横浜電線製造株式会社
電線製造業
裏高島町2丁目6番地 裏高島町2丁目4番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書
「明治二年『テレグラフ』の名を以て電信を輸入せしより四十餘年の間に。國中の天空を蜘蛛手と張りし電線は悉く外國品なるを遺憾とし。山田與七本業を始め失敗せしを引継ぎ今日は完全に輸入を防遏するの域に進めり。其規模の宏大なる事外見にては明ならず。職工千餘人を使役するを以て想像に足らん。」横浜商業遊覧案内
「橫濱の工業中海外の輸入を防遏し內地の需要を充足して益々進步發展し進んで 海外に輪出し外品と競爭して勝利を占め好評を博し着々奏功しつつあるを横濱電線製 造株式會社の製造に係る電線なりとす、同會社は明治二十九年六月木村利右衞門、大西正雄の 諸氏經營の許に資本金五萬圓を以て裏高島町に設立せられ當時の販賣額は一箇年僅かに參萬圓 に過ぎざりしが社會の進步發達は電線の需要を喚起し加ふるに經營者の方針宜しきを得たるより事業歲と伸び漸々隆盛に向ひしが明治四十三年に至り同會社は木村利右衞門、大西正雄等諸 氏の手を離れて現社長中島久满吉常務取締役櫻井貢吉の二氏主として經營に任ずることとなり一變革を與へたり、 此變革は會社の面目を一新せしめ現在幷に將來の電氣界に對し大に活躍を爲すの方針を以て事業をば進捗せしめたり、されば 四十二年の販賣額は九拾四萬圓なりしもの四十三年卽ち現在の經營者の手に移りたる歲には一躍貳百貳拾萬圓を越え大正元年には參百九拾參萬圓に進み同二年には七百萬圓を越え其壹千萬圓に達するも近からんとす、其隆々たる發展驚くべき進步は本邦工業中に在りても蓋し尠なかるべし、其斯界獨占の評ある宜なりと云ふべし、會社の製品は護謨(綿絲其他) 絕綠電線電纜二十九種、紙ケーブル線十四種、ショイントボックス二種なり會社の資本は貳百五拾萬圓にして工場は裏高島町の外西平沼町に紙ケーブル工場及び大阪尼ヶ崎に分工場あり、出入の職工は男女干二百を越へ勞働時間は十時間を嚴守しケーブ ル工場の外夜業を爲さず賃銀は男工六拾五錢女工參拾九錢を平均支給し休日は隔週日曜 日となし臨時休業には四割の賃銀を支給せり、又職工の待遇は我國幾多工場中同會社の右に出づるものなく模範工場として先進國の工場と比して遜色なく會社が純益に對し資本勞力均等主義を採り利益折半を實行すべき機あるべきを期せり故に職工の異動は殆んどなく會社と職工間 の關係は圓満にして常に家族的関係を持続せり。同會社の將來は大に支那販路の擴張に在り又一方に紙ケーブルの製造を盛ならしめ同品の輸 入を防遏し進んで販路を海外に求めんとするの 抱負を有せり、同社の工務幹部は工務部長工學士笠島勝次郎氏技術部長工學士橫山正二氏器械部長工學士吉永清太氏研究部長工學士小室泰治氏あり又英人ダニールコイル氏願間として三十年以来同社の爲に大に力を致せり其他新進気鋭の学校出身者十數名を傭聘して發展に全力を傾注せり」現代之横浜
電線製造業 橫濱電線製造株式會社「本邦電氣事業の勃興に連れ其電線の供給を爲し、外國の輸入を防遏するの目的を以て、明治廿九年七月始めて高島町五丁目に設立せられ、卅五年五月現在地に移轉せる該會社は、其始め明治廿年の頃山田與七氏の個人營業を買收せるものにして、當初は木綿被覆線の製造より始め漸次技術の進歩するに隨ひ、三十三年技師を英國に派遣し、斯業の視察及び器械の購入を爲さしめ、卅八年には更に大擴張を爲して技師を米國より雇傭して指導監督の任に當らしめ、工塲の擴張器械の選擇を爲し、四十年全く竣了せり、現在資本金一百廿萬圓にして事業益々發展の隆運に在り、専務取締役社長木村利右衛門君、常務取締役は櫻井貢吉君、同兼特別顧問は大西正雄君、渡邊、平沼、若尾、大谷、高島等の紳商及男爵中島久滿吉君重役として其任に當る、」横濱成功名誉鑑
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