吾妻軒菓子舗 野毛町

吾妻軒菓子舗
菓子製造販売
野毛町1丁目12番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

吾妻軒菓子舗 横山留吉「往年菓子税の新課さるるや、一般菓子商の恐慌啻ならざりし際、全國の同業者を糾合して率先其廃止運動を試み、途に之が廃止を見るに至らしめたる吾妻軒の前代横山幸吉氏等の如き特志家あるによれり、氏は明治の初年より野毛町に開店し、向隣なる武蔵屋と相前後して業にたづさはり、勤勉以て今日吾妻軒の名あるを致したり、明治廿九年五十歳にて没せらる、現主留吉君は明治三年の生、廿七歳にして父業を嗣ぎ、精勵事に勤め親しく客に接して懇切を旨とす、嘗て市内菓子商組合設立主唱者の一人として同業者間に得たる勢力侮るべからず、性温順にして機才あり、近来新式の汁粉屋を開始したるなど、 君が多方面に渉りての才能を認むべきなり、同町二丁目に支店あり如何に其業務の盛大なるかを知るべし、」横浜成功名誉鑑

吾妻軒 「野毛町一丁目四十二番地に在り明治初年の開店にて野毛方面の老舗なり初代は横山幸吉氏當主は即ち横山留吉君にて業務の擴張と共に新式汁粉屋を營み誠意と勉勵を以て華客の好評を博せり」横浜社会辞彙 42番地は12番地の誤りだろう

横山留吉君「君は明治三年を以て生る先代幸吉氏の長男なり明治二十九年家督を相続す君は能く先考の意思を繼ぎ野毛方面に於ける菓子商組合の設立者にて客に設するに誠意を以てし近時又新式汁粉屋を設け同郡二丁目に支店を開き一意業務の盛大を計り野毛町同業者の明星たり」横浜社会辞彙

明治十年四月創業 本店は1丁目12番地 支店は2丁目42番地 横浜市商工名鑑

横山留吉氏のご子孫の方から情報をいただきました(コメント欄より)
留吉は現在の安曇野市の明科七貴(旧七貴村)の堀内登美太郎の4男で、初代横山幸吉(長岡の人と言われている)の死去後に幸吉の養女と結婚して横山留吉となりました。その後関東大震災起きて燃えたようですが、本店は再建されました。戦争後は菓子屋→果物屋へと変わり、留吉は86歳で亡くなりました。野毛2丁目吾妻軒菓子屋の支店についてですが、明治44年頃、留吉の甥(姓は堀内)が野毛町二丁目40番地に分家しておりますので彼はおそらく留吉にその支店の運営を任されたのだと思います。現在は支店は存在しません。


神奈川縣案内誌

8 件のコメント:

  1. 野毛吾妻軒 菓子屋 横山留吉(婿)

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  2. 長野県七貴村ヨリ横山家ノ婿トナル

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    1. ご投稿ありがとうございます 資料名を教えていただけると大変助かります よろしくお願いいたします

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    2. 資料というか,私がこの横山留吉の子孫に当たります。

      このサイトがあって大変驚きました。

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  3. そうでしたか、それは失礼いたしました。貴重な情報ありがとうございます。他なにかありましたら書き込んでいただけると助かります。よろしくお願いいたします

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  4. 留吉は現在の安曇野市の明科七貴(旧七貴村)の堀内登美太郎の4男で、初代横山幸吉(長岡の人と言われている)の死去後に幸吉の養女と結婚して横山留吉となりました。その後関東大震災起きて燃えたようですが、本店は再建されました。戦争後は菓子屋→果物屋へと変わり、留吉は86歳で亡くなりました。

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  5. ありがとうございます。なるほどそういうことでしたか。少し情報を更新いたしました

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  6. 追記です、上記資料にある野毛2丁目吾妻軒菓子屋の支店についてですが、明治44年頃、留吉の甥(姓は堀内)が野毛町二丁目40番地に分家しておりますので彼はおそらく留吉にその支店の運営を任されたのだと思います。
    現在は支店は存在しません。

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