横浜肥料製造 西平沼町

横浜社会辞彙
横浜肥料製造
肥料
西平沼町122番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「完全肥料の製造を以て顕はる一度蹉跌せしも安部幸兵衛氏が同社を引き受くるに至り累々整理を終り社運 漸々恢復し来る肥料の輸入非常に多額に及べる今日なれば同会社の事業は将来の発展期して待つべきなり。」現代之横浜

「横浜肥料株式会社は当市の獨逸商人オットライメルス、印度商人イサボーエの両氏、廣瀬金七、田原當一、本田鹿蔵其他東京名古屋等の有力者の発起にて創立致され候、資本金は一百萬円にて完全人造肥料及び過燐酸の製造販売各種輸入肥料の販売を目的とする由に有之候、該株式は既に募集を終り工場を西戸部に設くる筈の處付近地主小泉穀右衛門、田澤喜左衛門等の有力者は強硬の反対を表し其筋に向って陳情書を提出したるや聞き及び候、」実業之横浜

「横浜肥料会社創立総会 十一月十五日開会創立費の承認、定款の議定を為し役員には左の諸氏当選せり」実業之横浜

「横浜肥料会社業務開始 西平沼町に設立せる横浜肥料株式会社は去る二十八日より開業し完全肥料、過燐酸等の原料各種及び大豆粕、外国種粕、粉粕、玉粕、糠等の売買を開始したり工場は目下建設中にして遅くも本年末頃には諸般の準備を整へ来年一月より製造に着手し春季肥料の売買を開始すべき予定にて日夜工事を急ぎつゝありと」実業之横浜

ヨコヒ印肥料及過燐酸肥料を特色とする 橫濱肥料製造株式會社「太田町三丁目に出張所を有する該會社は、資本金一百萬圓、廣瀨金七君社長に田原當一君專務取締役たり、日露戰後我經濟界は非常に膨脹して、諸會社の勃興せる機會を先覺して、當地の紳商廣瀨田原吉永《仁藏》本田《鹿藏》岩崎《次三郎》渡邊《和太郎》大谷《幸之助》等の諸君京濱有力者を糾合して、組織せるものにして完全肥料の製造及輸入肥料の賣買を以て業とす、過燐酸肥料は輸入品中最も多額に上り、共に世評嘖々たりと云ふ、工塲には最新式の機械を設備し、農學博士恒藤規隆氏顧問たり、技師長として町井正路氏あり、第一號より第十七號に及ぶヨコヒ印完全肥料は本社の特製品にして、共効用卓絶我國內之に比肩するもの少なし、過燐酸肥料は輸入品中の白眉にして普通特製の二種あり共に好評嘖々たり、其他硫酸安母尼亞、印度細末骨粉、印度種粕、米國過燐酸の四種は本社の一手販賣品にして、何れも我風土に適し農界に貢献する所少なからず、横濱成功名誉鑑

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