永井印房商店 太田町

横浜商況新報
永井印房商店
印刻
太田町3丁目44番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

修勒堂彫刻師 永井清三郎「山縣元帥、小村大使等歐米へ渡航さるる際名刺印刷の命を受け、爾來高官貴紳は必ず修勒堂の彫刻名刺を用ゐらるることとなつた、此名譽ある店主永井清三郎君は、彼の有名なる永代橋架換へ工事を請負ふた永井金三郎氏の實子で、大體からいふと父の箕裘を繼ぎて請負業をなして頭領といはるべきであつたが、幼少より兎角繊弱な質で、荒くれた仕事の出來そうにもない、それに生來器用で書畫に巧みである、そこで太田町稲葉といふ當市一等の彫刻家へ弟子入したが持て生れた手腕は恐るべき上達を早め、主人や高足の弟子どもも舌を捲くばかりである、十年の修業首尾よく勤めて獨立開店せしは、明治十八年の頃てあつた、常盤町五丁目から太田町通に移って、印判彫刻に加ふるに、鞄製造及雑貨商をも兼ねて、盛に營業を開始さるることとなつた、十年前我國に於て未だ見ざる精巧無比の銅版彫刻を創始し、名刺及び招待狀などに應用するに其雅致優秀なるは到底他の企及し能はざる處である、名聲は京濱上流社會に馳せ、昨年米國實業團體渡來の際の如きも一手に其の名刺を調製して大に賞賛を博されしといふ、」横浜成功名誉鑑

「稻葉の店を繼承して明治十八年に印刻業に従ひ、廿一年より革具類をも販賣し始めたので、其多くは鞄であるが今では餘り製造されない皮の疊鞄なども製造してゐるが店賣のみでなく新嘉坡、上海、露西亞などへ輸出を爲し此頃は印度迄手を延ばしてゐる。其外に銅版印刷をしてゐるが、これは薬品で腐蝕させる方のでは無く彫刻したのを印刷するので、文字が紙面より高くなる品の好いものである、多くは外人の名刺婚禮の招待状などの注文に接しているが、外人が外字新聞に注文するのを當店へ廻して來るので、外人は日本人が拵へるのでは無いと思ってゐるらしく、色々苦心の末近頃漸く歐文字形がその意に適ふやうになったのださうだ。」実業之横浜


神奈川県銀行会社実業家名鑑

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