相模屋呉服店
呉服店
寿町1丁目57番地(1395)
横浜の四大呉服店のひとつ。木造2階建店舗は明治41年(1908)竣工、隣の煉瓦造りの西洋館は明治42年(1909)に竣工した
明治の横浜手彩色写真絵葉書
相模屋 石坂竹次郎「嶄新にして優美奇抜にして高尚なるは品種山積して市内に眷顧頗る多く店舗常に丸髷の老嶋田の影絶へざるの盛況なりと」京浜名家総覧職業
「横浜市内四大呉服店の一と称せらる店主石坂竹次郎氏は商機に敏にして奮闘以て今日に至る、同店は信用を緯とし廉価を経とし能く流行に応じ人気に投ず依て以て顧客蝟集し歳と共に発展の域に進む近来更に営業場を増築し品種を多くして益々顧客を迎ふに努め一層の飛躍を期しつゝあり。」現代之横浜
「東京の三越、白木屋等の一流の呉服店が、呉服類附属品を販売して顧客に便利を與へるといふ立場から洋傘等をも売始めているが、三越は三越独特の下職を有し、白木屋は白木屋化していたものを販売し、三越の如き缼員のある時は横浜から腕の好い職工を引抜いて行く位いで、各々自店の銘を付け責任を明にしているから其趣意が了解される。然るに天晴気が利いた目算で当店が其亜流を汲み此頃洋傘を並べ出したが、其意と実の伴なはぬものである。当店は自家で製造するのではなく仕入先は東京で何人の製造になったものだか分らないものをー云ひ替減れば銘の無い無責任物を売っているので、当地の如く海内有名なる洋傘製造家がいる處で好くも這那莫迦気たことが出来たものである。破損したからとて修繕することも出来ぬ物を売っては顧客の便利を計って却って不便利極まるものである、それも刺身のつま的に責任の無き無銘の洋傘を売るのでも、他より廉価であるならばまだしもだが、それが他に比較して高価であるとは聊か洒落が過ぎる次第だ。」実業之横浜
相模屋吳服店 石坂竹次郎「新進の鋭鋒當る可からず、市內幾多の老舗の中に介在して、埋地方面に堂々たる一旗幟を飜ヘす相模屋呉服店の雄姿こそ目醒しき限りなれ、三層の堅壘高く天を摩し、紅黃赤紫のデパートメント式陳列には如何に來往する萬客の度膽をや拔きける店主石坂竹次郎君は相州愛甲郡南毛利村より出で、幼より當市に於て呉服太物業を練習し、今を距る十年前此地に店舗を設け、専ら品物を吟味し價額を低廉にし、世辭と愛嬌はいふまでもなく、客人本位を以て賣出すや、忽ち人氣を吸集して到る處に好評を博せしかば、四十一年十月今の陳列塲を新築し、和洋小間物雜貨類乃至は彌生の内裏雛、叉は五月の武者人形、時節に應じて品を換へ巧に顧客の意を迎へ、店頭常に衣香簪影の絶ゆるときなく、夜に入りては電光の輝きあたりも眩ゆきばかりに照り添ひて龜の橋通りに一美觀を增せり、この巧妙なる手段こそ實に優勝劣敗の原則に適ひて、商勢は次第に進捗し、牢として拔くべからざる地盤を固めし店主の辣腕殊勝にも健氣の至りならずや、」横濱成功名誉鑑
現代之横濱 |
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