亀善別荘

亀善別荘前
亀善こと原善三郎の別荘。後に茂木別邸とともに野毛山公園になった
明治の横浜手彩色写真絵葉書

横濱の柱礎 原善三郎「横濱市の柱礎として茂木氏と相提携して今日あるを致さしめたる剛膽不覇なる紳商原善三郎君は巳に故人となれり、君が開港以来四十餘年の歴史を茲に略叙せんに、君は武州渡瀬村の人文政十年を以て生る開港當時横濱に出で辨天通に借家して帳簿店を開き、傍ら生絲の賣込を始む、後辻利兵衛氏等有爲の人材を雇ひ專ら生絲業に從事し、次第に產を興し店舖を辨天通三丁目に定む、慶應年間には既に横濱生絲界の大立物となれり、明治元年洋銀現塲取引所設立を企て、通商司爲替方及貿易商社頭取と爲り、六年生絲改會所及び第二國立銀行頭取に、七年第一大區議員に、十三年橫濱商法會議所頭取に、十九年横濱蠶絲貿易商組合頭取に推さる、廿二年海防費を献納して金製黄綬褒章を下賜せられ正六位に叙せらる、同年横濱市會議長となり市参事會員に選ばれ、次で衆議院議員となり、二十七年蠶絲外四品取引所理事に推され、廿八年商業會議所會頭の職に就き、又貴族院多額納税議員に互選せらる凡そ市の樞要事業にして君の計畫せざるもの殆んど稀れに、聲望隆々一世を壓す、某氏の戯歌に『横濱は善きも悪しきも亀善の腹一つにて事きまるなり』の概ありき、同卅年勲四等瑞寶章を賜り、卅二年六月特旨を以て従五位に叙せられ、同月病を以て逝去さる、此の偉傑の遺業を継承せる二人は一を富太郎氏といひ他を善一郎氏といふ、善一郎氏は埼玉懸平民原織五郎氏の従弟にして富太郎氏の長男なり、明治二十五年四月を以て生る、廿七年十一月宗家の養嗣となり卅二年家督を相續し、現に原合名會社の一員たり、嗚呼豪宕なる善三郎君永く其祀を存して家門彌榮へ、龜屋の商號萬代を壽くもの、實に君が不世出の資を以て其基礎を確立せる爲めに外ならざる也、」横浜成功名誉鑑

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