矢野上甲合名会社 山下町

横浜社会辞彙
矢野上甲合名会社
生糸貿易商
山下町216番地(275)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

蠶絲貿易商 矢野半次郎「矢野上甲合名會社業務擔常社員矢野半次郎君が郷里上州碓氷郡を出でしは明治十年にして、出濱後英一番ジャーデンマゼソン商會に入りて、蠶絲貿易の主任者と爲り専ら其の辣腕を揮ひたり、同十八年君は經驗と信用とを提げて南仲通一丁目に獨力蠶絲貿易商を創めしが、その漸く繁榮に向ふと共に、二十六年七月先代森山金輔氏等と共同し森野川合名會社を組織し、二十七年業務擴張の爲め同町四丁目に移轉し、三十九年更らに現所に轉じて上甲氏と連合の上、四十一年六月現在の社名に改稱せるが、君の商業に熱心なる本年六十三歲の老齢に及んで尚ほ撓まず、社に出でては蠶絲屑物を取扱ひ、傍ら個人としては南仲通三丁目に生絲仲買店を營めり、君曾て日本絹綿紡績株式會社取締役たりき、現在の住居は戸部町三丁目六十番地に在り、」横濱成功名誉鑑

蠶絲貿易商 上甲信弘「明治十七年郷里宇和島を辭して東都に遊學し、第一高等學校を卒りて廿三年中南洋諸島を巡視し、遂にカルラキ、アイスランドに於て雜貨貿易を開始せり、絶海の孤島一年二三回の定期航海あるに過ぎざれば、商品の販路は頗る敏活なりし、氣候の激變や交通の不便の如き决して憂ふる處にあらず、蠻煙瘴雨八星霜を閲して明治卅年に到り歸朝せり、心機一轉蠶絲貿易を志し森野川合資會社に入る、四十一年六月に至り同社の解散と共に、矢野氏と合同して矢野上甲合資會社を組織し、業務擔當社員として敏腕を振ひつつあり、君は愛媛縣北宇和郡吉田の人、明治四年の生れにして年壯、加ふるに學力と經驗を兼ぬ、將來の事業吾人の刮目して待つもの多し、」横濱成功名誉鑑

矢野半治郎「軀幹長大豐頰圓顔の紳士年齢は既に耳順に近からんとして内鄭重謙遜の德を備へ多年交際場裡に奔馳し世の波濤を渡航し來れる君は如何に圓轉滑脱にして應對迎接の術に長ぜらるるかよ少壯郷に在て生絲屑物の輸出商を営み居たりしが開港以來非常の発達をなし來れるを察し出でて大に勇躍活動せんと出濱せるは西南戦争後の明治十一年なりき次で山下町英一番館ジャデンマゼソン商會に入りて生絲買入方となりて君が縦横の奇才を振って奮闘し其の豪膽なる辣腕に由って商館中の覇たらしめ生絲貿易をして尠なからず功績あると同時に人を感憤せしめたりしが十六年小川森山二氏と戮力提携して小川組と云ふ屑物賣込商を創設し稱し森野川合名會社と云ふ既にして所有畫策と精勵勤勉とを積んで前後二十五箇年唇齒輔車勗めて和衷衝突を避けたるは一美譚にして又君の性格を窺知するを得べし其間森は枯れ川亦涸れて野の肥沃たる廣地は將來此田畑より什麼なる豊富なる収穫 を得べきかは君が獨特なる得意の才幹に待たざるべからず此外日本絹綿紡績會社を創立し取締役の椅子を占められしが有終の果を収むるに至らざりしは憾みとする所なりしも日本紡績事業が此會社に刺戟衝動されて功は汲すべからず機敏英斷なる君は曾て株式界の名将として其行動端倪に暇なからしめしは慥に實業界の大物として推賛せざるべからず吾人は必ずや君が首尾貫徹の大効を奏し地下の小川森山兩君に對し嘆賞瞑目の偉勳を樹てらることを疑はず君弘化三年六月群馬縣碓氷郡磯部村に生れ濱吉氏の嫡子にして幼より穎敏聰悟 夙に世人の羨望する所たりしと今父は國に止まりて従前の生絲絹物の輸出商を營み一家愈々繁業しつつありと云ふ」京浜実業家名鑑

シルク

實業之横濱

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