荒木商店 荒木権太郎
コロップ製造業
相生町4丁目58番地(1473)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
荒木權太郎 相生町4丁目58番地「君は安政二年四月八日を以て長野諏訪郡原村柏木に生る荒木順左衛門氏の二男にして家は代々 農業を營む君は家業に手傅ふの傍ら同地の寺小屋に通ふて學を修め後山梨縣韮崎驛大横町糸屋國助方に奉公して同商を見習ふ居ること三年にして横濱に至り更に東京に来らんとせる途中にて不圖鄉里の知人と大森村に出會ひ其周旋に依りて同地の美濃屋甚兵衛方に仕へ海苔及肥料等の賣買を見習ふ居ること四年君郎ち十九歳の時に及びて同商の甚だ望みなきを悟り辞して東京に来り日本橋區品川町魚商松屋方に仕へて武州秩父郡大宮地方に魚類及び鰹節等を行商すること二年なりしが思はしきこともなかりければ業を廃して或は酒店に仕へ或は士官某に仕へ或は八百屋を營み或は牛肉或 氷等の販賣に従事し時には零落の餘り屑屋空瓶買等の如き賤業を迄營みしも君の商業に對する向上心は未だ曾て寸毫も衰退せず一勝一敗は人生の免れ得べからざるの運命と信じて榮へば勇み衰へば益々勇奮して數十年間京濱の間に往来して寸時も倦むことなかりければ幸運次第に囘り来りて明 治二十一年五月横濱市相生町に一家を起し熱心商業に従事したる結果家資次第に多きを加へ明治二十八年大資を投じてコロップ製造機械を購入し盛んに之を製出して大に世上の需用に便し三十三年には更に石版印刷機械を購入して印刷業を兼ね後 又酒類販賣用の器具一切の販賣を營むなど君の業務は数多の方面に向って著しき膨脹を致し家運隆々として笑え將來の発展驚くべきものありと云ふ世上無資無產にして實業界に雄飛して大成功を収めたる者其人に乏しからずと雖も君の如きは東西古今其倫を見ず云ふ不可なかるべし以て靑年立身の龜鑑となすに足らんか」京浜実業家名鑑
コロップ製造業 荒木權太郎「商業の秘訣は細心にあり、古來成功せる商人の傳記を繙くに盡く皆然らざるはなし、荒木商店主は信州諏訪郡の農家に生れ(安政二年)、明治元年東京に來り、或は商家の厮養となり、或は乾物の行商を爲し、叉は牛肉氷店天麩羅商等を營み、廿年間の奮闘的生涯多くは失敗に了れり、明治十八年橫濱に移り、始め海岸通にて旅館を開業せしが、廿一年に至り現所に轉じ內外艦船の空罎買入業を開始す、經驗せし幾多の事業よりも此の空罎買の一事實に君が今日あるの素因を作くれり、光村氏の立志傳と其揆を一にせる叉奇ならずや、君語りて曰く予は波穩やかに風和ぎたる日は必ず傳馬を艤して各船を歷訪し、雨强く風暴らき晨は家にあり罎栓コロップの製造を爲し時日を空費せざるに勉めたりと、この細心なる注意を以て次第に業務を擴張し廿五年艦船行商を止めコロップ製造専業となり、三十四年より更に石版印刷及酒類用器具一式の製造販賣を開始し、今日に至りては硝子罎商組合副組長に推され、儼然たる商人として一家をなすに至れり、君天性慈愛に富み、戰役の後援天災の賑恤に盡せしてと多く町内組合の委員及び公共的慈善的の團躰に加盟するもの十數、社寺建築等の寄附等も奮て力を致すと多く、篤實溫厚家庭圓滿にして七人の子女を哺育し、和氣靄々福德長者の風あり、澆季の世稀れに見るの德行者なり、」横濱成功名誉鑑
相生町の荒木商店「四丁目の中程のコロップ販賣店であって、創業は明治二十二年である。始めは外國船其他へ瓶の賣買をするのが本業であったのであるが、其中にコロップを商ふやうになり、當時餘り類がなかったので夫れが圖に當ったから、三十年に製造機械を据付け擴張を計って、原料は西班牙、葡萄牙などから輸入してドシドシ製造販賣をなし、酒瓶、薬種等總ての栓の需要に應じてゐたが、八年以前から酒樽の飲口、ペーパ、錐等酒類の附属品一切を賣ることにしたのである。ものがものだけにこれと云ふ特色も無かったやうであった。」実業之横浜
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