奉祝記念誌 |
木村商店
生糸貿易商
弁天通2丁目32番地(23)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
木村利右衛門 弁天通2丁目32番地「君は横濱商業家出身にして温厚篤實の士奇利を一時に制して富を求むることを敢てせず孜々漸を以て進取するの人なり故に平沼伏島氏の如く一朝にして幾百万の資産を興さざりしも本業なる蠶絲商の外に横濱正金銀行の設立せらるゝや其支配人より身を起し重役取締役に昇り一時は頭取の事務をすら司りたるが近來原頭取と共に實務を新進の名士に譲りて己れは取締役に退き行務を監督すと云ふ右の如く君は實業界に貢献するのみならず一方にありては横濱地主派の副頭領とも目すべき地位を有し商人地主兩派共君に負ふ所多く横濱實業界の重鎮として他日両派を統合して以て大に爲す處あるべきを期せり今や君は横濱に在りて縣市會議員商業會議所議員等の公職を負ふて公共のに盡瘁すること多きは勿論現に神奈川縣多額納税者の互選を以て貴族院議員たり蠶絲及屑絲賣込商を以て本業として着々其歩武を進めつゝありといふ其他明治二十六年には横濱株式米穀取引所を起し其理事長に捧げられ同二十九年には横濱電線製造會社を組織して社長となり又横濱貿易倉庫會社の取締役東京瓦斯紡績株式會社取締役横濱共同電燈會社長等に推されて大に市民の重望を得たり横濱に於ける三名士の一人にして地主派としては平沼專藏氏商人派にしては大谷嘉兵衛氏其兩派に勢力ある人としては君を推すもの蓋し偶然にあらざるなり後貴族院議員をして今は閑地に就かれたり故に茲に君の傳記肖像を公錄して一には君の徳行信用を表旌し一には後進立身の龜鑑たらしめんと欲す君資性謙抑退讓其の閲歴の如きは口を鍼ぢて肯て語らず是れ吾人の君が小傅を草するに當り讀者をして森を隔て明月を望むの憾あらしむる所以なり讀者請ふ焉れを諒せよ」京浜実業家名鑑
實業界の明星 木村利右衛門「寧靜木村翁としては麗篇瑰句立どころに成り落寞たる文壇頓に活氣を生じ、利右衛門君として實業界に立てば敢為遇進其鋭鋒匹儔なし、當代稀に見る人傑なる哉、君は天保五年上總君津郡木櫃村に生る、夙に横濱に移輾して蠶絲貿易洋絲織物の引取を兼營し、眞撃篤實徐々漸を追ふて其の歩武を進め、遂に巨商の列に入り、或は市縣會に商業會議所に、或は貴族院議員とし市縣及び國政に貢献する處甚だ多し、往年地商両派の政争に際しては、君は地主派の副頭領として一方の雄鎮たりき、實業界に於ては明治十三年横濱正金銀行創設の際其取締役に挙げられ、其支配人を兼ね、今現に取締役たり、甘五年横濱共同電燈會社『今の電気會社』長に、甘六年には横濱株式米穀取引所を起し其理事長に挙げられ叉電線製造會社を組織して其社長となり、廿八年東京瓦斯紡績會社取締役に卅年横濱貿易會社々長に推され、温健沈毅の一明星を以て重んぜらる、君今や店務は令嗣重太郎氏及び養子庫之助二氏に委し、各主宰者より報告を受けて裁斷を下すに過ぎず、功成り名遂げ、 悠々自適時としては山野に煙霞を探り或は江海に白頭翁と伍す、愛玩する所の書畫骨董叉以て天下の珍とすべきもの少なからず、舊稿征露詩稿は句々熱誠迸り一唱鬼神を感ぜしむるもの多しといふ、」横浜成功名誉鑑
「生糸貿易商として知らる、店主木村利右衛門氏は正金銀行其他会社銀行の重役として名を実業界に馳すると共に同商店の信用も亦頗る厚し同店は生絲貿易の外洋絲織物取引商を兼ね市内知名の大商店なり。」現代之横浜
木村利右衛門「同氏の名は天下に高く篤実温厚の君子を以て横濱紳商の泰斗たり其營業は織物洋絲の引取にして辨天通の店は其本舗なりとす」京浜名家総覧職業
現代之横濱 |
横浜商品日報 |
0 件のコメント:
コメントを投稿