神奈川縣案内 |
市川紙店
和洋紙商
太田町4丁目57番地(93)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
市川元八「管内消費の和紙は大略本舗の供給を仰ぐと謂ふも溢美にあらず土佐美濃各産地より直輸する荷數少からざるも消散異常にして忽に之を賣盡すといふ」京浜名家総覧職業
雁皮紙輸出の筆頭 市川元八「雁皮紙及びコッピー紙の輸出は實に市川商店主元八君を以て先輩とす、君は靜岡縣富士郡西比奈の人、弘化元年十月を以て生る、慶應二年卅餘金を懷にして郷里を出で橫浜に來り、明治元年微々たる店舗を元町に開き荒物紙類を鬻ぎ、雁皮紙等を首として取扱ひしに、益々需要を增加し外人より多大の注文を受るに至り、是に力を得てコッピー紙を作り輸出を試みたるに叉好結果を奏し、明治三年の頃には岐阜縣及び高知縣に製造所を設け盛に輸出を爲すに至れり、後現所に移り洋紙の引取文房具等の引取をも開始せり、然るに十八九年の頃商况不振に陷り如何とも爲し難き逆境に遭遇せしも、よく忍耐して鋭意挽回策を講じ、數年を經て漸く順當に向へり、よりて廿九年日本紙輸出合資會社を組織し業務擔當員となり、卅二年相生町洋紙部商行を設立し益々發展して今日に及ベり、君は橫濱商業會議所議員に列し、太田町校睦會長相生町睦會々頭に推されて其職に在り、」横濱成功名誉鑑
市川元八 太田町4丁目57番地「不屈不撓の精神を排して邃に目的を達し成功を遂げたるものを市川元八君となす君は弘化元年甲辰十月十五日靜岡縣富士郡西比奈の寒村に生る彌左衛門氏の二男にして家代々農を以て業とす君維新の際深く世運の推移に𥡴へ身を立て家を興すは商に如かずとなし窃に機の到るを俟ちしが慶應二年遂に意を決して飄然として横濱に来りあらゆる艱難辛苦の餘漸く三十有餘圓を得て明治元年十一月元町に一小舗を開き荒物紙類を鬻ぎしが是れ實に今日の隆盛を致したる基礎なりとす當時泰西諸国に於てライスペーパーと稱するコッピー用紙の需用多きを見本邦特有の雁皮紙を以て之れに代へんことを企て研究の結果遂に海外に輸出せしが 是れぞ我が國紙の歐米諸國に整價を博したるの嚆矢とす而も君が猛進勇邁の精神は更に紙質を改良して内外顧客の嗜好需要の適否を参酌し以て革新の實を擧げんとせんが天運是れに酬ひず十九年不幸にして頑固なる眼疾に罹りて容易に癒へず計畫之れが爲に齟齬を生じ加ふるに商況不振を来たし家道或は傾かんとするの時に當り煩悶憂慮の結果商勢を既倒に挽回する一に精神の堅否如何にあるを悟り百難千艱敢て屈せず身を挺んで、逆流に抗す是に於て君が企業に係る紙類の輸出漸次其の額を増加し内地の需要之れに伴ひ幾何ならずして家運順境に赴き事志と添ふに至る甘九年日本紙輸出合資會社を設立して業務搾當社員となり卅二年相生町に洋紙部商行を設置し愈々業務を措張して遂に今日の隆盛を致せり君今や横濱市會議員として能く其の職責を盡し横濱商業會議所會員となりて同市の實業に貢献し其の他太田町交睦會長として相生町睦會會頭として令名噴々たり」京浜実業家名鑑
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