旅館
太田町6丁目109番地(1309)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
淺田榮太郎 太田町6丁目109番地「世に立ちて功を遂げ名を成したるものの半生を叩けば皆耐忍持久以て同主に勤續すること多年以其勞を積むの比々として皆然り是に於て乎知る泛々として浮草の如く彼方に漂ひ此方に走り一定固着の態なきは到底成功の要素を備へざることを金港有数の實業家淺田榮太郎君の如きは又成功者の典型として後人の奮起を促すに足るものならんか君は慶應二年十二月兵庫縣武庫郡西ノ宮町に生る父を卯左衛門氏と呼び君は其の長男なり君幼にして四方を遊歴し各地の人情風俗に明かに諸國の景況に通ずる所あり明治二十年二月始めて横濱に出でて同市本町六丁目旅館廣島屋に入り店員となり鋭意熱心寒暑を厭ばず寝食を忘れて主家の爲めに盡瘁貢献すること十数年大に主人の信頼を得將來に囑望せられたりと云ふ明治廿九年五月獨立小資を以て相生町六丁目に旅館を開業し忠實と懇篤とを以て内外旅客を待遇せしかば家業日に日に繁榮して同三十一年五月には現所に移轉し今や内外汽船乗客並に軍用旅舍及鐡道荷物取扱所海陸廻漕業として市内屈指の豪商たるに至れりと云ふ君資性活潑にして敏捷物に停滞せず事を辨ずること恰も水の流るるが如く又仁俠同情の念に富みて貧民窮児を憐れむこと恰も骨肉の如きものあり殊に身は親しく主家に仕へて具に辛苦艱難を嘗めしを 以て雇人にする懇篤叮嚀を極め未だ曾て不親の熊度は一囘もなし金殿玉楼の裡に住む人は物の隣れを知らず艱難辛苦を嘗めたるの人始めて社會同情の觀念に富むと云ふは決して虚言にあらざるな り君は又三十四年より町内衛生組合委員となり三十七年より赤十字社々員となりて一意公共事業に貢献しつゝありと云ふに至っては誠に得易からざるの實業家なりと謂つべし」京浜実業家名鑑
讚岐屋旅舘 淺田榮太郎「人情風俗の機微を察せざれば旅館の營業はなし難し、君讚岐屋主人淺田榮太郎君は少小國を出で、諸方に流遇し具に辛酸を甞む、後橫浜に來り廣島屋旅館の店員となり、周到なる應接機敏なる處置巧に主客の間を斡旋し、十數年の久しき一日の如し、明治廿九年相生町六丁目に獨立開業して内外旅客を待遇し、日に月に盛運に際會し、卅一年五月現所に移轉し、汽船乘客軍用旅舎道荷物取扱海陸回漕業を營み、旭日冲天の勢あり、資性任俠にして苟くも不幸に沈淪する者あれば事の難易道の遠近を問はず救濟するを以て自ら快しとす、蓋し少壯間身を艱難に處せし結果より出しものならむ、叉公共の心に厚く、赤十字社々員及町内の衞生委員等に列し奔走盡力到らざるなし、近代多く得易すからざる人と云ふべし、君郷里は攝津西の宮にして、慶應二年十二月を以て生る、」横浜成功名誉鑑
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