イサボーイ商会 山下町

神奈川縣案内
イサボーイ商会
輸出入商
山下町45番地(463)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

白米輸入の巨擘 イサボーイ商會 山下町201番地「當商會は印度商人中の巨擘なるのみならず、外米輸入に於てはライメルス、サミュルと鼎立の位置にありて第一流の勢力あり、本店は孟買にして、支店はカルカッタ、古倫母、マドラス、ピナン、新嘉坂、香港、上海、馬尼刺、神戸、横濱等殆んど全東洋各港に散在す、横濱支店は明治七年エムイサボーイ氏によりて設置せらる、現今支配人はケイ ケイ、カジワラ君にして當商會の店規は各支店長の任期を三年と限れるを以て、經過此に四十年十數名の交迭を見たり、資本は七百萬ルビーにして外國米、肥料、薬品、金屬、皮革及印度藍の輸入は何れも非常の巨額に昇れり、邦人主管には本田鹿蔵君主席にして、 瀧川三太君會計及內外事務主幹たり、羽二重部主任として須藤春次郎氏在り、」横浜成功名誉鑑

イサボイ商會員 本多鹿藏 本町6丁目52番地(2451)「本多鹿藏君は安政元年の出生にして、十八歳の時九州に在り、軍隊に火薬を賣込みて大利を得たりと云ふ、既に凡庸の人に非ざるを知る、明治十四年京阪の官吏と合資し朝鮮貿易旭商會を京都に興し、自から大阪支店長となりて沙金の取引に當りしが、十七年解散して少時閑散の日を送り、二十四年支那漆輸入を思立ち、廉價を旨として大に販路を擴張し、僅かに八ヶ月間にして収益五六萬圓を得、途に同業者の忌む所となり、二十五年此れを中止して清國に渡り、漆の産地なる湖南湖北の山河を跋渉して二年目に歸朝す、然も資本を要するの莫大なる進むで事業に就く能はず、踏査は空しく効なく了りぬ、日清戰役となるや、君は鹿兒島縣人某氏と山下組を組織し海軍酒保となりて大倉組と對抗し、後基隆に雑貨店並にラムネ製造會社を設立せしが、不結果にして出濱し、三十一年イサボイ商會に入り、輸入部主任を勤むる事となり、現に敏腕を揮ひつゝあり、」横浜成功名誉鑑

本田鹿藏 本町6丁目82番地(463)「君は安政元年四月大阪に生る幼にして實業に志ありしが十六歳の時九州の某地にて商業を見習ひ西南戦争の時に火薬を軍隊に賣込みて大利を得たり時に年僅に十八明治十四年大阪に帰り京阪の官吏と合資して朝鮮貿易旭商會を設立して沙金買集めを目的に本店を京都に支店を大阪釜山等の各地に置き自ら大阪支店長となりて經營に従事せしが株主の多くは官吏にして活動の自由なければ事業も盛大ならず遂に十七年解散せり其後暫くの間放浪に其日を送りて失意の事のみ多かりしが二十四年未だ人の着目せざる支那漆の輸入を思立ち朝鮮漆として販売したるに賣行甚だ良好にして價も廉なりければ大に同業者の忌む所となり第二囘の販賣を始めんとしたる頃は相場を亂下せらるる恐れありとて君を殺さんとしたるものありしが忠告する者ありて漸く虎口を免れたり其漆にて儲けたるもの僅々七八ヶ月にて五六萬圓なりとは實に驚かざるを得ず而して君は大膽に其漆の本たる支那に於ける元を括らんと清國に渡り楊子江を遡り湖南湖北の漆山に入り二十五年より二十七年迄實地踏査せんが其漆山の廣漠にして十萬以下の金にては到底手の着け様も無きを覚り踏査の効もなく遂に絶望するの止む無きに至れり二十七年日清戦争の起るに及んで鹿児島人と共に山下組を組織して海軍酒保なし大倉組に對抗して花々しく活働し人をして其の敏腕に驚かしむ尋て基隆に雑貨店を開きラムネ製造會社を起し澎湖島臺東縣にも店を出して大奮闘を試みしが悉く失敗して遂に横濱に帰れり三十一年イサボーイ商會に入り今日に至る抑イサポー商會は輸入に米穀肥料織物薬品印度藍を扱ひ輸出に羽二重天産物を扱ひ近頃外米甘五萬袋を輸入せりと云ふ」京浜実業家名鑑

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