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鈴木辨蔵商店
穀物輸入販売
太田町1丁目22番地(316)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
鈴木辨藏 太田町1丁目22番地「君は安政二年七月神奈川縣橘樹郡城郷村に生る父を嘉左右衛門氏と云ひ君は其二男なり家代々農を以て業とせり幼時君修學の傍ら馬を以て神奈川町に米を商ひ多少の利益を得しかば君始めて實業の面白きことを覺り十二三歳にして田舎より米を買入れ之を馬に積み神奈川町に賣り出したるに其利益頗る多かりしかば君は断然農業を廃して實業に従事せんものと十九歳の時神奈川町字青木町なる某商店に見習として店員となり熱心に其取引の模様を研究せしかば得る所甚だ多かりき是に於て君は愈々社會に打って出でんものと明治十九年十一月神奈川を後にして横濱に出で小資本を以て東町四丁目に米商を開業し一意専心經營に従事せり居ること二年にして二十一年には海岸通四丁目に轉じ以前にも増して勉勵せしかば店頭俄かに繁忙を来して大に利する所ありしかば新に建築して其所に移轉せり現住居即ち是なり而して其經營宜しきを得しかば次第に繁榮して遂に米穀貿易商となり業務を拡張してラングーンホンコンシンガポー ル等の米を直輸入して今や横濱市中屈指の大商家となれり又本年二月頃より本職の傍ら肥料販賣商をも營み是又繁昌せり人と爲り篤實にして勤勉且義俠心に富む曾て郷里の出征軍人に金百圓を送り木盃を下賜せらる又東北飢饉の際二百圓を贈り窮民を救ひ其他市内の慈善事業及び公共事業に盡力せこと甚だ多し而して今や財を積むこと甚だ多く九州鐵道日本鐵道炭鉱鐵道郵船會社東洋汽船其他数十個所の株主たり聞く不意の成功の爲めに興 味を與へられ其興味を追求して遂に大成功するもの世間其の人甚だ多しと不意の米賣にて成功し其を追求して途に今日の位置を得たる君も夫れ此類の人にあらざるか」京浜実業家名鑑
米穀肥料界の辣腕家 鈴木辨蔵「鈴木辨蔵君は橘樹郡の人、安政二年生、嘉左衛門氏の二男なり、君幼時修学の傍ら馬を以て神奈川町に米を商ひ、多少の利益を得しかば漸く商業の興味を感じ、断然農を廃し實業家たらんと志し、十八歳にして神奈川の某米店に入り、孜々として業務に勤勉し、大に主家の信頼する所となり、明治十九年一月に至り、小資本を以て本町四丁目に店舗を開き、錬磨せる手腕を振込ひ、不接不屈の精神を鼓舞し、商勢次第に膨脹せり、廿一年太田町一丁目に新築移轉し専ら貿易を経営す、蘭貢新嘉坡を主とし薹湾香港等よらも外国米を輸入 し活潑に營業せり、今日に至りては實に外国米貿易商中屈指導の辣腕家を以て目せらるるに至る、其他肥料は一般北清地方より直輸入をなし、其販路も頗る遠隔の地に擴張されつゝあり、君の家庭は頗る圓満にして、南大田町に別邸を構へ、男女八名の子福者にして、長男彦太郎氏は商業學校に在學し、成績頗る佳良なるは慶すべきなり、君本業の傍ら横濱織道、中央倉庫、横濱倉庫、東京鐡道、東洋汽船、日本郵船、北海道探鉱鐡道等の株主にして重役の地位にあるもの多しといふ、」横浜成功名誉鑑
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