左右田銀行本店 南仲通

左右田銀行
銀行
南仲通1丁目2番地(436)
明治元年(1868)に両替店を開いたことに始まり、南仲通り1丁目2番地の本店を含め市内南仲通、松ヶ枝町、寿町と東京人形町通り、四日市市に支店を持つまでになった。昭和2年(1927)金融恐慌で取付け騒ぎにより休業に追い込まれ、横浜興信銀行に吸収合併された。
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「東京に支店を有し業務確實比類なしとの好評あり盖し貿易地の金融機關業として機敏信用は本行の獨専なり貯蓄額第一を以て數ふに足る」京浜名家総覧職業

左右田金作 月岡町1丁目3番地「横濱の紳商左右田金作君は上野國綠野郡鬼石町 左右田金兵衛氏の次男にして嘉永三年十月十日の出生なり其先は越後刈羽郡吉井村の豪農にして世 々里正たりしが君が祖父の代に至り家道漸く衰へ父君金兵衛氏は小資を携へて上州鬼石町に移り雜貨店を開業す君年甫十歲隣村高柳村酒造家某の丁稚となり幾くもなく更に轉じて中仙道本庄驛鹽魚問屋某の店員となりしが未だ幾くならず君其酷苦 に堪へずして家に帰るや父大に誡めて徳川家康の遺訓を讀ましむ遺訓に曰く人の一生は重荷を負ふ て遠く歩むが如し云々と君之を読んで其忍耐の足らざるを悟り爾来再誦して忘れず年十三父に請ふて横濱に出で故郷の知人中里某の支店に入り刻苦勉勵數年一日の如く主家の信用を博する厚きものあり後ち主家の工事請負をして失敗するや君大に之を憂ひ支配人某と共に只管恢復策を劃し取引残額を集めて蠶絲買入の方法を講じて僅に之を支ふ後ち故あり辭して歸國し生絲蠶絲の製造を研究し父兄故舊等に謀り五十金を得て熱心之が賣買に従事す又武州熊谷に在りて蠶紙の製造を試み之を舊主家に輸して大に将来に期する所ありしも復た失敗を招きて再び主家に寄食するに至る己にして小資を得空壜の買収に着手し終日奔走得る所を擧げて夜に入るや之を露店に陳列し以て僅かに糊口に資したり後ち知人の勸に逢ひ衣類を典して甘五金を得是より專心洋銀仲次業に従事す明治七年十月始めて両替店を南仲通りに開く九年生絲非常に騰貴從て洋銀の低落するや君期する所あり果して巨萬の羸利を博す爾来銀行業に會社業に諸般の公職に關係する所頗る多し蓋君が今日の盛業を致せる者君の自助の功に非ずして何ぞや本年日露戦役の功に依り勳四等瑞寶章を賜はる」京浜実業家名鑑

左右田家の基業 左右田銀行「左右田銀行は左右田兩替店より脫化し來りたるなり、行主金作君明治元年兩替店を開き、次第に繁盛を極むるに及び、商機に敏なる君は先づ大に土地を買收し巨利を博せり、爾來左右田商店の名は橫濱商業界に重きを致し信用倍々增進せり、廿八年九月一族の合資組織に改め資本金を卅萬圓と定む、親切にして叮嚀なるは左右田銀行の營業振りなるべし、普通御役所然たる態度に反し、前垂れを掛けん計りに腰低く言葉柔らかに、行主も自から行員とゝもに顧客に接して如才なし、而かも信用確實にして且つ勉强銀行の名忽ち高く、積立金三十五萬圓、預金高五百萬圓弱に達す、市内に三ヶ所及び東京と四日市に支店あり、左右田喜一郎、同棟一、同信二郎、鈴木左馬次郎の諸君及び頭取金作君業務擔當社員にして、信二郎氏は支配人を鈴木氏は副支配人を兼ぬ、」横濱成功名誉鑑

銀行家の好典型 左右田金作「左右田銀行頭取として金港實業界に名望隆々たる左右田金作君は嘉永三年上州鬼石町に生る、其先は越後吉井村の豪農にして里正たり、年十歲隣村の酒造家に丁稚となり、更に中仙道本庄驛の鹽魚問屋に奉公せしが、労苦に堪へずして家に歸り大に父君に誡めらる、發奮一番父に請ふて横濱に來り、郷里の知人なる引取商中里某の店に入り刻苦勉勵大に信用を博す、後主家の失敗して落塊するや君支配人と共に恢復策を講じ、取引残額を集めて蠶絲を買入れ僅に一時を支ふ、後辭して歸國し製糸の術を研究し之が賣買に従事し、又武州熊谷に出でて、種紙の製造を試み、之を奮主家に致して将來に期する所ありしが、復た失敗を招きて再び主家に寄食せり、既にして小資を得、空壜の買集を爲し夜は之を露店に陳列して僅かに糊口に資せり、偶々知人の勸に従ひ衣を典じて廿五金を得、洋銀中次業に着手せり、之れ君が成功の端緒にして、機に投じ變に應じ畫策其宜きを得次第に隆運に向へり、明治元年始めて南仲通りに一小店を借りて兩替店を開く、九年生絲騰貴洋銀暴落の機に乘じて一攫巨利を博せり、階段漸く一步を進め、隨ふて得れば隨ふて守り、或は土地を買收し或は家作を新築し、益々資產を増殖せり、明治六年西村喜三郎一田中平八二氏と謀り、洋銀取引所を設けて肝煎となり、後義弟五兵衛氏と共同して東京兜町に松野屋株式仲買店を開く、二十五年茂木惣兵衛氏と共に絹綿紡績工塲を保土ヶ谷に設け、本社を横濱に置き其社長と爲る、廿八年左右田銀行を卅三年同貯蓄銀行を創立して金融界に活躍を試み、信用確實にして勉强無比の稱あり、業務日に盛大に赴き各地要所に支店を置きて、本市銀行界の宿老を以て目せらるるに至れり、公人としては貴族院議員、縣會議員、市會議員、横濱商業會議所常務委員に歷任して令聞あり、日露戦役の際献金應債の功顕著なりしにより四等瑞賓章を賜はる、閣係事業としては利根運河會社及商品倉庫の重役等に止まり、銀行設立の後は専ら自家の本領を守り、決して他の推選に應ぜず孜々行務に恪勤し、親しく行員を督勵して慎重顧客を優遇せしむ、眞に銀行家の好典型たり、君曾て絹線紡績會社々長として就任中、遇々不幸にして一萬六千餘圓の缼損を生ぜしことあり、自ら責を負ひ私財を擲ちて之を補填せしかば、株主皆之れを徳としたり、以て君の人格を知るべし、君今や年歯漸く高し、而かも精力旺盛、今夏渡米實業團中に加はりて海外観光の途上にあり、歸來齎らす所果して何物ぞ、鳴呼一芥の小厮より起りて幾多の辛酸労苦を嘗め、顚沛流離具さに艱難と奮闘し終に隆盛宏壯なる大銀行の頭取となり、儀容儼然たる老紳士となる、左右田金作君の如きは實に立志編中屈指の傑人なるかな、」横浜成功名誉鑑


左右田金作と信二郎

神奈川縣案内誌

シルク

1 件のコメント:

  1. 私の曾祖父がシルク会館内で経営していた会社はこの銀行のとりつけ騒ぎで破算したと聞き及んでいます。

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