虎渓園
川和
中山良材の虎渓園、中山恒三郎の松林圃とともに川和の菊の名所として知られていた
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


代官坂

代官坂、元町1・2丁目から山手へ通じる坂、かつて箕輪坂(三ノ輪坂)と呼ばれていたが、坂の途中にある横浜村名主石川徳右衛門の邸宅が代官屋敷の通称で親しまれたことから、次第に代官坂が定着していった
代官坂
元町1・2丁目から山手へ通じる坂は、かつて箕輪坂(三ノ輪坂)と呼ばれていたが、坂の途中にある横浜村名主石川徳右衛門の邸宅が代官屋敷の通称で親しまれたことから、次第に代官坂が定着する
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

祇園舟神事 富岡

武州富岡海祭漁舟競争
富岡
富岡八幡宮の祇園舟神事か
青茅で編んだ茅舟を沖合まで運んで流したのち、二艘の船が全速力で速さを競い合う八百年以上の伝統を誇る夏の神事で横浜市指定無形民俗文化財第一号に指定されている
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

本牧花屋敷 本牧町

本牧花屋敷
本牧町
本牧花屋敷は活動写真館、ミニ動物園、菊花壇を設置した娯楽施設で大正元年(1912)10月に開園、大正3年に海水浴場を開設した
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑





神奈川縣案内誌

解析 高島町神風楼

高島町神風楼の写真
左側が入口だが、NECTARINEの看板はまだ架かっていない
さて、この建物は神風楼内のどこにあるのか
三階建の建物とは別の建物か、道を挟んだ向かいか、増築前なのか
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

安藤勇五郎 西戸部町

安藤勇五郎
金魚商
西戸部町71番地
明治44年10月17日、横浜愛魚会における第六回横浜金魚会が西戸部町蓮池金魚屋方に於て開催された
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

酒井屋洋傘店 常盤町


酒井屋
洋傘雑貨
常盤町4丁目69番地
(933)
明治4年に福富町で創業し、明治20年に常盤町の馬車道通りへ移転した業界の老舗。相生町の田邊民吉をはじめ多くの人材を輩出したほか、中国やインド等への海外輸出を展開した。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


酒井あさ「洋傘店の老舗なり意匠を凝らしたる新形の品種續々入荷し市内に聲價を博し一般需求者には便利と確實を標榜しつゝあり」京浜名家総覧職業

「物故された榮八氏は元来甲州の甲斐絹商人であったのであるが、當地へ取引をしてゐる中に洋傘の将来に望みを屬し、商業のかたわら洋傘製造の研究に著手し、大に得る處があったので、明治四年に福富町一丁目の其頃在ったおつや稻荷の前へ開店したのであったが、一般の需要もさして無く随って商業も微々たるものであった。併し氏は不撓不屈の誠心を以て製造販賣の 擴張を計った。處が巖丈で實用向きであるから世人の意に叶ひ、非常な賣行を見るやうになったので規模狭少な處から、明治廿年に現今の常盤町四丁目の馬車道通へ移輾したのである。其當時市内に洋傘を製造販賣してゐた店は太田町の伊勢勘、長者町の楠見と當店の三軒であったので、後進ながら伊勢勘と竝び 稱されてゐたので、十五年以前から未だ世人の著手せざる洋傘の輸出を計り支那印度方面へ販賣し大に効果を収め爾來益々盛大になったのである。洋傘及洋杖は當店獨特な製造法によるので、居留外人の顧客も尠なからず又本町の椎野商店で取った外人の注文も受けてゐる。相生町の田辺、姿見町の神保、野毛町の酒井屋、白木屋の下職等は皆當店から出た者で、依って以て如何に其の製造法の巧妙にして有爲なる人を置いてあるかが解るのである。賣品は正札附を實行し無代で破損の個所は修繕するのであって、一昨年甲府に於て開催された一府九縣聯合共進會に出品して賞状を受領し、先年當市永住町で開かれた關東實業大會に出品して好評を博した。」実業之横浜

三井物産横浜支店 山下町

三井物産横浜支店
総合商社
山下町177番
明治44年(1911)に竣工した旧三井物産横浜支店は、鉄筋コンクリートで構築した日本初の本格的なオフィスビルで、日本の都市建築が近代化へ向かう決定的な足駆けとなった、設計を手掛けたのは遠藤於菟
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


「三井家の経営する所にして直輸出入貿易を為すの目的を以て設立せるものなり資本金貳千萬円積立金千貳百萬円あり自ら船舶を所有して貨物の運搬を行ひ全世界至る所支店又は代理店あらざるなく従って取引の盛んにして信用の厚き我国海外貿易業者中同社の右に出づるものなし横浜支店は直輸入の外主として生絲、羽二重其他絹物の直輸出を為し就中生絲の如き外国商館の遠く及ばざる所にして斯界に於ける大手筋として相場を左右するの勢力を有せり支店長北村七郎氏は在任長く実業界に重んぜらる。」

三井物産株式會社 橫濱支店 本町4丁目69番地「當會社の起因は遠く明治九年の頃にあり、當時我國の貿易は實に外國人の掌中に屬し本邦人の容喙を許さず、三井家は深く之を憤慨し、其一族三井武之助三井養之助二氏を社主として三井物産會社の名目の下に海外貿易を企畵せられたり、當時益田孝氏社長に木村正幹氏副社長に任ぜられしが、廿五年四月社主養之助氏益田氏に代り、廿六年商法の一部實施と共に合名會社の組織として三井物産合名會社と改稱す、翌廿七年十月同族中より三井元之助氏を業務擔當社員とし、越へて三十一年十一月に至り再び改革して三井十一家主人を盡く無限責任社員として依然元之助氏社長たりしが、卅四年三井八郎次郎氏新に代表社員長となれり、四十二年組織を變更して株式會社とし同氏社長に推さる、橫濱支店は創設同時より置かれ、生絲輸出を主とし輸出入品一切を手廣く取扱へり、現支店長は北村七郎君にして良支配人の稱あり、」横濱成功名誉鑑


シルク

神奈川縣案内誌

河野美術商店 本町

河野美術商店
七宝器販売
本町2丁目37番地
(1807)
河野美術商店(河野七寶器店)の店主、河野由太郎は粗製濫造により信頼を失い、輸出が途絶えかけた七宝焼の現状を憂い、横浜における七宝焼の鼻祖・後藤省三郎と協力し、原料供給や意匠の考案、販路拡大に奔走した。彼の指導下、無線七宝や写実的な風景・花鳥などの精密な製品を生み出し、再び振興させるに至った
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


七寳器中興の功勞者 河野由太郎「陶磁器漆器と共に海外に輸出して東洋美術の聲價を揚げたる七賓燒は、端なくも明治十四五年の交一大打擊を蒙りたり、他なし日本工藝品の通患なる粗製濫造に基因せり、是時に於ける東京、尾州、京都等の産地に於ける凶荒は筆紙に盡し難きものなりき河野由太郎君は東京々橋の人傳藏氏の長男なり、父祖世襲の銅器商を繼承して營業し來りしが、我重要なる輸出品の販路杜絶せんとするを見て奮然之れが恢復の任に當らんと決心し、橫浜に來りて故後藤省三郎氏と謀りて、或は原料を供給し或は意匠を考案し、百方救濟の術を講ぜしかば、明治十八年に至り後藤氏は獨得の製品を發明し、新に購買者を挽回せんとする機會に接せり、君は此に於て曩きに原料を供給せし一人なる某氏の店舗を讓り受け、製造家より精選せる品を集めて全力販路の擴張に奔走せしかば、明治十九年に至り再び商務を振興し來りたるより、更らに現在の店舗に移轉し益々事業の發展を謀れり、製造家も一意專心製品に注意したるにより、未だ甞て見るを得ざる無線物風景花鳥の精緻殆んど描寫と髣髴する品等續々出で來りて從前にも倍する盛况を來すに至れり、されば販賣者及製造家は悲酸なる境遇を脱却したるを紀念せんが爲め、各自醵集して紀念碑を尾張海東郡七寳村字東島に建て、君も亦功勞者の最なるものとして其姓名を列せらるゝに至れり、君恬淡の性曾て虚名を國內に求むるを欲せず、單に商品を海外に擴めて君國の利福を進むるを以て天職とす、商海稀に見るの篤志者と謂ふべきなり、」横濱成功名誉鑑

神奈川縣案内誌

Yokohama and Vicinity

柳屋平林果実園 野毛町

柳屋平林
果物問屋
野毛町1丁目8番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


神奈川縣案内誌

武相貯蓄銀行川和支店

武相貯蓄銀行川和支店
銀行
都田村川和964番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

有田屋庄村陶器商店 相生町

有田屋 庄村藤吉
陶器商
相生町1丁目16番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

コンノート殿下来日 横浜停車場

英国コンノート殿下来日
明治39年(1906)2月19日、イギリスのコンノート公アーサー王子(コノート殿下)が明治天皇に「ガーター勲章」を奉呈するために来日した、横浜停車場前
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

英国東洋艦隊来航 横浜港

英国東洋艦隊の来航
横浜港
1905年10月11日、第2回日英同盟協約を記念してノエル提督に率いられた英国東洋艦隊12隻が横浜に到着した。巡洋艦アラクリティ号は後日遅れて神戸から入港した。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑