新富亭
横浜の寄席(色物)
松ヶ枝町32番地
竹内竹蔵が明治17年(1884)に開場した寄席。明治32年(1899)の関外大火で焼失した後、三階建てに建て替えられ次男の竹次郎が経営した。定員は680人。
明治の横浜手彩色写真絵葉書
落語定席新富亭 竹内竹次郎「三遊、柳兩派の定席として連夜喝采を博し居る新富亭は明治十七年の創立である、明治元年の頃馬車道通に佐野松といふ芝居ありて三年に至り下田座と合併し、羽衣町へ移て下田座佐野松と稱せり、是が現在羽衣座の前身である、其外港座、金花亭、吉村亭、松本亭、長谷川亭、富竹亭など一時に起りて、落語講釋の外に時々芝居興行も遣ったものである、此富竹亭を始めたは長野縣富田村から出た 竹内竹蔵氏で、則ち今の漸富亭創立者と同樣である、三十二歲の頃來濱し乾物商を營み、明治元年太田町四丁目に丸竹亭を起し、明治十七年現所に新富亭を建てた、七十四歲の高齢で去る卅二年歿せしが、開港當時より幾多の變遷を經て、只新富、富竹兩亭が今に繼續して古き歴史を語り貌に依然たるは、寄席だけに由緒ありげに聞こゆる、眞砂町の義太夫席富竹亭も氏の長子の經營せる所で、氏が一家は殆んど寄席の元祖ならん、竹次郎君は氏の二男で明治元年の生れだ、三十二年の大火に一旦灰燼に歸したが、苦心更に新築して定員六百八十人を容るゝに足る設備とし、 色物を主として市内定席の魁首である、」横浜成功名誉鑑
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