増田屋砂糖商店 本町

奉祝記念誌
増田屋商店
砂糖、小麦粉、石油貿易商
本町4丁目69番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

金港商界の先覚 増田嘉兵衛「身を一介の匹夫より起して天下の重をなす、丈夫の本懐なり、老松山人增田嘉兵衛翁は天保六年伊賀に生れ、安政六年開港とともに、海產物商榎並屋支店の支配人として橫濱に來り、文久二年獨立して增田屋商店を剏め、專ら砂糖貿易に従事す、明治二年故原善三郎氏等と協力して為替會社を創立し其頭取となる、明治三年其筋の特命により伊藤博文氏一行に随行し、商業視察として米國に渡航し、翌年歸朝金銀分折所を設置し、原氏等とともに金穀取引所を創立す、實に我國取引所の濫觴なり、為替會社の第二國立銀行となるや選ばれて取締役となり、現今中央倉庫株式會社第二銀行横濱製糖株式會社等に重役たり、此の横濱市の元老たるのみならず實に吾實業界の功労者たる翁は、古稀を過ぐる五齢、店務は令息に譲りて月岡町の高䑓に引退し、二十餘人の兒孫を愛撫しつつ、殷賑なる金港を瞰下して餘生を楽しまれつつあり、五十年祭祝典に際し翁が今昔の感果して如何、古人曰く、功成りて身退くと、吾人は其高潔なる行為に敬服する所以なり、」横浜成功名誉鑑

砂糖商の巨頭 増田増蔵「本邦糖業者中の重鎮にして而かも京濱實業界の巨擘なる増田増蔵君は、文久三年の出生にして嘉兵衛氏の長男なり、資性温厚にして恭謙、厳父退隠後の業を継承し綿花砂糖の商業に従事す、後麥粉及び石油の取扱をも開始し、増田屋商店の名は一時天下を風靡するの概ありき、目下時運に伴ひ石油は一部分の營業となすに過ぎず、砂糖と麥粉は従前よりも層一層に擴張し、叉豆粕をも加へて輸入し斯界の要鎮となれり、吾人は今君を傳するに當り我國糖業貿易の沿革を略叙するは決して無用にあらざるを信ず、始め横濱に於ける舶来精糖は英一、七番其他二三の外商によりて行はれ、内國商人は之を引取販賣するに過ぎざりしが、條約改正の結果、明治卅二年十月一日より新海関税法實施され、第一回の打擊として輸入精糖は戻税を有する內地精糖に此して價額の權衡を保つ能はず、第二回の打撃は、明治卅七年非常特别稅增課の影響により關稅の改正又行はれ、外國精糖は愈不况を呈せり、此間に於て増田君は、第一回には綠町に増田精糖所を設け獨力製糖業を開始し、第二回には安部幸兵衛氏を初め一族及同業者を糾合し、横濱精糖株式會社を設立し、輸入品の防遏と內地糖業の發達とに貢献する所少からず、 其他粗製糖輸入は、臺灣糖の如き最初清商の經營なりしが、 中頃英獨商人の手に移れり、増田安部の兩増田屋は之を不利なりとして直輸入を計り、臺灣商人と特約し、進んで直接土人と交涉して着々に步武を進めたり、是を一階段として馬尼刺及瓜哇群島の方面にる及ぼすに至れり、 石油は紐育スタンダード石油會社の横濱支店開業と共に、桑原安部二氏と共に日本一手販賣を特約せり、明治卅二年に至り三家合同して三明商店を設け、東京、名古屋、新潟、直江津に支店を置き、營業せること約六ヶ年間、後方針を變じ、現今は名古屋の増田屋商店出張所(安部氏との共同経營)をスタンダード會社開西代理店とし、東京の増田屋支店にては内地石油に拮抗すべきとスタンダード會社の虎印を取扱ふに止まれり、麥粉も石油と同じく三十餘年前より指を染めしが是又關税に至大の闘係あり、商館引取より直輸入となりしが、明治卅二年以來次第に課税の増加あり、目下一袋五十三銭七厘の重税となりしを以て、内地製の有利なるは論を俟たず、原料は一割五分の税率なるも製品は三割を徴せらる、其差を考へて増田製粉所は神戸に起り、本邦産麥を改良新式の機械にて製粉することとせり、又豆粕は四五年前より直接輸入を試みたりしが従來の増田屋商品取扱店は自ら進んて之れが販賣を為さんとの希望あり、益々盛況を呈し居れり、 増田商店の事業斯の如く繁雑にして多端なるも、令弟にして支配人たる中村房次郎氏及び幹部の諸店員能く店主を補佐し、其他東京大阪神戸對灣の各支店仙䑓及沖縄の各出張所等本店と相呼應して敏活なる行動遺算なく、以て今日の全盛を來せり、公人としての増田増蔵君は温厚熱誠の長者にして市に於ける名望大谷南湖翁に次ぐ、神奈川縣會市部會議長、横濱奨兵義會副會長、市教育會副會長、商業會議所常務委員、本町區會議長を始め幾多の團躰君の徳器に俟つもの多し、日露の戰役後援事業に殊功あり、勳六等に叙せられ瑞寶章を下賜せらる、」横浜成功名誉鑑

「我国糖界の大立物として又製粉界の勢力者として知らる横浜を営業の本拠となし東京名古屋神戸大阪台湾其他国内樞要の地に支店を設け又雑穀肥料の輸出入并に販売に従事す店主増田増蔵君は業務を統括し令弟中村房次郎君之を助けて画策奮闘業務歳と伸び本邦屈指の大商店たり。」現代之横浜

「今は老後を静養して風月を友としてゐられる増田嘉兵衛氏が始祖であって、現今は増蔵氏に譲り中村房次郎氏と共に砂糖、麦粉、石油の三大輸入引取商をしてゐる。嘉兵衛氏は所謂成金的に成功したのでは無く着實穏健に漸次歩を進めたので、夙に識見が時代より一段高かく伊藤公がまだ俊助時代の欧州渡航の一行に加って外國へ視察に行き早くも外商との取引に着眼した位で、普通商人の遣口とは其選を異にしてゐた。目下は隠居して唯中央倉庫株式会社社長のみをして居られるが營業の後継者たる増蔵房次郎の両氏が大に手腕を揮はれてゐるので、當地へ來て一代に花を咲かし實を結んだものは數あるで、其多くは凋落し又は適當の後継者無きに苦んで居る中に當店は益々盛大になってゐる。以前は麦粉の製粉されたのを輸入してゐたのであったが、日露戦役後大に見る處があって神戸に製粉会社を設立して世界製粉機会の粋を蒐め日本工業の模範的工場を設けた、同所は地の利を占め水運の便を得て居るから荷着荷上より製粉に至る迄意の如くに進歩し殆ど理想的な設備であるので、一度同工場を縦覧したものは誰しも感嘆せぬものは無い。石油は紐育スタンダード石油會社の虎印關東一手販賣を引受けて東京支店で専ら販賣し、北陸方面は越後の支店で内地産の石油も取扱ひ砂糖も手廣く賣捌いてゐる。當店から出て獨立營業して成功をしてゐるものが二三に留まらないが、皆増田屋に丁稚たり手代たりしを得意にして口にする、以て當店が商界に於ける信用の如何が卜知されるのみならず又一面に人材を網羅することに努めつゝあることが窺はれる。斯業に於ける商勢力の範圍の廣さから云ったらば日本唯一と云って憚らぬ程であって、嘉兵衛氏が築きし基礎の上に増蔵氏と房次郎氏の敏腕に依って 擴張されたので、一世の事業をして好く第二世が發展した活例である。」実業之横浜

增田屋商店支配人 中村房次郎「此父にして此子ありとは實に中村房水郎君其人を形容するに最適なるを認む、君は增田嘉兵衛氏の二男慶應元年橫浜本町に生る、稚にして中村姓を繼ぐ、幼より敏慧群童に異なれり、長じて橫濱商業學校を卒り専ら增田屋商店にありて分兄の業務を助くるに毫も普通店員と等差なく、孜々奮勵身を以て自ら率ゆ、複雜なる店務に處して頗る明快に處理し、事に臨んで勇敢果斷人をして乃父の風ありと羨ましむ、增田屋商店の柱石として今日の盛大を爲すに與つて力あり、卅八年十月歐米各國を漫遊し、文明先進國の狀況を視察して歸朝し、一顆の明玉更ちに光彩陸離たるを覚ふ、關東煉瓦株式會社橫濱保險株式會社取締役を兼ね增田製粉株式會社々長たり、公生涯としては市會議員に推され又橫濱經濟會幹事として青年實業家の牛耳を執る、前途多望の少壯敏腕家として多方面に推重せらる、」横濱成功名誉鑑

増田増蔵 本町4丁目68番地「獨立自營奮闘努力遂に成功の月桂冠を得るや之 を嗣子に傅へて閑雲野鶴を侶とし心を光風霽月に澄し後嗣は之を承けて家業を墜さざるに専念す實に是れ人生の至福にして天下豈又是に加ふるものあらんや吾人は此の楽境にある増田氏一家の經歴を語るを喜ぶ増田増藏君は文久三年横濱に生る嘉兵衛氏の長男なり父嘉兵衛氏は功に誇らず名を衒はず摯實熱心なる實業家の典型とも謂ふべき人にして増藏氏は能く厳父の美質を稟けたるが上に温良醇粋の美徳を備へ守成的の好資格を備ふる所宛として家康に亞の秀忠なり君は巨萬の資産家に主となり其の地位も亦横濱第一流の人士に伍すべきなり而も其の富を有するを知らざるが如く其の地位にあるを覺らざるが如く如何なる人に向つても謙遜退讓の徳を缺きたることなし又勵聲叱咤を作したるを見たることなしといふ天性の篤實眞に敬重すべし君の所有に係る兵庫製糖所は一日六千斤以上の製產に上り緑町の精糖工場は一 日の製出高六百俵の多きに及び其の他名古屋大阪函館臺灣の各地に支店を有して盛に製糖業に従事し家業隆々として日に繁榮に趣きつつあり若し夫れ益々努めて已まずんば幾年ならずして獨り金港に於てのみならず日本に於ても有数の實業家たるに至るや疑を容れざるなり吾人は君に於て特筆すべきは自ら奉ずる所頗る質素にして秋毫も虚飾に趨る所なく其店風も亦簡易素朴にして些のハイカラ風なく而も社會公共慈善の事業に至っては巨額の資金を投じ惜むことなし日露戦役の際の如き軍資を献じて間接に國家に貢献したるの効や實に鮮少にあらず今や自家の虚名を得利慾を専にするを以て能事とせる實業家の多き中に君の如き篤志家を見るは眞に異数と謂ふべし」京浜実業家名鑑

神奈川縣案内誌

現代之横濱

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