実門堂印章本店 太田町

奉祝記念誌
實門堂本店
ゴム印並に付属品製造
太田町2丁目23番地(370)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

大熊熊吉 太田町2丁目23番地「夫れ天才なる者は區々たる規矩縄墨の拘束するところに非るなり念ふに規矩準縄の覊束に依って行動するものは多くは尋常一樣の人物のみ古來俊傑の遺蹟に鑑みるに殆んど此定義觀察の誤らざるを見る故に其天才の趣向に基きて此を鞠育培養するに至れば不動の軔めて発揮するを獲べきなり君は慥に一個天才の人十四歳にして佐分利某氏の門に遊びて漢籍に心を潜むること三年有餘想ふに方今の時勢廣く海外泰西の事情に通ぜざるべからずと困って横濱に出で八雲井雲八氏の弟子となり英學を研精す在の日伊國人フェー氏の知遇を得蓋し君が賦性の英敏怜悧なる將來大に用ゆべきものあればなり偶々フエー氏の歸國に乗し師に謀り君を伴はんことを以てす師其志を嘆賞し君が決心を促す茲に於て師の好意に感激し進んで父の許容を求む當時父の境遇事情具志望を察すること能はず君慨然として嘆息す然も勃然たる英鋒は収むるに由なく時機の至るを待てり併這は百年河清を俟つの恨ありき事志と違ひ遂に畫餅に属したりしと云ふ君八雪井氏に在學の日學業の閑を偸んで篆刻の技をなす抑之が天才の流露する端緒にして曾て嗜好の末技なりしもの漸く進境に到り高田緑雲氏に贄を通じ後稲葉清峰氏に就きて共に彫刻の藝術を學ぶ日夕切瑳砥礪其術大に進む而して今日の名刻家たるに至る素由ありと云ふべし之より曩き君は醫家たらんことを望みしもならず其他種々の事業に指を染めしも意に満たず終に篆刻の城奥を究め廣民と稱し實門堂を以て屋號となす夙に斯界に錚々の誉あり君萬延元年二月東京新橋日吉町に生る父を勘十郎氏と云ひ其女子なり幼名は直彦後長じて今の名に改む吾人は更に妙技を揮って倍々社會に貢献せんことを希望して己まざる也」京浜実業家名鑑

彫刻家中の異彩 大熊熊吉「彫技は古來より我邦人の長所にして、觀光外人も常に嘆賞する所、吾橫濱市に於て此卓絕なる一名匠を有するは誇とすべきなり、實門堂主大熊熊吉君廣民と號す東京の人、明治三年十一歲にして當市に來り、明治十八年を以て開業す、初め八雲井雲八氏に從ひ英學を學び、又佐牙利芳齋氏の門に入りて漢籍を研究す、伊國人フェー氏は雲井氏の友たり、君の手工の技あるを見て深く威じ米國に伴ひ行きて長所を學ばしめんとす、君年少氣鋭、登龍門の好機逸す可からずとして之を乃父に計る、而かも許を得ず孝心深き君は断然是より心を彫技に潜め、高田禄雲、稲葉清峰二師に就って孜々屹々其蘊奥を究む、天稟は奪ふ可からず、果然二師をして出藍の嘆あらしめき、君の最も得意とする所は銅鐵彫刻にあり、蒼古にして瓢逸凡手摸倣し能はざるの雅趣あり、又君が多年の苦辛になりし壓搾文字深出機及打拔機械は、一般證券及記錄等重要書類の記數署名に代へて真贋を判別するの便あり、二機共に大阪博覽會に出品して有効賞狀を受く、其他一般の圖章彫刻ゴム印製造等、何れも堅牢にして精巧一家の風をなせり、」横浜成功名誉鑑

實門堂 大熊熊吉「堂主性巧緻細密天然的に印判彫刻の技能を有す加ふるに多年の琢磨と研鑽を以てす豈上達せすして可ならんや」京浜名家総覧


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横浜姓名録

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