横神 |
廣瀬回漕店
海陸運輸
海岸通1丁目(1676)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
廣瀬金七 元浜町1丁目7番地「君は嘉永二年九月一日を以て静岡縣遠江國引佐郡金指町に生る家は代々農を以て業とす然れども君幼にして穎敏聰慧に時勢の推移を察し社會の變遷を窺ひて今後處世の術一に商業にありとなし慶應三年飄然鄕關を出で横濱に来りて製茶業に從事しあらゆる艱難辛苦と闘ひ幾多の悲風惨雨を冒して屈せざる剛毅の精神は當時横濱の大商館オットワイメルス會社の知る所となり明治十三年同社員に擧げられ英才敏腕は益々抜擢せられて遂に同社代表員となり盛に内外輸出貿易の衝に當りけるが其の畫策經營皆宜しきを得て遂に今日の隆盛を得たり輓近鑛山事業に従事し目下此の種の會社に關係せるもの一々枚擧に遑あらずと雖め今其の主要なるものを擧ぐれば三十九年三月大又鑛山合資會社長となり同年五月唐戸屋鑛山合資會社長に推され同年十月惠美須森鑛業合資會社長に擧げられ同年十二月八莖鑛山合脊會社長に推薦せられ専ら鑛山事業に斡旋する所ありしが戦後經營として事業の勃興するにつれ君亦諸種の會社を創立經營して卅八年十月清水倉庫合資會社長となり三十九年十月横濱肥料製造合資株式會社取締役社長に推され四十年二月磐城セメント株式會社取締役に選ばれ得意の敏腕辣手は能く其の事務を解決して快刀亂麻を断つの慨ありと君今や家業としては製茶製銅及び鑛石賣込外國米輸入海産物貿易及五品取引仲買を營み家運隆々として旭日昇天の勢あり君曾て遠州天龍川舟楫往来の積弊を慨し之を打破せんと欲し自ら率先經營しく運搬業を開始し事業は着々其の緒に就きて頗る良好の成績を見るを得たりしかば同地方に非常の便益を與へたりといふ昨年故ありて是れを古河鑛山會社に譲り渡したり亦當代實業家中の一人傑なるかな」京浜実業家名鑑
廣瀬金七 元浜町1丁目7番地「君は遠州の人嘉永二年の生れ、慶應三年横濱に来り製茶業に従事し、明治十三年オットライメルス商會に入り、令現に業務担当員として其の經營に任ぜり、君の商略は多方面にして、何れも皆着々として秩序整然其實を挙げつつあり、則ち卅九年中に大叉鉱山合資會社、唐戸谷鉱山合資會社及恵美須森鉱業合資會社々長に推され、猶八莖鉱山の社長を兼ね、君嘗て遠州天龍川舟運の積弊を慨し、之れを打破せん爲に運漕業を開始せしが、良好の成績を収めたるが爲め郷人皆之れを德とせり、是れより自家關係の鑛物運搬を主とし、廻漕部を海岸通一丁目に、支店を江尻、天龍及陸中四倉に置きて其事業を擴張せり、其他淸水倉庫合資會社、横濱肥料株式會社の社長、磐城セメ ン ト株式會社取締役等何れも令聞あらざるはなし、自家の營業としては、製茶、製銅及鑛石賣込、外國米輸入、海產物輸出及取引所仲買等、其複雜なる業務に處して裁决流るゝが如く、些の渋滞なきは實に非凡の手腕あるによる、其傍ら公共事業の如きも又盡くす處少なからず、明治卅八年オットライメルス商會に於て、廿五ヶ年間勤続の功として金時計一個を贈らる、實に當代多く得難商界の傑人ならずや、」横浜成功名誉鑑
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