横浜商品日報 |
稲垣彌三郎
米穀取引仲買
元浜町4丁目42番地(185)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑
廻米問屋兼外米輸入商 稻垣彌三郎「當市米商界中一方の雄鎮たる稻垣商店主彌三郎君は、累世醬油釀造と米穀賣捌を兼ぬ、明治十八年橫濱に來り、南仲通四丁目に住して専ら廻米問屋を營み、日夜奮勵せしかば業務日に增し擴張せり、後現所に轉じ明治廿八年進んで外米貿易を開始し、港町四丁目に支店を設けて其銳鋒敵すべ からざるものありしが、四十年頃輸入米の蹉跌より些少の瑕疵を受けしも、九牛の一毛决して君の輕重に關せずといふ、卅九年中横濱改良精米株式會社を創立し今現に相談役の地位に立てり、横濱肥料株式會社も亦其發企人の一員たり、米穀貿易商組合及廻米問屋組合長、株式米穀取引所監查役及び商業會議所議員等に選ばれ、何れも名望嘖甚たり、」横浜成功名誉鑑
稲垣彌三郎「純良なる米質を撰び盛に精白となし使用者をして配達せしめる頗る勉強の聞へあり工場亦多く晝夜器械の運輾に余念なしといふ」京浜名家総攬職業
稻垣彌三郎 元浜町4丁目42番地 営業店港町6丁目54番地「君は文久元年七月四日を以て三重縣三重郡八郷村に生る先君を彌三郎氏と曰ひ君は其の次男なり家代々醤油製造及び米穀販賣を業とす幼名を民治郎と曰ひ後家を継ぐに及びて今の名に改む幼にして郷先生大賀氏に従ひ漢學及び普通學を修め造詣する所浅からず明治十八年十一月始めて横濱に出で南仲通四丁目にト居し専ら廻米雑穀問屋を営み誠實勤勉以て業に當りしかば商運日を逐ふて旺盛に赴き店舗狭隘を告ぐるに至りしを以て明治二十八年現今の地に移轉し専ら米穀貿易業に従事し同年秋に至りて同市港町に支店を設置せり同十九年一月横濱廻米問屋組合委員同二十九年一月同委員長同三十五年一月同組長となり以て今日に至る同二十七年十月より同三十二年十一月迄横濱米穀取引所仲買人營業同二十七年十一月より同廿八年七月迄同取引所監査役同二十九年六月より同三十七年二月迄武藏商業銀行取締役に就職同三十六年三月より横濱商業會議所議員同三十八年一月より横濱米穀貿易商組合長に就任し以て今に至り同三十九年より横濱肥料株式會社發起人たり君嘗て我が國精米の方法必ず房州砂を混入し衛生上少なからざる危害あるを思ひ之れを矯正せんと欲し同三十九年十一月親族中より資本金五萬圓を醸出し同市太田初音町二丁目二十番地に横濱改良精米株式會社を創立し君其の相談役たり君此の如く國家公共の念に篤く博愛慈善の志深く赤十字社々員町内衛生組合委員として忠實熱誠其職に努め孤児院感化院等の慈善團體は勿論天變地妖其他不時の災害に對して施興賑恤する所多く木盃賞状等を受けしこと挙げて數ふべからずと云ふ輕薄風を爲し私利維れ競ふ現代に於て復得難きの君子人ならずや希くは福祉永く君の上にあれ」京浜実業家名鑑
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