神奈川縣案内 |
堀幸洋紙店
紙商
住吉町2丁目19番地(455)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
堀幸吉「舶来の紙類引取を業とし多年精励の聞あり華客先は東京諸問屋にして着船毎に商館より引取荷物夥しく價格數萬に上るといふ」京浜名家総覧職業
堀幸吉 住吉町2丁目19番地「明治八年五月東京市牛込區辨天町に生る父義矩氏は舊田安家の臣にして其の第六男なり八歳の時不幸にして父義矩氏病を以て長逝す君横濱小學校、横濱商業學校に學び十七歳の時池田文次郎の住吉町一丁目なる鑛山及び石油洋紙業營業所に入りて其の洋紙部を擔當して之れを助く當時君思へらく時勢は我國をして愈々交明に赴かしむ而かして交化愈々進めば印刷事業の盛んなるは必然の結果にして其の之れに伴なふ處の紙其物の消費を表はすものなれば今にして紙商を始めば従来の和紙は暫く措き洋紙に至りては需用益々多く前途甚だ有望なりと思ひ資本金二十圓を投して常盤町四丁目に獨立して店を開きしに天運なるかな一千八百圓の巨利を収むるを得たり時に年二十歳漸く店舗の峡隘を告ぐ依て境町一丁目に移り三十六年四月現住所に轉じて営業の拡張を計り以て今日に至る君は資性温厚實着にして荀も 投機的に營利する不健全のことを好まず理に依り數を進む常に萬全の策をのみ執るを以て失敗の不名譽を擔ふこと無く着々として功を奏し今は横濱市數多の洋紙商問屋中に取引の盛んなるは君の店を以て第一位とするも決して過褒にあらざるなり而して常に邦家の爲めに酬ひんことを是れ祈り日露の交戦の酣にして朔北の天地硝煙弾雨に閉さるるや軍資金として三百金を献じ爲めに木杯一組を授興せられたり其他公共事業に盡す所多かりければ大に横濱市民の人望を得て三十年以来横濱商業會議所議員に推され横濱商業の発達を企劃せらるること尠からずと云ふ今や干戈治まりて國威の宣揚するは一に業の振興に待たざるを得されば敏腕なる實業家を要するは實に國家の急務なり君乞ふ益々努力加餐して一層君國の爲め盡されむことを」京浜実業家名鑑
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