増田屋安部幸兵衛商店 南仲通

present-day impressions of Japan
増田屋 安部幸兵衛商店
砂糖、麦粉、外米貿易商
南仲通3丁目50番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「商号を増田屋と云ひ店主は安部幸兵衛氏なり、本邦糖界の大立物として知られ又獨逸糖輸入の元祖たり、同店は全国に支店を設け、砂糖、小麦粉、外国米、肥料を販売し直輸出入を爲す信用資本兼備せる大商店なり。」現代之横浜

「一見しただけでは商業を営んでゐるや否やを疑がはしめる程の店附だが、これは家風の質素なるが爲であって、日本の砂糖の大半は増田屋の兄弟店と一手で呑吐してゐるくらゐな商業振りで、外国の粗製砂糖を輸入し又は内地精製砂糖を盛んに取引してゐる、併し得意は東北の方には殆ど皆無といっても宜く、主に静岡、駿、遠、三、濃、尾、伊勢の関西地方であって、進取的な活溌な商ひぶりは、砂糖に蟻の著くが如くに得意を汲集してゐて、少し質素過ぎはせぬかと思はれる程に滋味である。横浜製糖株式会社社長は店主安部幸兵衛氏なのである。」実業之横浜

糖界の重鎮 安部幸兵衛「曩さに時事新報は、五十萬圓以上の資産家を全國に募りしに、其數實に四百四十一の多きに上る、されど仔細に観察せば、財を愛するの人、財を吝むの人、各其面に似て異なれるを覺ふ、吾人は今統計中より特に安部幸兵衛君を擧げ來りて、財界中果して那邊に置く可きかを詳論せむ、君や十歳の妙齢先天的貯金の趣味を自覺し、零砕積んで十四齢に及ぶ比に、能く之を利用して日常自家身邊の用を便ぜしと云ふ、此美徳や教へて成るにあらず、學んで得べきにあらず、天稟の霊光發して君の今日あるを得せしめしなり、非凡なる君は、明治初年横濱開港當時既に新進商店の稱ある榎並屋に入りて大に其才能を磨勵し、明治七年増田嘉兵衛氏とともに本町四丁目に於て砂糖麦粉石油の引取商を營みたり、當時清商の跋扈跳梁は言語に絶し、不當なる看貫料といへる牙錢を貪る慣例なりしを、君奮然として其難局に處し、折衝應接終によく彼をして非を悔ひ暴を愼み、日商亦侮る可からざるを大悟せしめたり、明治十七年增田氏と分離し、新に商店を南仲通三丁目に開き、坪井、鬼頭、靑谷等幾多有爲の店員を督勵し、牢として拔くべからさる一大根柢を造くれり、現在の事業は製糖、製粉及外國米肥料等の輸入にして、本店及綠町製糖所の外、大阪、仙臺、名古屋、新潟、小樽、 臺南、其他の各要地に支店叉は出張所を設けて大に初翼を擴張し、其他滿洲製粉、鹽水港精糖、帝國製粉、日清紡績、盤城セメント、第二銀行等の監査役其他紡績、製糖等各種大會社の重役に推され、且横濱製糖會社常務取締役としては令名隆々として喧傳せらる、明治廿八年横濱商業會議所開設以来其議員となり、現に常務委員たり、又砂糖貿易商組合創立以來の頭取たり、冊六年極東の風雲将に急ならんとするや、報國の時機逸すべからずとして、金一萬圓献納を出願せしに立ろに嘉納せらる、翌年千戈愈交はるに當て種々なる名目の下に合計一萬圓を納付し、猶八十五萬圓の國債に應募せり、此巨額なる後援事業は蠻雨瘴煙の中に叱陀馳驅する戰士の勲績に對して些の軒輊あるなし、鳴呼君や實に身を財界中に置きて能く積み能く散し、眞個に財を愛する人たるを知る、君は職務に服し學問の餘暇なかりしといへども、深く福澤翁の學説に心服し、翁の著書出る毎に一本を購ふて耽讀倦むを知らずといふ、君や一面に於て又活眼活書を読むの人たり、君の家系は越中より出で、弘化四年を以て生る、父長兵衛氏弘化三年江戸小舟町に開店以来三代に當ると云ふ、」横浜成功名誉鑑



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