港月堂菓子舗 太田町

神奈川縣案内
港月堂菓子舗
菓子製造販売
太田町4丁目61番地(317)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

港月堂菓子舗 小林清兵衛「朝日消露、五十鈴糖など云へる菓子は夙に甘黨の賞玩を博せるものにして、港月堂の名も随つて現はれたり、同店は明治二年六月の開業にして、初めは菓子と煙草とを兼ね商へり、日清役軍用麺鞄を納めて功あり戦地より賞状を賜ふ、三十二年舶来糖菓の輸入防遏と、緩急あるの日軍需用品の準備に資せん目的を以て、品川御殿山に東洋製菓株式會社を起し、三十六年内命により携帯餉糧の試製に従事し、日露役には全力を蓋して奉公の誠を致せり、朝日消露は其の紀念菓にして今は横濱名物の一となれり、年々勅題新菓を初め新案菓子の製造に腐心し、博覧會に出品して賞牌を受くる事數度、市內有數の店舗として注文引きも切らず馬車道に分店ありパン菓子を専門とす、其他數ヶ所の支店皆旺盛なり、現主清兵衛君は蒲田の人、明治三年の生にして創始以來二代目なり、商賣熱心にて世辭に富む、東洋製菓會社は創業以來の關係にして曾て取締役たり、君叉三十年頃より横濱吾妻社(胞衣埋葬業)を引受け獨力經營せらる、」横浜成功名誉鑑

小林清兵衛 太田町4丁目75番地「鮮麗佳味なる種々の和洋菓子算するに遑あらず進物用折詰用を調製し贈答品に好適の品種を販出して各所より續々注文ありと」京浜名家総覧職業

「製造場へ這入って見ると当店独特の竃が拵らへてある。釜へ平均に火が廻るのと、其餘力で湯を沸し使用すれば其容積だけ水道から自然に填補が出来るようになってゐるのとで、主人の考案に基いたのは云ふ迄もない。恁る事に迄創意があるのであるから、製菓の上にも何條それが現はれずにゐやう未だ流行し始めぬ数年以前から勅題に因む新菓を年毎に製造してゐる。卅七年二月に日露宣戦の布告せらるるや「朝日消露」と命名したものを売り出して好評を博した。平和が克服すると同時に消の字を松として「朝日松露」と爲し今尚盛に製造し、其他卅八年から「五十鈴糖」又昨春から「玉川」と云ふ新工夫のものを発賣してゐる。明治元年六月から現金門銀行のある處で営業してゐたのであるが、筋向ふの現在の處へは本年八月に移輾したのである。」実業之横浜

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