信濃屋洋品店 弁天通

信濃屋洋品店
西洋小間物 雑貨
弁天通4丁目70番地(1197)
慶応2年(1886)の創業で太田町3丁目で洋品店を開き、後に弁天通に移転した。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「信濃屋の女将と住吉町の有泉の女将とは嬶天下の一対であることは隠れもない評判であって、又当店女将の前身が洋妾であったことは隠されない事実である。旦ツクが没したので遺産を頂戴しそれを資本に開業したのであるが、目色毛色の変った旦ツクを持っただけに多少感化されたものが鳥渡機敏な處もある、まだ広告なぞとふものがあまり世に用ひられない時分に桜木町の踏切手前へ汽車の窓から見えるように目先の変った広告をしたりなどした。買物に出かける時は美装をして 合財袋を手に持ちしやならしやならとお練りで行き、それはそれは営業者も驚く程な緻密な買方をする、商売も總べて此の遣り口で女将が采配を振ってゐるのである。」実業之横浜

信濃屋 吉澤房次郎「錦上花を添ふの小間物幾多を刎ね弘く世に高評を博せり最新の品類と格安の直段とは当店の特色にして又仕入れの多きも一異彩を放つに似たり」京浜名家総覧職業

信濃屋洋品店 吉澤房次郎「辨天通四丁目の角馬車道に面する處、巍然たる宏壯の一洋品舖あり、之ぞ開港以來の老舗として名高き信濃屋洋品店なり、指を繰る實に慶應二年の創業にして、現主吉澤房次郎君の祖父初代吉澤氏は信州松本在に生れ、早くより出濱して、種々の事業に從ひ、後太田町三丁目に洋品店を開き、同十年現所に轉じて其隆盛を期す、爾來店運の昌んなる驚くべきものあり、現主は明治元年に生れ、三十一年父の業を繼ぎたるもの、而して其の發展と共に内外顧客の信用厚く、物貨の富豊と品質の優良なる點に於て斯業者中の白眉たり、君叉淸國貿易に志あり、三十九年淸國杭州城内に信濃號なる支店を開設し、專ら本邦雜貨の轍出販賣を爲しつつありと云ふ、」横浜成功名誉鑑


現代之横濱

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