富竹亭 真砂町

富竹亭
横浜の寄席(義太夫)
真砂町4丁目58番地 馬車道通
明治11年(1878)竹内竹蔵が馬車道通角に落語席館を開場した。明治16年(1883)に建替、明治18年(1885)に三階を増築し落語席改め義太夫専門館として開場した。竹蔵が明治32年(1899)に亡くなった後は長男の亀二郎が経営していたが、建物が古くなったこともあり明治45年(1912)廃業した。
明治の横浜手彩色写真絵葉書
富竹亭(義太夫定席)竹内龜次郎「吉田橋畔に三層樓閣がある、有名な富竹亭で義太夫の定席として市内一流の顧客を吸收し、橫浜名物の一に數へられる、この席亭の創立者竹内竹次郎氏といふは、信州宮田村の酒造家に生れ、安政年度橫浜に來て、料理屋もすれば袋物屋もする種々の業務をやったが、結局は寄席がよかるべしとて、太田町四丁目に丸竹亭といふのを建てた、慶應二年の頃で是れが抑も○竹の印のある席亭の元祖である、それから尾上町五丁目の角で現今稻荷鮨のある所に萬竹亭を始めた、明治五年頃更に真砂町五丁目馬車道通りの角に富竹亭を創めたのが今の寄席の前身である、明治十二年頃從來の萬竹亭を廢し、尾上町五丁目現今の天賞堂時計店の所に更に萬竹亭と稱して三階建の寄席を建築し、二階下は商榮社と名くる勸工場を設けた、これは當市勸工場の嚆矢だと云ふ、有名なる高橋お傳の騷動で引合に出るのは此席亭であったが、惜しい哉三十年十二月の大火で類焼した、斯くて明治十五年舊富竹亭を取毀ち更に現今の三階の建物を作り、其當時は酒煙草箪笥店等を副業したが、十九年にそれを止めて寄席專門となった、現主龜次郎君が前代の業を繼いだのは三十三年頃からだと云ふ、因みに橫浜に於ける寄席の元祖は舊港崎町の
港座と云ふのが最初との事、」横浜成功名誉鑑

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