原合名会社 弁天通

横浜社会辞彙
原合名会社
生糸売込商
弁天通3丁目50番地 49番地(56)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

生絲貿易界の覇王 原合名會社「模範商人として吾人の敬服する原善三郎君の移簀後、明治三十二年二月を以て原富太郎君及夫人やす子並男善一郎三君の合名組織に變更し、一般生絲の貿易を繼續し、益々業務を刷新して別に一生面を開く、支配人古郷時待君を始め久米叉七郎今井春吉等の諸氏何れも譜代恩顧の人にして、故善三郎君の鑑識凡ならず、盡く其器局に通じて旭日冲天の勢あるは、古語の勇將の下弱卒なしとの謂蓋し原合名會社に於て見るべきなり、輸出部は三十三年の創設に係り、米佛露の三國に支店を置き、生絲及び絹織物の直輸出を營む、岡田源吉君主任として双適材の目あり、原商店の前途洋々春海に似たりと謂ふべし、」横濱成功名誉鑑

原合名会社「横濱の豪家故原善三郎氏に依て其名赫赫たり今は合名會社の組織となり當代富太郎氏の手腕を以てす生糸界の覇たる所以實に爰に存す」京浜名家総覧職業

合名會社原商店「經營者は原富太郎氏なり數百萬圓の富と厚き信用と多ㄑの經験とを以て生絲賣込業を營む彼の茂木商店と共に両大關と稱せらる別に輸出部あり主として生絲の直輪出を爲し絹織物をも兼業し海外に支店を有し又國內に大規模の製絲場を設置して生絲の改良を圖り模範的工場と稱ㄝらる横濱商業界屈指の大商店なり。」現代之横浜

原合名會社代表社員 原富太郎「君明治元年八月を以て埼玉縣兒玉郡渡瀨村に生る、靑木久衞氏の嫡男なり、夙に早稻田專門學校に學び才學儕輩を壓す、廿五年原元三郎氏の養子となり、廿九年分家して別に一家を創む、卅二年二月原商店を合名組織となし、其代表社員となりて今日に及ぶ、其間卅三年生絲賣込業の外輸出部を開設し、生絲絹織物を海外に輸出し、現に米佛露の三國に支店を有す、卅五年三井家の所有なりし富岡製絲所、 大嶹製絲所、名古屋製絲所を讓り受け、先代善三郎氏の創設せし渡瀨製絲所との四大工塲を整理し、年額三千五百有餘個の產出を見る、同年一月第二銀行頭取に選ばれ、次で横濱市參事會員、横濱商業會議所議員となる、其他關係せらるる銀行會社極めて多し、君三十七八年戰役の功により勲四等瑞寳章を下賜せらる、」横浜成功名誉鑑



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