大和屋シャツ 弁天通

横浜社会辞彙
大和屋シャツ
シャツ製造販売
弁天通1丁目6番地(183)
明治の横浜写真手彩色絵葉書

大和屋シャツの本舗 石川右衛門「洋服着用の人士にして大和屋シャツを知らざるはなし啻に本邦人のみならず、海外諸國にまで名聲を博するに到りし成功の徑路は、確かに立志傳中に光彩を添ゆるを覺ふ、先代石川淸右衛門氏は武州川崎在の人、安政年間橫浜に來り雜貨の取引を營みしが、明治九年に到り洋服用カラ、カフス等を製造し、外人に示めせしに稍見込ありたるにより、益々工夫を凝して製出せり、蓋し本邦製の嚆矢なるべし、明治十年西南役後、巡査制服用舶來丸カラと稱して小間物商の賣出せしものは概ね大和製なりしといふ、然れど 外人向は裁縫の未熟と材料の劣等なりし爲め、製品停滞して非常の苦况に沈淪せり、君更らに屈する色なく、益々精力を皷舞し職工を撰擇し、明治十四年に至り實弟齋藤金太郎氏を歐米に派遣し實况を視察せしめき、此行多大の利益を收め、必要なる機械其他のものを購入し歸ヘりたれば、君の考案と共に参酌して益々改良を企畵せしが、明治十七年末より翌年にかけ、米國製護謨カラの輸入は强大なる勢力を以て大和屋シャツを壓倒し去らんとす、漸く新式の曙光を認めし際に當り、此の强敵に當り止むを得ず一時中止の不幸を見んとするに至りしが、世人は護謨製品の躰裁高尚ならざるを認めたるより、流行界は一變すべき傾向を示せり、比機を失せず木綿縮の夏シャツ襟飾付を新案して賣出せしに、頓に商勢を挽回し製品は譬缺乏を告げんとするの盛況を呈し、内地の需要は勿論海外に輸出するに至れり、明治廿九年神戸元町に支店を置き、次で東京及上海にも出張店を增設し益々盛况を呈し、今や斯業界の覇王を以て目さる、現主人は中山太郎左衛門氏の二男にして、幼名文次郎氏といふ十三歳にして大和屋に奉公し、忠實にして意志頗る堅固なり、明治六年橫濱大火に類焼し主家の商務振はず、奮励大に勉め、大に先代の信賴を得、廿一歳養嗣子となりて令嬢と婚し襲名さる、」横浜成功名誉鑑

神奈川縣案内誌

murray

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